artscapeレビュー
2015年08月01日号のレビュー/プレビュー
田中秀介「私はここにいて、あなたは何処かにいます。
会期:2015/06/30~2015/07/12
Gallery PARC[京都府]
個性豊かな具象絵画で早くから美術関係者の注目を集めていた田中秀介。具象と言っても彼の場合、多分に心象を含んだ情景で、一種の妄想あるいは切迫した心理を描いたものであった。しかし本展で彼が発表したのは、身の回りの情景を描いた日常的世界であり、その点でこれまでの作品とは趣を異にする。特徴的なのは筆さばきの達者さで、特にスピード感のある横方向のストロークを重ねた色面は快感を覚えるほどだった。つまり田中は転向した訳だが、筆者が思うに、この転向は歓迎すべきものである。旧作と新作を比べてみると、新作のほうが明らかに伸び伸びとしており、作家の資質が素直に出ているからだ。観念的な呪縛から解き放たれ、私小説的世界に新たな活路を見出した田中。これからの飛躍に期待大である。
2015/07/04(土)(小吹隆文)
高松次郎 制作の軌跡
会期:2015/04/07~2015/07/05
国立国際美術館[大阪府]
近年、展覧会が複数開催され注目を集めている前衛芸術家/高松次郎(1936-98)の大規模な回顧展。本展の特徴は、絵画・版画・立体作品だけでなく、ドローイングが多く、約280点展示されていること。ドローイングとはそもそも作家の思考と作品の構想を表わすものであるが、それが年代順にたくさんみられることで、作家自身が制作した作品表現の発想と応用の変遷を詳細に検討することができる。高松のシリーズ作品は、「点」「影」「遠近法」「単体」「複合体」「平面上の空間」「形」と本展の展示テーマが名付けるような、人間の視覚とものの認識・世界の把握の仕方に関わる、いわば理論的な仕事ともいえるだけに、大量のドローイングを整理し直して作家の仕事を解釈し、展覧会を構成した意味は大きいだろう。特に今回は高松の「装丁」の仕事も多く展示されており、ドローイングから装丁デザインへと展開していった、互いに連関性をもつ作品群を見て取ることができる。作家の思考の読み解き、作品の謎解きをすることができるたいへん刺激的な展覧会。[竹内有子]
2015/07/04(土)(SYNK)
山本作兵衛の世界
会期:2015/06/06~2015/07/26
福岡市博物館[福岡県]
筑豊の炭鉱画家、山本作兵衛(1892~1984)の回顧展。世界記憶遺産に登録されてから、改めて再評価の機運が高まっているが、本展は、質的にも量的にも、これまででもっともまとまった良質の企画展であった。それは、これを企画したのが「美術館」ではなく「博物館」であったということと、おそらく無関係ではない。
展示されたのは、画用紙に水彩や墨で描かれた炭鉱画の原画をはじめ、関連する映像、炭鉱で使われていた機械や器具、筑豊の鉱山を示す地図など、160点あまり。それらが明快な展示構成によって整然と展示されていた。坑道を模した入り口から会場に入ると、石炭の塊が出迎え、野見山暁治が描いたベルギーのボタ山の絵や吉田初三郎による鳥瞰図が続く。その後も、作兵衛が描いた炭鉱労働の器具を実物とあわせて展示したり、菊畑茂久馬が美学校の生徒とともに制作した300号の「炭坑模写壁画」の9枚すべてを同一の壁面に並べて展示したり、酸性紙に描かれた炭鉱画の劣化を防ぐための保存研究の技術と成果を発表したり、あるいはサッカー日本代表の内田篤人が所属するドイツのブンデスリーガの「シャルケ04」が元来炭鉱のクラブであり、現在でも節目のセレモニーでは選手たちが坑内に下りるという逸話を紹介するなど、展示の随所に工夫が凝らされていた。作兵衛の原画だけでなく、それらに関連する文化表現やそれらを包括する社会的な背景を総合的に見せていたのである。なんであれ「美術」に回収しようとする美術館では期待できない、博物館ならではの優れた展観であった。
しかし、そもそも作兵衛の炭鉱画は、本来的に従来の「美術」の範疇に収まらない。水彩の技術は稚拙であるし、人体表現のデッサンも精確とは言えないからだ。しかも、余白を埋め尽くすほどの文字によって絵を図解している点も、色彩や線、形態を重視する反面、物語性や文学性を排除するモダニズムの基準から大きく逸脱している。にもかかわらず、作兵衛の絵が来場者の視線を釘づけにしてやまないのは、いったいどういうわけか。
それは、本展の企画者で同館館長の有馬学が正確に指摘しているように、作兵衛の絵が「肯定の思想」に貫かれていることに一因があることは間違いない。どれほど過酷な炭鉱労働であれ、暴力的な事件であれ、作兵衛はそれらを否定的にではなく、あくまでも肯定的に、すべての人間存在を肯定するかのように描いている。実際は暗い坑内をあえて明るい光と色彩で描いたのも、その肯定の思想の表われであろう。しかし、それだけではあるまい。
山本作兵衛の炭鉱画は、一般的には、アウトサイダーアートとして考えられがちである。作兵衛が美術教育を受けておらず、その絵のありようも絵の主題である炭鉱も、近代の基準からすれば「外部」にあるからだ。だが作兵衛の絵には、いわゆるアウトサイダーアートの特徴である、他者を顧みない排他的な独善性は一切見られない。むしろそれは、炭鉱について何も知らない私たち来場者の耳に届くように、丁寧に語りかけている。声は聞こえずとも、その絵の前に立つと、作兵衛の語りを聴いているような気がするのである。だからこそ私たちは、作兵衛の語りに耳を澄ますかのように、その絵に視線を注ぐのだ。しかし、絵というものは、本来的に、そのようなものではなかったか。
山本作兵衛の炭鉱画は、近代にとってのある種の原点を示している。炭鉱が日本の近代化を支えた産業だったからではない。作兵衛の絵は、近代以後の美術の展開からすると、アウトサイダーアートとして括られるが、同時に、その展開との距離を計測するための座標軸になりうるからだ。近代社会ないしは近代絵画がどれほどの距離を歩んできたのか、あるいはより直接的に言えば、いったい何を失ってきたのか。私たちは作兵衛の語りに耳を傾けながら、そのことに思いを馳せるのである。山本作兵衛の炭鉱画は、近代遺産へのノスタルジーではないし、あまつさえ近代礼賛のセレモニーでもない。それは、「近代」の実像を把握するための、すぐれて批評的な文化表現なのだ。
2015/07/05(日)(福住廉)
スピリチュアルからこんにちは
会期:2015/04/30~2015/07/20
鞆の津ミュージアム[広島県]
いわゆる「スピリチュアル」系のアート作品を集めた展覧会。参加したのは、アーティストのRammellzeeや宇川直宏をはじめ、障害福祉施設で暮らしたり、そこに通ったりしている人びと、さらには宇宙村村長や創作仮面館創設者、珍石館館長など、13名。いずれも何かを創作していることに違いはないが、「アート」ではなく「精神世界」を中心にした選定である。
全体的な印象からいえば、いわゆる「アウトサイダーアート」として括られるような創作物が多い。それらに通底しているのは、精神障害、占星術、神霊、あの世など、いずれも近代社会にとって排除の対象である「外部」にほかならないからだ。生ぬるい鑑賞者を寄せつけないほど強力な唯我独尊のオーラを放っている点も、良質のアウトサイダーアートと共通している。
しかし、個別の出品物をよく見ると、そこには必ずしも自閉的で独善的なアウトサイダーアートとは言えない特質も含まれていることに気づかされる。それが「交信」である。むろん、宇宙を主題とした一部の出品者が宇宙や地球外生命体との交信を図っている点は改めて言うまでもあるまい。けれどもその一方で、必ずしも宇宙に関心を注がなくとも、交信を試みている者がいないわけではない。
栃木県の那須高原にある創作仮面館は、およそ2万点の創作仮面を陳列する私設博物館。主宰する岡田昇によってつくられた創作仮面が、建物の内外を埋め尽くすほど飾りつけられている。しかも岡田昇本人も創作仮面を着用しているほどの徹底ぶりだ。本展会場では、4面の壁面にそれらのおびただしい創作仮面が展示され、あわせて平面作品なども発表された。
岡田本人が仮面を着用していることが如実に物語っているように、仮面とは素顔を覆い隠すことで仮の顔を仮設するものである。その意味で、来場者との「交信」は端から放棄されているように感じられないでもない。斜視の子どもを描いた平面作品にしても、こちらと視線が決して交わらないことが、そのような「交信」の断絶をよりいっそう実感させている。しかし、にもかかわらず、おびただしい数の仮面に囲まれていると、必ずしもそのような拒否の意志に苛まれるわけではないことに気づく。むしろ、仮面をとおして、何かしらの「交信」が働きかけられているようにすら感じられるのだ。
それは、岡田がつくる仮面が日用品や廃棄品を再構成したある種のアッサンブラージュであり、その素材の親近感が来場者との距離を縮めているとも考えられる。だがより根本的に考えれば、そもそも「美術」は、言ってみれば、そのような仮面を挟んだ非言語的なコミュニケーションの一形式ではなかったか。言語的なコミュニケーションのように、正確無比な意思疎通が可能になるわけではないにせよ、どんな「美術」であれ、ある種の「仮面」を内蔵しているのであり、その制作と鑑賞は「仮面」の此方と彼方の交信と言い換えられるからだ。その意味で、岡田の創作仮面は、アウトサイダーアートの一種というより、むしろ美術の王道を体現していると言えよう。
「コミュニケーション・アート」や「関係性の美学」という新語がいかにもいかがわしいのは、それが臆面もなく同義反復を犯しているからにほかならない。美術とは、その言葉の内側に、本来的にコミュニケーションや関係性を含みこんでいる。この自明の理を、岡田の創作仮面は仮面の向こう側から控えめに照らし出しているのである。
2015/07/05(日)(福住廉)
木野智史「夕凪」
会期:2015/07/07~2015/07/19
ギャラリー恵風[京都府]
ロクロ成形と磁器にこだわりを持つ木野智史。彼は約2年前から「颪(おろし)」と題したシリーズに取り組んできた。これはロクロで円環を作った後、半乾きの状態で一部をカットし、手でひねりを加えるなどしたオブジェだ。風や水流を思わせるフォルムと白い地肌、青磁釉の組み合わせが研ぎ澄まされた美を醸し出している。本展では、この「颪」が更なる発展を遂げた。2つのパーツが巴形に絡まった形状の《颪(眼)》である。また、焼成前に作品の一端を水につけることで、部分的に崩落を生じさせる《潮汐》という作品も出品されていた。さらに、鉢の口縁部に漆を施した新系統の作品《茜》も発表。一度に3種類の新機軸を発表する攻めの姿勢で、作家としてのポテンシャルをまざまざと見せつけた。
2015/07/07(火)(小吹隆文)