artscapeレビュー
2019年10月01日号のレビュー/プレビュー
新納翔 写真展「ヘリサイド」
会期:2019/09/10~2019/09/28
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
「ヘリサイド」というのは、東京の縁(へり)、つまり湾岸地域を指し示す新納翔の造語だという。インパクトのあるいいタイトルなので、期待して展示を見に行った。ところが、DMにも使われた、赤い鳥居と日の丸のある湾岸の風景を撮影した写真以外は、あまり見るべき作品はなかったというのが正直な印象である。パノラマカメラで、横に大きく広がった風景を捉え、さまざまな要素が互いに干渉し合う状況を画面に取り込んでいくというアイディアはとてもいいのだが、それを最後まで貫くことができず、自分の顔を入れたり、上空の飛行機をブレた画像で写したりする、やや主観的な解釈に走ったのが失敗だったのではないだろうか。浴槽の「ヘリ」を撮影した写真を展示に紛れ込ませるような遊び心も、メインの部分がしっかりしていないと逆に白けてしまう。
とはいえ、「ヘリサイド」から東京を見つめ直すという視点は捨てがたいものがある。新納が展覧会のリーフレットに書いているように、東京の「破壊と再生のエネルギーは中心部からヘリである湾岸部に向かって徐々に減衰して」いくので、そこにはあたかも「残像」のように、異様な雰囲気の光景が取り残されているからだ。今回は撮影期間も短かったようなので、もう一度じっくり時間をかけて被写体に向き合い、納得のいくまで撮り続けてこのシリーズを完成してほしい。パノラマカメラのワイドなアングルを活かすことができる場面を丁寧に拾い集めていけば、新たな東京地図を描き出すことが可能になるはずだ。
2019/09/13(金)(飯沢耕太郎)
TOKYO 2021 美術展「un/real engine─慰霊のエンジニアリング」
会期:2019/09/14~2019/10/20
TODA BUILDING 1F[東京都]
京橋の戸田建設本社ビルの1階で「TOKYO 2021」と題するアートイベントが行われている。どういう経緯か知らないけれど、アーティストの藤元明が進めるアートプロジェクト「2021」と、建て替えのため今年いっぱいで本社ビルを取り壊す戸田建設の思惑が一致した地点に成立したアートイベントらしい。「TOKYO 2021」とはオリンピック後の東京を考えようとの趣旨で、すでに8月に建築展が開かれ、9月から始まるのが「慰霊のエンジニアリング」と題した美術展だ。全体を藤元が統括し、美術展のほうは黒瀬陽平がキュレーターを務めている。
黒瀬は、東京オリンピックも大阪万博も大きな祭りと捉え、ここでは単に祭りを盛り上げるのではなく、祝祭とはなにかを考える機会にしたいとのこと。そこで、前回の東京オリンピックと大阪万博の前に日本の敗戦があり、次のオリパラと万博の前には東日本大震災があったように、国家的祝祭の前には必ず大災害があることに着目し、「祝祭」と「災害」をテーマに掲げたという。
大きく「2021」と掲げられたビルの玄関を入ると目に入るのが、車椅子や蛍光灯を荒々しく積み上げ、正面に《太陽の塔》の顔の縮小版を据えた檜皮一彦のインスタレーション。1970年の大阪万博が参照されている。その後ろには、お面をかぶって踊る人たちの人形と黒い提灯を並べた弓指寛治の《黒い盆踊り》、さらにその奥の壁には、同じ弓指によるウジ虫に覆われた馬の死体を描いた《白い馬》が展示されている。どちらも「死」をテーマにした作品で、とくに後者は岡本太郎の戦争体験に基づいた絵。その横には床や壁をはがした廃材でつくった藤元明の《2026》、反対側には地下室を水没させたHouxu Queの《un/real engine》などがある。ほかにも「エキスポ70」で使われたベンチや、同じく万博の今野勉による幻の企画なども出ている。以上が「祝祭の国」の作品。
入り口の異なる「災害の国」のほうをのぞくと、中央にキノコ雲を思わせる閃光を宿した梅沢和木のカタストロフィックなコラージュ《Summer clouds》をはじめ、東海道五十三次の東西を逆転させ、「京都アニメ」を終着点とするカオス*ラウンジの《東海道五十三童子巡礼図》、その53宿で採集した土を詰めた座布団53枚を京都方向に敷いた梅田裕の《53つぎ》、10年前のビデオ・インスタレーションを再現した高山明の《個室都市東京》など盛りだくさん。傍らでずっとサボってる作業員がいるなあと思ったら、飴屋法水だったりして。
出品作家は約30組で、旧作も含めて見応え十分。なにより建設会社の新たな門出を祝い、東京の未来を占う「祝祭的」アートイベントに、これほど不穏な「災害的」作品を結集させたことに脱帽する。よくやったというより、よくやらせてくれたもんだ。偉いぞ戸田建設! 文化庁とは大違いだ。しかし不満がないわけではない。東京オリンピック後とはいえ「TOKYO 2021」が主題なのに、なぜか1970年の大阪万博ネタが目立つこと。そして万博、岡本太郎、東日本大震災とつなげると、椹木野衣氏の路線を踏襲していることに気づく。一見、新しいようでなにか既視感が否めないのはそのせいか。
2019/09/13(金)(村田真)
武田陽介「Ash without fire here」
会期:2019/09/07~2019/10/26
タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]
武田陽介は2014年にタカ・イシイギャラリーで個展「Stay Gold」を開催し、同名の写真集を刊行した。そのときの展示は、デジタルカメラを強い光に向けて撮影した「Digital Flare」シリーズと、より描写的、明示的に現実世界の断片を撮影した写真群とで構成されていた。その二つの要素の配分がうまくいっていたとは思えないが、写真による新たな世界認識のあり方を模索するという強い意欲を感じる展示だった。ところが、2016年の同ギャラリーでの個展「Arise」では「Digital Flare」シリーズのみの展示となり、写真の方向性がより狭く限定されていった。
今回の「Ash without fire here」でも、その傾向は踏襲されている。120x160cmという大判プリント2点を含む「Digital Flare」は、メタリックなフレームにおさめられ、ゴージャスさと完成度を増している。それに水面の黄金色に輝く反映を写した新作の映像作品と連続写真が加わっているが、こちらは「Digital Flare」よりもさらに装飾的な要素が強まっていた。武田の関心が、世界認識のシステムの探求から離れてしまったように見えることはとても残念だ。「Digital Flare」シリーズの作品としての魅力を認めるのはやぶさかではないが、このままだと、デジタル時代における洗練されたピクトリアリズムの達成に終わってしまう危険もある。もう一度、「Stay Gold」がはらんでいた可能性を検討してみる必要があるのではないだろうか。
関連レビュー
武田陽介「Stay Gold」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)
武田陽介「Arise」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年06月15日号)
2019/09/18(水)(飯沢耕太郎)
高橋万里子「スーベニア」
会期:2019/09/15~2019/10/06
高橋万里子のphotographers’ galleryでの展示は6年ぶりだという。高橋は同ギャラリーの創設メンバーのひとりだが、展示のペースはこのところだいぶ落ちている。だがその分、じっくりと時間をかけて表現を熟成させることができるようになったようで、今回の「スーベニア」も味わい深いいい作品だった。
作品自体は単純な造りで、「それぞれに違った苦労や喜びを抱えながら生きてきた友人たち」のポートレートと、「色々な土地で過ごした時間、そのささやかな思い出の品、スーベニア」の写真とを交互に並べている。取り立ててポージングをしたり、構図を考えたりしたようには見えない自然体の撮り方を貫くことで、6人の同世代、同性の「友人たち」と、こけし、人形、水差し、動物の置物といった「スーベニア」とが互いに溶け合って、ゆったりとした居心地のいい空気感を醸し出していた。高橋はこのシリーズで、はじめてデジタルカメラを使用して撮影したのだという。ややブレ気味の写真が目につくが、それも特に狙ったわけではなく、ライティングや露光時間の関係で巧まずしてブレたということのようだ。それでもよく見ると、被写体の選択、プリントの色味の調整、写真相互の配置などに、細やかな神経を使っていることがわかる。見かけよりも奥行きのある写真シリーズといえるだろう。
高橋は1990年代からの発表歴を持つ写真家だが、まだ個人の写真集を出版していない。そろそろ、これまでの仕事をまとめてほしいものだ。
2019/09/19(木)(飯沢耕太郎)
K・P・S 植木昇 小林祐史 二人展
会期:2019/09/14~2019/10/06
MEM[東京都]
東京・恵比寿のギャラリー、MEMでは、このところ1950年代の関西の写真家たちの作品の掘り起こしを進めている。今回はK・P・S(キヨウト・ホト・ソサエテ)に属していた二人の写真家、植木昇と小林祐史の二人展を開催した。K・P・Sは1920年代に京都の後藤元彦を中心に発足した写真研究団体で、写真館を営んでいた植木と小林は、その最も活動的なメンバーだった。戦前は絵画的な「芸術写真」を制作していた二人は、戦後になると大きく作風を変えていく。そして1948年から「自由写真美術展」と称する展覧会を毎年開催し、フォトモンタージュ、オブジェのクローズアップ、画面への着色など前衛的な傾向の強い作品を発表していった。
当時は土門拳や木村伊兵衛が主唱した「リアリズム写真」の全盛期であり、植木や小林の主観的な解釈に基づく作品は、どちらかといえば否定的な評価を受けることが多かった。だがいま見直してみると、彼らの写真作品は、戦前から関西写真の底流に流れる自由な創作意欲をいきいきと発揮したものであり、作品のクオリティもきわめて高い。1930年代の「前衛写真」については、だいぶ研究・調査が進んでいるが、戦後の1950年代になるとまだ手付かずの部分がたくさんあることをあらためて強く感じた。植木の手彩色による色彩表現の探求、小林の繊細で知的な画面構成はかなりユニークな作例であり、さらに調査を進めれば、未知の作家の仕事も見つかるのではないかという期待もふくらむ。会場には植木が12点、小林が13点、計25点が展示されていたが、小林の作品はもっとたくさん残っているという。ほかの写真家たちも含めて、1950年代の写真家たちの仕事を総合的に紹介・検証する展示企画が望まれる。
2019/09/22(日)(飯沢耕太郎)