artscapeレビュー

2018年02月15日号のレビュー/プレビュー

丹平写真倶楽部の三人展:音納捨三、河野徹、椎原治

会期:2018/01/06~2018/01/28

MEM[東京都]

丹平写真倶楽部は、1930年に大阪で設立されたアマチュア写真家クラブで、浪華写真倶楽部、芦屋カメラクラブとともに関西「新興写真」の一翼を担い、1940年代まで意欲的な活動を展開した。指導者であった安井仲治の作品は、これまでもたびたび紹介されてきたのだが、ほかのメンバーについてはあまり作品をきちんと見る機会はなかった。それでも、ソラリゼーション(白黒画像の部分反転)やガラス乾板に直接絵を描くフォトパンチュールなどの技法を駆使して、多彩な実験的な作品を残した椎原治の展覧会は、MEMでも何度か開催されている。だが、音納捨三や河野徹の仕事のまとまった紹介は、今回がほぼ初めてといってよいだろう。

河野は、戦後は瑛九が主宰するデモクラート美術協会にも参加し、丹平写真倶楽部の写真家たちのなかでは珍しく、ストレートな描写の作品を主に制作していた。音納は逆に印画紙の上に直接物体を置いて、光を当ててそのフォルムを写し取るフォトグラムの技法に徹底してこだわった写真家である。つまり、今回の三人展の出品作家たちの作風はかなりバラバラに引き裂かれているわけで、むしろそこにこそ丹平写真倶楽部というグループの特徴があらわれている。それぞれ、自分のやりたいことをやりたいように実践していく、いかにもアマチュア写真家らしい自由でのびやかな雰囲気が、短い期間ではあったけれども実りの多い成果を生んでいたということだ。丹平写真倶楽部に限らず、1930~50年代の関西地方の写真家たちの活動を、もう一度洗い直す必要があるのではないかと思う。

2018/01/27(土)(飯沢耕太郎)

磯部昭子「LANDMARK」

会期:2018/01/06~2018/02/03

G/P gallery[東京都]

雑誌『サイゾー』の表紙は書店などで目にすることが多く、目に馴染んでいたのだが、磯部昭子が撮影していることは知らなかった。肌を多めに露出したタレントやアイドルをモデルに、オブジェを配置してトリッキーなアイディアの仕掛けをつくり、原色のバックで撮影したポートレートだ。写真が発している空気感、モデルたちのツルツルの肌の質感が、2010年代の「フェティッシュ」のあり方を見事に掬い上げている。商業雑誌の表紙に必要なのは、見間違えようのない特徴的なスタイルなのだが、それをあざといほどの巧みさで練り上げ、「サイゾー」っぽいイメージとして定着している手際は鮮やかとしか言いようがない。

ただ、それらをギャラリーの空間で見ると別物としか思えなくなくなってしまう。むろんそのあたりは磯部もよく承知していて、インスタレーションには工夫を凝らしているのだが、やはり雑誌の表紙として見たときのヴィヴィッドな存在感は薄れてしまっていた。とはいえ、コマーシャルとアートとの違いをあまり意識する必要はないのではないかとも思う。磯部の世代は、以前の写真家たちのようにアートに過大なコンプレックスなど持っていないはずだし、むしろコマーシャルで要求される価値観を逆手にとり、より大げさでキッチュな身振りで打ち出していく戦略をとったほうがいいのではないだろうか。展覧会にあわせて同名の写真集(サイゾー刊)も刊行されたが、こちらはアートにまったく媚びのない、清々しい内容に仕上がっていた。

2018/01/27(土)(飯沢耕太郎)

粘土の味『オフリミット』

会期:2018/01/26~2018/01/28

京都芸術センター[京都府]

笑っていいのか笑えないのかの瀬戸際の不条理な世界を上演する「努力クラブ」主宰の劇作家で演出家の合田団地。一方、多和田葉子の小説やテレサ・ハッキョン・チャによる多言語の実験的テクスト『ディクテ』など、「戯曲」以外のテクストを上演台本として使用する「したため」主宰の演出家、和田ながら。京都を拠点に活動し、作風の異なる気鋭の2人が今回組んだユニットが、「粘土の味」である。合田の書いた戯曲に対し、和田は演出家としてどう応答するのか。

『オフリミット』は、積極的に生きることを放棄した男に起こる不条理ともラブコメともつかない物語だ。誰からも必要とされていないと厭世的になり、仕事も辞め、しかし絶望というには微温的な日常を引きずり、「貯金がなくなったら死のう」と思って公園のベンチに座り、日々をやり過ごす。そんな男に、自分も孤独だと言う女が声をかける。詐欺を心配する友人を尻目に舞い上がる男。デートで距離を縮めた後、女は「遠くへ連れてって」と頼み、二人は温泉のある海辺の町へ出かける。海を見ながら「死にましょう」と誘う女。だが、一夜が明けると女は失踪していた。失意のうちに元の町に戻った男の前に、今度は「妹」と名乗る女が現われ、「姉はいつも、突然行方をくらまし、男が追いかけてきてくれるか試している。私は姉の居場所を知っているから一緒に来て」とドライブに誘う。「姉への手土産」といってスイーツを物色するなど、男を焦らせたあげく、彼女は最後に言い放つ。「姉の居場所なんて知ってる訳ないじゃない。これから私とホテルへ行きません?」。発狂した男の声が暗転した闇のなかに響きわたる。


撮影:前谷開

ここで特筆すべきは、物語ではなく、小道具をメタフォリカルに駆使した和田の「演出」、とりわけ「マイク」の効果的な使用だ。舞台は劇中のストーリーと男のモノローグが交錯して進むが、「モノローグ」部分はマイクを通して発話される。厭世的な孤独感の激白が、本来はパブリックに声を届ける道具である「マイク」で発せられる逆説によって、「誰も彼に耳を傾ける者などいない」という孤独感が増幅される。だがそれだけではない。男のモノローグは、「自分が性技に長けている」台詞から始まる。その時、天井からするすると逆さまに降りてくるマイクは、明らかにペニスの代替だ。マイク=ペニスを撫でるように触りながら、性技について語り続ける男。だがそれは彼自身が告白するように、全て妄想でしかない。生きることに無気力で受動的な彼だが、マイクを介したモノローグの時だけは、口調も激しく、声も大きく響く。マイク=ペニスは、握りしめている間は彼に攻撃的な力を与えるが、実際にその力が外の世界に及ぶことはない。天井からコードが垂れ下がったままのマイクを持って右往左往する男の姿は、鎖か縄に繋がれた哀れな猿のように見える。さらにマイクは最終的に、彼を誘う女たちに奪われてしまう。


撮影:前谷開


和田の演出は、「女たちに残酷に翻弄され、破滅する男性主人公」という物語を、被虐的なロマンティシズムとして描くのではなく、「優柔不断で流されやすいだけの男と、それを滅ぼすのは女」という図式が内包するジェンダー的な偏差に対して密かな逆襲を仕掛けている。彼が発狂したのは「人間不信(女性不信)」に叩き落とされたからではなく、「マイク=ペニス=発話の主導権を奪われた」こと、すなわち自らの去勢に気づいたからではないのか。和田の演出は、物語の解釈をラディカルに書き換えてしまう。戯曲に埋め込まれたジェンダー的な偏差とファロセントリックな欲望を明るみに出した上で奪い返すという批評性でもって応答した和田は、「演出」が(戯曲への奉仕ではなく)クリティカルな営みであることを提示していた。

2018/01/28(日)(高嶋慈)

キュレトリアル・スタディズ12: 泉/Fountain 1917-2017「Case 5: 散種」

会期:2018/01/05~2018/03/11

京都国立近代美術館[京都府]

男性用小便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。最終回の「Case 5: 散種」でキュレーションを担当したのはアーティストの毛利悠子。毛利は、さまざまな日用品を音や光の出る機器と組み合わせ、オブジェたちが繊細でリリカルな即興演奏を奏でているかのような魅力的なインスタレーションをつくり出す。水やエネルギーの循環、自動運動機構に関心を持つ毛利は今回、デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》、1915-23)に着目。9人の男性独身者たちの性的な欲望がさまざまな装置を通過して抽出され、花嫁を刺激して脱衣させるという物語が、巨大な板ガラス上に奇妙な図像で描かれた《大ガラス》を、立体化・空間化する試みを展開した。

「《大ガラス》の立体化」の先例としては、例えばアプロプリエーションの作家、シェリー・レヴィーンによる《独身者たち》(1989)がある。レヴィーンは、《大ガラス》下部にある「9つの雄の鋳型」を金属やガラス製の彫刻につくり替え、一つひとつをガラスケース内に隔離。形象化された男性の欲望を安全に眺められるオブジェとして無害化し、かつ「眼差しに晒される商品」として欲望の主客を転倒させてしまう。

一方、毛利は、「花嫁」「3つのヴェール」「9つの雄の鋳型」「チョコレート磨砕機」「眼科医の証人」などと名付けられた《大ガラス》各部分に、自作の翻案的な装置、自然科学の模型、デュシャン自身の作品を当てはめて複合的に再構成した。特に、「9つの雄の鋳型」の部分には、デュシャン作品のミニチュアのレプリカを詰め込んだ《トランクの中の箱》と、精液で描かれた《罪のある風景》を配置し、密かな反撃を仕掛けている。また、《トランクの中の箱》の投入はジェンダーの言及だけにとどまらない。《トランクの中の箱》には《大ガラス》のミニチュアも含まれ、上部の「花嫁」の世界/下部の「独身者たち」の世界、そして上下を分断する「水平線」に対応するように、3つのレディメイドのミニチュアが収納されている。毛利は《泉》を含むこの3つのレディメイドを、立体化された《大ガラス》の横に再配置した。平面から3次元化された《大ガラス》の中にデュシャンの別作品を取り込み、さらにそこからもう一つの立体的配置を展開させる。一つの空間内に、入れ子状になった引用の連鎖が折り重なる。

《泉》の展示シリーズはこれで最終回となるが、「作家による個展であると同時に、コレクションの斬新な(時に反則的な)活用」という点でも興味深く、今後も同種の企画が続いてほしいと思う。


[撮影:守屋友樹]

2018/01/28(日)(高嶋慈)

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション

会期:2018/01/30~2018/02/04

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

チェルフィッチュの代表作『三月の5日間』(2004年初演)のリクリエーションの京都公演。

『三月の5日間』は、2003年3月のイラク戦争開戦前後の5日間、ライブハウスで出会ったゆきずりの男女が渋谷のラブホテルで過ごして別れるまでの話を軸に、周囲の若者たちのエピソードが交差する。日常からの一時的な逃避行先としてのラブホ、その対極にあるもう一つの非日常=戦争、デモの祝祭感、旅行先の外国の街のように新鮮な高揚感で変貌した渋谷、「この5日間が過ぎたら戦争も終わっているかも」という楽観的な願望。しかし奇跡的な時間の終わりとともに回帰すべき「日常」はすっかり変質し、路傍のホームレスが犬に見え、非人間化の幻視が嘔吐という生理的反応をもたらす。これらのことが、誰かから聞いた出来事を「伝聞」として間接的に語りながら、いつの間にかその「誰か」を演じている、という伝聞形式の語り/再現=表象の複雑な往還運動のうちに展開され、発話主体の境界を曖昧に融解させていく。それは、「演劇」という制度へのラディカルな疑義の提出でもあった。

今回のリクリエーション版の上演では、以下の改変点が見てとれる。1)20代前半の若い俳優陣の採用。2)計7人の俳優の男女比の逆転と発話の振り分けの変更。3)台本の改訂。初演版の特徴である過剰な冗長さを保持しつつ、例えば「~なんですけど、」という言い回しで統一するなど、整理がなされている。4)舞台空間の変更。何もないフラットな空間から、抽象的でシンプルな舞台美術が出現した。

ここで、1)「20代前半の俳優の採用」は、このリクリエーション版の意義について考える際の要となる。彼らは、2003年当時、6~12歳であり、「イラク戦争開戦時の時代の空気感や渋谷の若者像」を同時代的な感性として共有あるいは記憶すらしていない。これは、「戯曲に描かれた若者たちの設定年齢には近づく一方、出来事としての共有からは遠ざかる」というジレンマを戦略的に引き受ける選択である。俳優たちは、この距離感をアプリオリなものとして引き受けたまま上演に臨まねばならない。この距離感を、「2003年の渋谷の若者のリアル」に擬態することで埋め合わせるのではなく、距離として測定すること。それは、「自身が体験していない、誰かから聞いた話を伝聞形式で語る」というスタイルとより親和性が高い。こう考えると、2)「発話の振り分けの変更」は必然的な選択だったのだと納得がいく。例えば、顕著な変更として、初演版の冒頭では、「ミノベくん」についての語りを男優2人が行なっていたのに対し、リクリエーション版では女優2人が担う。初演版では、「語り手」と「演じられるキャラクター」との境界の曖昧さや発話主体の錯綜が企図されていた。しかし、リクリエーション版では、「俺」という一人称や下ネタ的な単語が女性の口から発せられるという違和感の効果により、「語り手」と「演じられるキャラクター」との弁別や乖離はよりクリアに示される。3)「言い回しの統一的な処理」がこの弁別をより補強する。

「直接的な体験としては知りえないこと」に対してどう接近していけるのか。もどかしさや見えない圧力が俳優たちの身体に負荷をかけ続ける。極めて緩慢な歩みで「再現」されるデモの様子。「床に引かれた白線テープ」はデモ隊が歩く横断歩道へと変貌するが、指で摘まみ上げる別の俳優によって「現実の物質であること」が露呈され、フィクションは解体される。また、ある一つのシーンが、一人の俳優の内の「間接的な語り/再現」の切り替えに加え、複数の俳優によって視点や細部の言い回しを変えて何度も変奏的に反復されることで、時間軸が前進と後退を繰り返し、リニアな秩序を撹乱させる。語り、身体運動、そして反復によって「物語の単一のフレーム」は生起すると同時に揺さぶられる。それは、「2003年3月の5日間」という局所的な時空間に再び強固な輪郭を与えるのではなく、個別性を少しずつ丁寧に剥ぎ取り、「現在との距離」へと変換していくのだ。

この距離を固定化されたものとして描出せずに、その都度の上演の時空間のなかで立ち上がらせること。その距離の不安定な現われと測定のうちに、「2003年」から変化したものとしなかったものを聞き取ろうとすること。そこに本リクリエーション版は賭けられている。


[© Misako Shimizu 撮影:清水ミサコ]

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