artscapeレビュー

2017年09月15日号のレビュー/プレビュー

野村佐紀子「Ango」

会期:2017/08/15~2017/09/17

PETIC SCAPE[東京都]

町口覚が新たに編集・造本した『Sakiko Nomura: Ango』(bookshop M)は、1946年に発表された坂口安吾の短編小説『戦争と一人の女』に、野村佐紀子の写真をフィーチャーした“書物”(日本語版、英語版、ドイツ語版を刊行)である。まさに町口の渾身の力作と言うべき写真集で、そのグラフィック・デザインのセンスが隅々まで発揮されている。ページが少しずつずれるように製本されているので、写真そのものも台形にレイアウトされており、ページをめくっているとなんとも不安定な気分になるのだが、それはむろん計算済みだ。文字のレイアウトにも工夫が凝らされており、薄いグレーのインクで印刷されているのは「女は戦争が好きであった」など、GHQによる検閲で削除された部分だという。森山大道と組んだ『Terayama』や『Odasaku』などで練り上げてきた町口のデザイナーとしての力量が、全面開花しつつあることがよくわかった。
野村の写真、それにPETIC SCAPEの柿島貴志による会場構成も、それぞれの代表作と言いたくなるほどの出来栄えだった。野村の写真シリーズで、女性を中心的に描かれるのはかなり珍しいことだが、今回は戦時下をしたたかに、「肉慾も食慾も同じような状態」で体を張って生き抜いていく「一人の女」を取り上げた安吾の小説にふさわしい内容になっている。デスパレートな雰囲気を漂わせる風景写真との組み合わせもうまくいっていた。柿島の会場構成は、写真集の台形のレイアウトを活かしてフレーミングしたゼラチンシルバープリントと、文字を配した大きめのインクジェットプリントを巧みに組み合わせ、観客を作品の世界へと引き込んでいく。町口も野村も柿島もむろん戦後生まれだが、それぞれの「戦争」に対する身構え方がきちんと打ち出されていて、気持ちのいい作品に仕上がっていた。

2017/08/18(金)(飯沢耕太郎)

七菜乃「My Aesthetic Feeling」

会期:2017/08/11~2017/08/20

神保町画廊[東京都]

主にヌードやコスプレで撮影される「特殊モデル」として活動していた七菜乃(なななの)は、2015年ごろから撮る側に回るようになった。神保町画廊で最初に開催した個展「裸体というドレス」(2015)では、「セルフヌード」作品を展示したのだが、次の「私の女神たち」(2016)では、ほかの女性モデルたちにもカメラを向けるようになった。今回の神保町画廊での個展「My Aesthetic Feeling」でも、前回に続いて「集団ヌード」の撮影にチャレンジしている。
今回は「裸は単に裸で、もともと裸体に特別な意味はない。ただ私の美意識がそこにあるだけ」ということを表現したかったというが、たしかに、都内のスタジオで11人のモデルたちをヌードで撮影した写真には、気負いのない、自然体の撮影の仕方が貫かれている。窓からの自然光で浮かび上がる室内の空気感はまったりとしていて、ことさらにポーズをつけない、あるがままの「裸」のあり方がとてもうまく定着されていた。デジタルのほか、フィルムやチェキでも撮影しているが、その淡い色味や粒子の感触もしっかりと使いこなしている。そう考えると、モデルとして「撮られる」側の心理や身体の置きどころを心得ているということは、「撮る」立場になった時には、かなり有利に働くのではないだろうか。いまの方向を突き詰めていくことで、日本ではあまり例の見ない、複数の裸体が互いに反響していくような「集団ヌード」の可能性が、もっといろいろな形で拓けていくのではないかと思う。次の展開も楽しみだし、このシリーズはぜひ写真集にまとめてほしい。

2017/08/18(金)(飯沢耕太郎)

志賀理江子 ブラインドデート

会期:2017/06/10~2017/09/03

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]

今回の展示の中心になる「ブラインドデート」は、2009年の夏にタイのバンコクで撮影された作品だ。展覧会の準備のためにバンコクに滞在していた志賀理江子は、二人乗りのバイクに乗るカップルの女性たちが自分に向ける強い「眼差し」に興味を持ち、それらを「集めてみたい」と考える。知り合ったタイ人の女の子とそのボーイフレンドに協力してもらって、ひたすら夜の街でバイクに同乗するカップルに声をかけ、車で併走しながら写真を撮り続けた。
そのうち「背後から目隠しをして走り続け心中した」というような事件があったのではないかという「妄想」が湧きあがってきた。調べると実際にはそんな事件はなかったようなのだが、それをきっかけとして「目が見えない」というのはどんなことなのかと考えるようになる。タイでは生まれつき全盲のカップルのポートレートも撮影した。その時に盲目の女性が語った、世界中のすべての宗教の生死についての解釈が「私には当てはまらない気がするのです」という言葉に衝撃を受ける。写真家として、視覚に強くかかわる仕事をしている彼女にとって、まったく異質な世界があることに気づいたのだ。
だが今回の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での展示は、その「ブラインドデート」のシリーズだけに留まるものではない。会場には21台のスライドプロジェクターが並び、さまざまな画像が壁に投影されている。その多くは2012年にせんだいメディアテークで開催された「螺旋海岸」展以降に撮影されたものだ。プロジェクターが画像を送る時の機械音、点滅する赤い光、会場の奥の一角には、臨月の時にエコー検査で録音したという心臓音が響いてくる。さらに最後のパートの壁には長文のメッセージが掲げられている。彼女が今回の展示でもくろんだのは、単に写真を見せるだけではなく、視覚、聴覚、触覚など身体感覚のすべてを動員し、映像も言葉も一体化するような全身的な体験を、観客とともに味わうことだったのだ。
そこから浮かび上がってくる、今回の展示のメインテーマというべきものは「弔い」と「歌」である。志賀は展覧会開催にあたって「もしも、この世に宗教もお葬式という儀式も存在しないとしたら、大切な人が亡くなった時、あなたはどのようにその方を弔いますか?」という問いに対する答えを、アンケートのかたちで募集した。その回答の一部は会場の最後のパートに掲げられているのだが、そのなかに「思い出す、思い出す、思い出す、思い出す、飽きるまで」というものがあった。この死者を「思い出す」ことこそが、写真という表現行為の根幹にあるという考え方が、展示の全体に貫かれている。
もうひとつの「歌」については、まだ明確なイメージは掴み切れていないようだ。だが、いまはまだおぼろげではあるが、もしかすると、歓び、哀しみ、怒りなどを体現した「歌」を求め続けることが、彼女の写真家としての営みの中心になっていくのではないかという予感が僕にはある。東日本大震災以後に、2008年以来住みついていた宮城県名取市北釜を離れ、結婚、出産を経て、いまは宮城県小牛田で制作活動を展開している彼女の「次」の展開が、しっかりと形をとりつつある。

2017/08/20(日)(飯沢耕太郎)

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笹川治子「リコレクション─ベニヤの魚」

会期:2017/08/25~2017/09/17

Yoshimi Arts[大阪府]

笹川治子は、祖父が陸軍の特攻隊に送られた時の証言や資料をもとに、彼が目撃したというベニヤ板製の人間魚雷を制作している。ツギハギだらけで今にも壊れそうなベニヤ製魚雷の周囲の壁には、取り巻くように海辺や島の写真が(上下反転して)貼られている。これらの写真は、広島県の似島、江田島幸ノ浦、香川県の豊浜、小豆島など、陸軍の訓練施設があったといわれる場所を笹川がめぐって撮影し、祖父が見たであろう風景を収集したもの。人間魚雷の中は空洞になっており、取り付けられた潜望鏡を覗き込むと、(レンズ越しに上下が正しい向きで、だがぼんやりと)海辺の光景の写真が見える。その曖昧にぼやけた像は、祖父の記憶の中のおぼろげな光景とも、過去そのものに触れられないもどかしさともとれる。不鮮明さの印象は、会場内に響くくぐもったノイズ(出撃地点の浜辺で海中の音を採集)や、粗いモザイクのかかった海中の映像(と思われる)によってさらに増幅される。
笹川は以前の作品で、アニメ風の巨大なロボット戦士を透明なビニールでつくり、(空想の)兵器へのロマンや男根的なマッチョイズムを脱力させ、無力化する作品を発表してきた。本展で提示された、脆く弱い素材でハリボテ感の強いベニヤ製魚雷もまた、単に歴史的資料としての再構成に留まらず、そうしたヒロイズムへの批評を内包している。さらに、装備された潜望鏡を通して「過去と現在が折り重なった風景」を見るとき、それは風景への眼差しを再構築する装置であり、風景の中に重層的に沈殿した記憶の中へ潜航するための、想像力を駆動させる乗り物となるのだ。


笹川治子「リコレクション─ベニヤの魚 Recollection: the Plywood Fish」2017 展示風景
© Haruko Sasakawa, courtesy of the artist and Yoshimi Arts, photo by Kiyotoshi Takashima

2017/08/26(土)(高嶋慈)

キュレトリアル・スタディズ12:泉/Fountain1917 2017 Case 3:「誰が《泉》を捨てたのか Flying Fountain(s)」

会期:2017/08/09~2017/10/22

京都国立近代美術館 4Fコレクションギャラリー[京都府]

男性用便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。「Case 3: 誰が《泉》を捨てたのか Flying Fountain(s)」は、京都国立近代美術館の元学芸課長、河本信治の企画。タイトルの「Fountain(s)」の複数形が示唆的だ。《泉》のオリジナルはアンデパンダン展で出品拒否された上、現存しないが、アルフレッド・スティーグリッツが撮影した《泉》の写真は広く流通し、後年には複数のバージョンのレプリカが再制作されている。本展では、複製イメージと複数バージョンのレプリカ(もしくはそれに近似した市販品)を用いて、「オリジナル」及びレプリカが提示された各状況がパラレルに「再現」された。
それぞれの「再現」に用いられたアイテムと状況は以下の4ケースである。1)オリジナルを撮影した唯一の写真と言われる、スティーグリッツ撮影の写真。《泉》擁護の記事とともに、雑誌『ザ・ブラインドマン 第2号』に掲載された。本展示では、所蔵品である雑誌そのものではなく、あえて複写した「コピー」を壁に掲示。画像としての拡散性や流通性を強調した。2)デュシャン研究者で画商のアルトゥーロ・シュヴァルツが、1964年に再制作したレプリカ。デュシャンの監修の下、スティーグリッツの写真に基づき図面を作成し、「オリジナルに最も近い」と言われる。このシュヴァルツ版を用いて、「オリジナルがアンデパンダン展会期中、仮設壁の後ろに隠されていた」状況が再現された(展示室のガラス壁面の前を仮設壁で覆い、「バックヤード」を模した空間にひっそりと展示)。3)ニューヨークの画商であったシドニー・ジャニスの勧めで、1950年に再制作されたレプリカ。ジャニスがパリの蚤の市で購入した小便器に、デュシャンが署名し認定した。このジャニス版は、スティーグリッツの写真とは明らかに形態が異なる。所蔵先は他美術館であるため、今回の展示では、近似した市販の小便器を代替品に用い、ジャニス版が出品された1953年の展覧会「Dada, 1916-1923」の記録写真を参照して、展示状況を再現した。台座の上に彫刻的に設置するのではなく、展示室の入り口上部に90度傾けて設置されている。4)もう一台購入した同型の市販製品を代替品として用い、1917年頃に撮影されたデュシャンのスタジオの写真を参考に、彼がレディメイドをどのように提示していたかを再現する。《泉》の他に数点のレディメイドが天井から吊られ、壁に影が投影されている。
このように本展では、1枚の写真と3点のレプリカ(及びその代替品)を用いて、《泉》が提示された複数の状態──展示拒否/雑誌への写真掲載=イメージの固定化と画像としての再生産/再制作としての反復とオリジナルからの逸脱/スタジオでの様態というもう一つの可能態──を同一空間にパラレルに共存させている。それは、資料や記録写真に基づいて状況を検証するという実証的な手続きを取りつつ、複写や再制作という反復の身振りそれ自体を繰り返し、それぞれの個別性と差異を際立たせることで、物理的同一性に基づく「オリジナル」神話の解体、ひいてはそれを制度的に保証する美術館という枠組みに揺さぶりをかけていた。あるいは、《泉》を単一の起源に還元するのではなく、さまざまな歴史的段階における複数の現われとして捉え、それら相互の差分を計測すること。そうした脱中心化に、本展のキュレトリアルな意義がある。


会場風景

2017/08/26(土)(高嶋慈)

2017年09月15日号の
artscapeレビュー