2021年03月01日号
次回3月15日更新予定

artscapeレビュー

2020年12月15日号のレビュー/プレビュー

トランスレーションズ展 ―「わかりあえなさ」をわかりあおう

会期:2020/10/16~2021/03/07

21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー1&2[東京都]

恥ずかしながら、数年前から英語学習を再び始めた私としては気になる展覧会だった。コロナ禍で会期が延びたが、本来であれば、本展は東京2020オリンピックに合わせての開催だったのだろう。多くの外国人が日本に大挙して押し寄せる時期に「翻訳」というテーマに挑もうとしたことは理解できる。ただし本展の内容はただ言語を別の言語に変換することだけに留まっていない。視覚や聴覚、身体表現を用いたコミュニケーションや、料理を媒介にした翻訳、現代と古代、未来とのつながり、人と動物、物、さらには微生物とのコミュニケーションにまで風呂敷を広げる。その広げ方は21_21 DESIGN SIGHTらしい。皮肉にも、コロナ禍のいまは人とウィルスとのコミュニケーションが問われているのではないか。そんな風にさえ思えてくる。

本展を観ながら思い出したのが、生まれたときからバイリンガルの家庭環境で育った人に、そもそも頭のなかで何かを考えたり思ったりするときはどちらの言語なのかと尋ねたこと。その答えは意外にも「イメージでしかない」であった。つまり頭のなかでは言語化されていないのだ。日本語しか十分に喋れない私自身も、意識していないが、実はそうなのだろうと気づかされた。つまり我々は思考やイメージを翻訳して言語を発する。だからこそ、時には上手く言い表わせないこともある。そんな翻訳の不思議に迫りつつ、「わかりあえなさ」をわかり合い、また楽しもうというのが本展の狙いのようだ。

Google Creative Lab + Studio TheGreenEyl +ドミニク・チェン「ファウンド・イン・トランスレーション」[撮影:木奥惠三]

個人的に面白いと感じた作品は、「翻訳できない世界のことば」である。ひと言では言い表わせない、置き換えのできないユニークな世界の言葉をかわいいイラストレーションとともに紹介していた。例えば「PALEGG=パンにのせて食べるもの、何でも全部(ノルウェー語)」、「SAMAR=日が暮れたあと遅くまで夜更かしして、友達と楽しく過ごすこと(アラビア語)」、「SGRIOB=ウイスキーを一口飲む前に、上唇に感じる、妙なムズムズする感じ(ゲール語)」など、これらの言葉からは生活スタイルや人間臭さが透けて見え、とても興味深かった。日本語のなかからも「積ん読」や「木漏れ日」などが取り上げられていて、なるほどと思う。結局、言語はその国や地域の文化を象徴するものである。とすると、翻訳は異なる文化を互いに理解し合うための手段ではないのか。たとえ日本人同士でも、地域や職業、年齢によって使う言葉が微妙に異なることは承知だろう。「わかりあえなさ」をわかり合うことは多様性を認め合うことであり、それはこれからの社会でもっとも問われる姿勢である。わかり合えないからといってイライラするのではなく、むしろ楽しむくらいの余裕を持つ方がいい。そんなことを示唆する展覧会だった。

エラ・フランシス・サンダース「翻訳できない世界のことば」[撮影:木奥惠三]

清水淳子+鈴木悠平「moyamoya room」[撮影:木奥惠三]


公式サイト:http://www.2121designsight.jp/program/translations/

2020/10/17(土)(杉江あこ)

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犬飼勝哉『給付金』

会期:2020/10/24

SCOOL/オンライン配信

犬飼勝哉の短編演劇『給付金』がSCOOL Live Streaming Seriesとしてライブ配信された。2019年9月に三鷹市芸術文化センター 星のホールで「MITAKA “Next” Selection 20th」参加作品として上演された『ノーマル』以来およそ1年ぶりとなる犬飼の新作はそのタイトルの通り給付金をめぐるやりとりからはじまる。

自転車、コート、旅行、猫、ルンバ。給付される十万円を何に使おうかと盛り上がるカナ(石渡愛)とユウト(矢野昌幸)。いかにも2020年の日本を反映した会話だが、それが「でもなんでカナたちってさ、十万もらえるんだろうね」「さあ。わかんない。政治家が決めたことでしょ」と着地するあたりから雲行きが怪しくなってくる。続く場面の「まずね、ニッポンって国があるのね」「あ、それ国の名前だったんだ」というユウトが見た夢に関するやりとりから判断するに、どうやらそこは「ニッポン」ではないらしい。

木星のおおよその大きさ』(2018)、『ノーマル』(2019)と近年の犬飼は演劇を使って「普通」を相対化することを試みている。『木星のおおよその大きさ』には「観察者」たる宇宙人(?)が登場し地球人の生態を揶揄してみせ、『ノーマル』では無数の「普通」をめぐる会話が交わされた挙句に登場人物が観客席を見ながら「まあでもこれは架空の世界だからね」「現実世界ではそうは言ってらんないんじゃないの」と言って芝居が終わっていく。いずれも演劇という枠組みを通して自らの現実とは異なる「現実」を眺める観客の立場を強く意識させる趣向だ。複数のカメラによるライブ配信(とそのアーカイブ)という『給付金』の形式もまた(もしかしたらライブ配信であるにもかかわらず昼夜二公演分のアーカイブが残されていることも含めて)、「別の視点」=「別の現実」の存在を露わにする。

給付金で何を買おうかと夢が膨らむ二人だが、ユウトはカナに「電車のなかとかでさ、十万の話するのやめようよ」「俺らはさ、たまたまもらえる人だからいいけどさ、もらえない人が隣に立ってたり前に座ってたりして、十万の話聞いたら嫌な気分になるでしょ」と言う。やはりニッポンの話ではなかったのだと一瞬思いかけるが、給付金をもらえない人はもちろんニッポンにもいる。「こういう時にもらえない人の気持ちを考えないこと」が「幸せになるコツ」なのだから「他の人のことなんて考えなくていいんだよ」というカナの言葉も他人事ではない。「別の現実」を見ないことによって成立する「幸せ」はいまのニッポンを覆っている。

しかし結局、カナは他人のために自らの分の給付金を手放すことになる。カナとユウトは帰り道で夜空を横切る発光体を目撃し、その正体を探るべく向かった落下地点でユウトは異世界人(?)に憑依されてしまう。ユウトの口を借りて語る異世界人(?)曰く、カナたちに給付された十万は、本来は異世界人(?)の世界に振り込まれるもので、それが手違いでこちら側の世界に給付されてしまったため、彼らの世界は危機に瀕しているらしい。「あなたがたの十万を、私たちに譲っていただけないでしょうか」という異世界人(?)の申し出に最初は半信半疑のカナだったが、最終的に「いろいろ大変な世の中ですけど、私たちの十万で、なんとかその危機を乗り越えてください」と自らのキャッシュカードを差し出すのであった。

「他の人のことなんて考えなくていい」と言っていたカナが「別の現実」を認識しそこに手を差し伸べたように見えるこの結末が、しかしどこかしら不気味にも感じられるのは、異世界人(?)の荒唐無稽な話をカナがあまりにもあっさりと信じてしまうからだろう。その姿は陰謀論やフェイクニュースに踊らされる人々の姿を思わせる。あるいは、異世界人(?)がユウトの姿を借りていたからこそ、彼の話をカナは信じたのかもしれない。だとしたら、結局のところカナに見えているのはユウトとの二人の世界でしかない。給付金を独り占めするためにユウトがひと芝居打ったのだという可能性にも思い至らないカナの無邪気さ、そしてそれと表裏一体の残酷さは、現在の日本にとって「別の現実」と呼べるだろうか。


SCOOL Live Streaming Series 犬飼勝哉 短編演劇『給付金』2020年10月24日 15:00〜の回


公式サイト:https://inukai-katsuya.com/
犬飼勝哉『給付金』:http://scool.jp/event/20201024/


関連レビュー

犬飼勝哉『木星のおおよその大きさ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2020/10/24(土)(山﨑健太)

江川家住宅、韮山反射炉

[静岡県]

静岡の韮山を訪れ、江戸時代後期に建設された《江川家住宅》を見学した。1950年代において、『新建築』の編集長、川添登が仕かけた伝統論争を盛り上げることになった白井晟一の論文内でとりあげられた古建築として知られているものである。当時、白井は「縄文的なるもの」というテキストにおいて、こう記した。「茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と大地から生え出た大木の柱群、ことに洪水になだれうつごとき荒々しい架構の格闘と、これにおおわれた大洞窟にも似る空間は豪宕なものである。……野武士の体臭が、優雅な衣摺れのかわりに陣馬の蹄の響きがこもっている。繊細、閑雅の情緒がありようはない」。これは桂離宮や伊勢群宮を日本の伝統とみなすような考え方へのカウンターだった。それゆえ、江川家住宅は、いつか訪れようと思っていた建築である。


《江川家住宅》の外観


もっとも、室内に入り、土間を見上げた最初の印象は、だいぶ予想と異なった。むしろ屋根裏の架構は、精密に細い材が組み合わせられ、とても繊細なデザインだったのである。それゆえ、大いに困惑した。とはいえ、展示されていた修復前の写真をみると、現状と違うことが判明した。例えば、かつての屋根は茅葺きがむきだしで見えていたが、いまは銅板に葺き替えられている。室内で見える架構も、今は除去された(補強のために、後世に付加されたと思われる)斜材のほか、イレギュラーな位置に柱や梁もあって(これらも現在は撤去)、もっと混沌としていたようだ。おそらく、白井が目撃したのは、こうした状態だろう。が、その後、きれいに修復され、雰囲気が変わったのではないか。それにしても、広い土間である。空間の大胆さは維持されている。


《江川家住宅》室内の土間



土間から天井を見上げると、繊細なデザインが目に入る



修復前の《江川家住宅》を記録した写真


後世の変更という意味では、江川家住宅のすぐ近くにある、世界遺産に指定された《韮山反射炉》も興味深い。ちょうど修復中のため、外観はあまり見えなかったが、見学用の足場がつくられていた。《韮山反射炉》の場合、鉄骨のブレスは当初なかったもので、後から補強で入ったが、むしろこれが外観のアイデンティティになっている。世間で出まわっているイメージは、「×」だらけのデザインだ。したがって修復工事が終わっても、おそらくオリジナルには戻さないだろう。


現在修復中の《韮山反射炉》。見学用の足場が見える



補強で後から追加された《韮山反射炉》の鉄骨ブレス

2020/11/01(日)(五十嵐太郎)

静岡の建築群をまわる

[静岡県]

《江川家住宅》の近郊、もしくは途中で、ほかにいくつか見るべき建築が存在している。《韮山文化センター(韮山時代劇場)》は、1997年の作品であることから、かつての過剰なまでの装飾性は薄くなったが、様々な屋根が連なる集落のような空間構成をもち、やはり象設計集団らしい建築だった。また村野藤吾による《三養荘》(1988)は、新館のエントランス、ラウンジ、円形の売店をのぞいたが、とても、ていねいに使われている。論理ではかたちの説明がつかない、お金をかけた品のよいデザインだ。インバウンドを見込んで、豪華なホテルは増えていたが、いまの日本では失われた贅沢な空間である。是非、今度は泊まって、庭園も散策してみたい。


象設計集団《韮山文化センター(韮山時代劇場)》の外観



村野藤吾《三養荘》新館エントランス



《三養荘》円形の売店


清家清による《三津シーパラダイス》(1977)は、もう40年以上前の建築だが、一部改修されただけで、かなり原形を保っていることに驚かされた。十分な資本がなかったのが、建て替えられなかった原因なのかもしれないが、ともあれ、おかげでわれわれは清家の空間を堪能できる。長いスロープ(帰路で気づくが、実は二重螺旋)からアクセスし、空中を飛ぶ鉄骨造のブリッジが、イルカショーなどを行なう2つの屋外スタジアムを分ける。そして細長い水族館のエリアは、うねるコンクリートの屋根がのる。自然養育場など、海とつながる開放感にあふれた建築だった。


《三津シーパラダイス》の空中を飛ぶ鉄骨造のブリッジ



《三津シーパラダイス》の屋外スタジアム。イルカショーなどが行なわれる


帰りには、前々から気になっていた《三島スカイウォーク》(2015)を体験した。これは歩行者専用の吊り橋であり、向こうに渡る交通のための橋ではない。ただ行って帰るだけの橋である。すなわち、観光施設だ。実際、公共事業ではなく、100%民間資本で実現したことが、グッドデザイン賞でも高く評価されている。長さは400mだが、揺れも少ないので、実際に歩くと、むしろ安定感がある。また外から見ると、もっと高いところを歩くように感じるが、渡ってみると、そこまでの高さではない。あいにく訪問時は、天気がすぐれず(雨でも傘をさすことはできないので、ビニールのレインコートを渡される)、ウリにしていた富士山や駿河湾の眺望は得られないタイミングだったが、それでもかなりの来場者がいたので、観光目的の橋としては成功しているように思われた。



全長400mにもおよぶ《三島スカイウォーク》




晴天の日には《三島スカイウォーク》の上から富士山や駿河湾が見渡せる

2020/11/02(月)(五十嵐太郎)

写真新世紀 2020

会期:2020/10/17~2020/11/15

東京都写真美術館[東京都]

1991年にスタートしたキヤノン主催の写真公募展「写真新世紀」は、今回で43回目を迎えた。当初は年4回で、年2回公募していた時期もあったので回数が増えているが、近年は年1回の公募に落ちついている。とはいえ、既に30年近く続いているわけで、立ち上げにかかわった評者にとっては感慨を禁じ得ない。

「写真表現の新たな可能性に挑戦する新人写真家の発掘・育成・支援を目的とする公募企画」という趣旨に変わりはないが、もはや写真=静止画像という思い込みは成立しなくなっている。今回の展示でも、グランプリを受賞した樋口誠也「some things do not flow in the water」(野村浩選)をはじめ、宮本博史「にちじょうとひょうげん―A2サイズで撮り溜めた、大阪府高槻市・寺田家の品々―」(椹木野衣選)、立川清志楼「写真が写真に近づくとき」(オノデラユキ選)が映像作品だった。後藤理一郎「普遍的世界感」(安村崇選)は静止画像の作品だが、モニターでスライド上映している。静止画像と動画の境界線はもはやほとんどなくなってはいるが、作品を前にしたときの視覚的経験にはやはり大きな違いがある。そのあたりは、もう少し意識的に考えるべきではないだろうか。

佳作作品を含めて、上位入賞作品のクオリティは以前に比べて格段に上がってきている。だが、圧倒的な感動を与える作品はなかった。もしかすると、あまりにもすっきりとした展示を求め過ぎて、個々の作家が思い込みから発するノイズが削ぎ落とされていることもその理由なのではないかと思う。以前は、展示構成において、写真家たちの生々しい表現欲求が、もう少しストレートに出ていたのではないだろうか。今回の上位入賞作品は、そのあたりがやや希薄だったが、前年度のグランプリ受賞作家、中村智道の特別展示「Ants」には強烈なこだわりを感じた。「蟻を見る自分、そして蟻を見るように見られる自分、抗うことが出来ない巨大な力によって見られる自分という観点から」構築された作品には、切実なリアリティがある。

2020/11/04(水)(飯沢耕太郎)

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2020年12月15日号の
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