artscapeレビュー
2020年12月15日号のレビュー/プレビュー
太田市美術館・図書館、群馬県立館林美術館をまわる
[群馬県]
おそらく4回目くらいの訪問となる《太田市美術館・図書館》(2017)にて、地域資源をいかした展示の活動についてヒアリングを行なう。図書館側の企画として、巡回展「世界のバリアフリー児童図書-IBBY選定バリアフリー児童図書2019-」が開催中だった。図書とのつながりでは、来年(2021)の頭にも「2020イタリア・ボローニャ国際絵本原画」展が予定されている。一方、開館3周年記念展として開催予定の「HOME/TOWN」展のように、地域を再発見する美術展の路線も続くようだ。ともあれ、天気がよい日に屋上をぐるぐる歩くのは、気持ちがいい建築である。
その後、太田市美術館の元学芸員の小金沢智から前におすすめされていた近くの鰻屋、1914年に創業した《野沢屋本店》でランチのつもりが、思いがけず、きわめて濃厚な飲食になった。建物の外見もすごいのだが、待ち構える主人のペースで、目の前で鰻をさばく様子を見た後、どこまで盛っているかわからないディープな太田市の昔話を聞きながら一緒に飲むという展開で、約1時間半を過ごした。娘がオーストラリアに嫁いだこともあり、英語がしばしば混ざる、ルー大柴のような語り口も強烈である。これぞ生きた地域の資産だろう。太田市長も美術館の設計者である平田晃久もここに来たらしい。建築を見学した後、ぜひ訪れてほしいスポットである。
最後は、第一工房による《群馬県立館林美術館》(2000)に足を運んだ。駅からタクシーで行きエントランスの前で降りると、せっかくのシークエンスが楽しめない。歩いていったん建物から離れ、オンサイトが手がけたランドスケープを堪能しながら、洗練された美術館に向かう(維持費がかかるため、手前には水が流れなくなっていたが)。大きな弧を描くアプローチから美術館に目を向けると、かなり幅が広く、でかい建築のように見えるが、実際は細長いプランを横から見ているためで、奥行き方向にはさほど伸びていない。
さて、内部のプランは、1階レベルにおいて作品の搬出入・収蔵・展示をすべてコンパクトにまとめた機能的な計画である。2階が学芸員のエリアだ。月が欠けたようなプランの展示室1は、全面的に光が入る個性的な空間ゆえに、フランソワ・ポンポンによる動物彫刻群などが置かれていた。また別館は、コレクションの目玉であるポンポンのフランスのアトリエを外観・内観ともに再現しており(ワークショップ室も入る)、現代建築の真横に異世界が混入したかのようだ。
2020/11/14(土) (五十嵐太郎)
劇場で考える。支えること、支えられること―舞台作品『Pamilya(パミリヤ)』の映像上映と関連プログラム
会期:2020/11/13~2020/11/15
ロームシアター京都[京都府]
ロームシアター京都の事業「地域の課題を考えるプラットフォーム」として、村川拓也の演劇作品『Pamilya(パミリヤ)』の記録映像上映会と、レクチャーやシンポジウムが開催された。同事業は、福祉施設へのヒアリング、シンポジウム、手話通訳など障害者の鑑賞支援を行なっている。2020年2月に福岡で上演された『Pamilya』は、特別養護老人ホームで介護士として働くフィリピン人女性が実際に出演し、その日の観客から募った「被介護者」役を相手に、日々の介護労働を淡々と舞台上で再現する作品である。施設への通勤、起床と車椅子への移動、食事や入浴の介助、ラジオ体操、ベッドへの移動、退勤までの1日の介護労働が「再現」される。介護現場で発せられる「言葉」とともに、介護士が特別な思いを寄せていた「エトウさん」という女性入所者と自身の家族への思いがモノローグとして発せられ、タガログ語の作品タイトル「家族」に込められたさまざまな意味が浮かび上がる。本作の詳細は初演評をご覧いただくとして、以下では15日のシンポジウムでの発表やディスカッションから、改めて本作について多面的に考えてみたい。
1人目のパネリスト、河本歩美(高齢者福祉施設 西院 所長)は、地域に開いた福祉施設の取り組みとして「sitte」プロジェクトを紹介した。認知症や介護が必要な高齢者にとっての自立支援とは「社会と繋がり続けること」という考えから、デイサービス利用者が制作したまな板やカッティングボードを「sitte」ブランドとして商品化し、雑貨店で販売。生産者への「対価」として地元商店街の金券が支払われ、高齢者の社会参加活動が地域社会に還流されることを目指している。
対照的に、渡邉琢は、障害者の自立支援に携わる視点から、『Pamilya』で描かれる介護施設の「閉鎖性」「問題点」を指摘した。何重もの扉やキーロックを開ける動作は、「外部からの侵入者防止」とともに「徘徊の防止」を示唆する。介護士が連発する「待って待って」という言葉は、自立支援では「禁句」であり、ひとりの介護士が多人数を担当するシステムや職員・施設主導で管理される集団生活の問題点を指摘した。また、被介護者の身体の拘束や虐待の可能性も指摘された。本作は(ほかの村川作品と同様)、ベッドと椅子以外の具体的な舞台装置がなく、動作はすべてマイム、ほかの入所者や職員も不在で「そこにいるフリ」で振舞うというミニマルかつ抽象度の高い仕掛けだが、「施設像」の解像度を上げた分析が提示された。
視覚文化研究やクィア・スタディーズに携わる菅野優香は、「映像作品における女性表象」の視点から言及。本作で描かれる「家族」が徹底して「女性の物語」であること(介護士が自身の境遇や祖母に重ね合わせる「エトウさん」、祖母、母親、シングルマザーであること、故郷に残した幼い娘)を指摘した。
さらに、本作における「家族」「女性」のポイントは、中盤のカラオケタイムで介護士が歌う「瀬戸の花嫁」の選曲の戦略性にある。故郷の島と家族に別れを告げ、海を渡って嫁ぐ花嫁の心境に、フィリピンから来日した自身と「エトウさん」の人生が重なる。そこには、「女性(嫁)に割り当てられる無報酬の家庭内労働/専門職の労働者」の違いとともに、「女性が負担するケアや介護」の問題が浮上する。だがそれは、感情を喚起するナラティブの発動(亡き祖母と「エトウさん」の疑似家族的な重ね合わせ、「帰国したらパパとママの世話をする」という台詞、移民労働の理由である故郷に残した幼い娘への愛情を吐露するラストシーン)によって「家族の絆や愛情」に回収され、「女性が負担するケアや家庭内労働」の問題は曖昧に覆い隠されてしまう(付言すれば、村川作品は一貫して、「演劇=心を動かす物語」という通念に対し、徹底してそれらを剥ぎ取った形で「演劇の原理的構造」を突きつけてきたが、近作の『ムーンライト』(2018)以降、ナラティブの(再)浮上という変化がある)。
筆者の参加した前日のシンポジウムでは、日本におけるフィリピン人の介護労働の研究者や実際に現場で働く外国人労働者が登壇した。本企画は、「演劇論的視点」にとどまらず、「高齢者介護」「家族」「介護と擬似家族」「女性とケア」「移民労働者」など『Pamilya』という作品の多面性を引き出す好企画だった。会場参加者には、介護関係者も多数来場し、初めてこの劇場に来たという人もいた。ひとつの舞台作品の多面性を解像度を上げて引き出すとともに、社会に接続させ、劇場の公共性についても考えるこうした試みが、今後も継続されることを願う。
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村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年03月15日号)
2020/11/15(日)(高嶋慈)
ザ・タワー・ホテル名古屋
[愛知県]
10月にオープンしたばかりの《ザ・タワー・ホテル名古屋》を見学した。日建設計がリノベーションを担当し、エレベーター棟を脇に増築しつつ、《名古屋テレビ塔》(1954)の4階を13室・ギャラリー・レストラン、5階を屋外のバルコニーをもつスイートルーム2室に改造したものである。ベッドの脇を斜めの鉄骨が大胆に貫通し、室内にいても、ここがテレビ塔だったことがわかるデザインだ。もともと《名古屋テレビ塔》はそれほど高くはないが、久屋大通公園のど真ん中にたち、立地がよいので、見通しもよい。また杉戸洋や森北伸など、地域ゆかりの現代アートの作品が室内やフロントに飾られ、ギャラリーでは愛知県美術館の副館長、拝戸雅彦がキュレーションを担当した展示「smokes in the clouds」を楽しめる。
《名古屋テレビ塔》は、電波塔の役割を終えた後、一時は解体される恐れもあったが、かくしてアートホテルとして見事に再生した。現在、コロナ禍によりインバウンドの客はいないが、名古屋のシンボル的な構築物ゆえに、泊まりたがっている地元客で賑わっているという。
このプロジェクトで思い出されるのが、あいちトリエンナーレ2010に参加した西野逹の実現されなかったアイデアである。彼は、マーライオンや駅舎の時計塔など、街でもっとも有名な場所をホテル化することで知られているが、当時、最初は名古屋城の金鯱のホテル化を提案し、それが難しいと判明すると、テレビ塔のホテル化を考えていたらしい。結局、これは実現しなかったが、それから10年後、状況が変わって、テレビ塔が本当にホテルになったという意味では、アートがテレビ塔の未来を予言したと言える。
一方、タワーの足元の久屋大通公園では、店舗群が入る《レイヤードヒサヤオオドオリパーク》が9月に誕生した。確かに人は集まっているのだが、安普請のアウトレットパークのような商業施設を都心の最重要地点につくるのは、なんとも残念である。かつて東京タワーに先駆けて、名古屋にテレビ塔を建設したときの気合いから比べると、なんとも志が低い。それが今の日本らしさかもしれないが、どうせつくるなら、テレビ塔と張り合えるような建築をめざしてほしかった。
2020/11/15(日)(五十嵐太郎)
髙橋健太郎『A RED HAT』
発行所:赤々舎
発行日:2020/9/20
髙橋健太郎は1989年、横浜市生まれのドキュメンタリー写真家。1941年に旭川師範学校の美術部に属していた菱谷良一(当時19歳)と松本五郎(当時20歳)が、共産主義運動に呼応した制作活動を行なったという嫌疑で特別高等警察によって検挙されたという「生活図画事件」をテーマとする本作「A RED HAT」は、昨年(2019年)9月~10月に銀座ニコンサロンで展示され、同年度の東川賞特別作家賞も受賞している。本来なら、写真展にあわせて本書『A RED HAT』が出版される予定だったが、刊行が遅れに遅れ、ようやく手にすることができた。
髙橋は2017年の「テロ等準備罪」(いわゆる共謀罪)の国会通過をきっかけとして、戦前の治安維持法による取り締まりの実態について調べ始め、「生活図画事件」に行き着いた。その当事者の二人がまだ存命なのを知り、北海道・旭川と音更町の彼らの自宅を訪ねて丹念な取材を開始した。さらに長年にわたって「生活図画事件」の聞き取り調査を行なってきた宮田汎も取材する。彼らの写真、証言、当時の記録資料などを1冊にまとめたのが本書である。
髙橋は、菱谷、松本、宮田の暮らしのあり方、東京での国会請願行動などの写真を、ジャーナリスティックなセンセーショナリズムを注意深く排除し、節度と距離感を保って撮影した。80年近く前の事件が彼らに及ぼした傷痕を、事物のディテールを丁寧に描写することで静かに開示していく写真には説得力があり、写真集のタイトルの元になった、松本が釈放後に一気に描いたという妹の赤い帽子をかぶった自画像など、鍵になるイメージが的確に配置されている。ただ、あまり大きくない判型の本に、写真ページとかなり詳細な文章ページを同居させるのは、やや無理があるように見える。写真篇と資料篇を分冊にする選択肢もあったかもしれない。
2020/11/16(月)(飯沢耕太郎)
田川基成「見果てぬ海」
会期:2020/11/17~2020/11/30
ニコンプラザ東京 THE GALLERY[東京都]
田川基成は1985年、長崎県生まれ。北海道大学農学部卒業後、編集者を経て写真家として活動し始め、2017年に銀座ニコンサロンで開催した個展「ジャシム一家」で第20回三木淳賞を受賞した。「ジャシム一家」は、千葉県在住のイスラム教徒の移民一家の生活を丹念に追ったドキュメンタリーである。この作品に限らず、田川にとっては、移動と土地の記憶、信仰などが大きなテーマとなってきた。
「三木淳賞受賞新作写真展」として開催された今回の「見果てぬ海」でも、それらのテーマへの関心が貫かれている。故郷である長崎県松島とその周辺の島々の風土と人々の暮らしを撮影しようと思ったきっかけは、2014年に日系人社会の取材のため4カ月ほどブラジルに滞在したことだった。長崎でもよく見かけた木造や簡素なコンクリート造りの教会が、ブラジルにも点在しているのを目にして「それまで意識したことのなかった二つの土地が、私の中で線となってつながった」のだという。
それから5年余りかけて、松島だけでなく、五島列島、平戸島、島原半島など長崎県各地を訪れて撮影を続けた。あらかじめ綿密な日程を組んで取材するのではなく、移動する旅人の視線を基調として、かつてはキリスト教が浸透していた海辺の土地の風景と出来事をカメラにおさめていく。そのことで、明るい光に満たされた土地で、海を交通路として暮らしてきた人々のネットワークがゆるやかに浮かび上がってきた。押しつけがましさのない、気持ちよくその中に入り込むことができるドキュメンタリーの仕事である。展覧会にあわせて、赤々舎から同名の写真集が刊行されたが、こちらも掲載されている写真と、丁寧で行き届いた解説がうまく呼応していて、とてもいい出来栄えだった。なお、本展は2021年1月21日~27日にニコンプラザ大阪に巡回する。
2020/11/18(水)(飯沢耕太郎)