artscapeレビュー
2023年04月15日号のレビュー/プレビュー
『──の〈余白〉に』
発行・編集 : 山腰亮介+中村陽道
発行日:2022年10月1日
ある二葉の詩集の〈余白〉に対峙するかたちで、テキスト、写真、デザインをめぐらせた「批評紙」がちょっと前に創刊された。その名前は『──の〈余白〉に』である。今回の批評対象となったのは詩人・山腰亮介による詩集『ひかりのそう』と『ときのきと』だ。
いずれの詩も正方形のトレーシングペーパーのような薄手の紙一片の両面に灰色で文字が印刷されているもので、どこからでも読み始められるように視覚的にも言葉としても構成されている。そういった造作と詩が混然一体となった作品だ。では、そのような詩集を批評するうえでどうすべきかといったとき、デザインの中村陽道は「相手の土俵に乗る」かたちで紙面を構成している。大きな紙片を正方形に折り畳んだ『──の〈余白〉に』は、どこからでも読み進められる。綴じたり、束ねないことで生まれる、言葉の順番に偶然出会うということを山腰の詩集から受け取った批評紙が、それを少しずらして反復する。
『──の〈余白〉に』も山腰の詩集と同様、正方形造本である。しかし、それはA1の紙が折られてできた正方形だ。こちらもトレーシングペーパーのように薄手なのだが、その結果「折り目」の強制力が弱く、読もうと紙を広げるたびに、目に入る文章の順番がちょっとシャッフルされてしまうという「ずらし」が発生しているのだ。ウィリアム・バロウズが小説や雑誌を対角線で折って偶然の言葉の出会いをつくり出した「フォールド・イン」を思い起こさせられる。だが、フォールド・インに比べてみると、本誌の折り目は慎ましい。むしろ、それぞれの個別の文章自体が解体されることはないように、『──の〈余白〉に』には正方形という折り目がついているのかもしれない。
そうは言っても、自由に折り畳めてしまえるので、畳み方によっては、まったく違う二つの文章をつながったひとつの文章かのように(わずかばかりの違和感をもちながらも)勘違いして、ある程度まで読み進めてしまうということも起きている。わたしは塚田優による「経験の手触りについて」と森田俊吾による「山腰亮介の〈雪〉」をひとつの文章だと思い込んで半ば読んでしまった。塚田が山腰の詩を「フリードが瞬間性と呼んだかのような、部分が時間軸とは関係なく、言葉が全体として運ばれてくるような感覚を覚えることがある」と述べていたのだが、その文章の終わりに気づかず、森田の山腰論を読み進めてしまったのだ。森田が山腰の詩や論考について、スノーフレークレベルの〈雪〉における極微でのものごとの違いという位相と、堆積物としての〈雪〉の位相から分析していたところを、わたしは塚田の文章から引き継いで、その「瞬間性」の淡さについて精細に論じているのだと思ったのである。
塚田の文章の終わりから、5分くらい読んだところで「森田俊吾」という文字が途中で目に入り我に返って、森田の文章の冒頭を探し、そこから読み直した。幻覚と補完が過ぎると思いつつ、そういった読み方も許されるのが本誌なのかもしれないと勝手に納得した。本稿に掲載した中島七海の写真もまた、この批評紙の物質的な性質をよく捉えている。薄紙と折り目がもたらす微細な偶然をぜひ体験してほしい。
『──の〈余白〉に』(stores.jp):https://on-the-marginalia.stores.jp/
2023/03/09(金)(きりとりめでる)
イタリアの展示デザインとリノベーション
[イタリア]
日本の美術館で展示デザインに建築家が関わることは増えているが、現場にそれが明記されることは少なく、チラシやカタログなどを注意深く観察すると、名前を発見できる。しかし、イタリアのミラノではそうでなかった。スフォルツァ城内のロンダニーニのピエタ美術館は、ミケランジェロの未完ゆえに、現代アート風にも解釈しうる有名な彫刻を展示している。中央に彫刻が1点置かれているだけで、ほとんどの来場者はそれを鑑賞して帰るのだが、奥では過去の展示デザイン、また脇に小部屋が並び、これまでの台座の変遷を紹介していた。例えば、回転する台座の実物があったり、以前のイタリアの建築家グループBBPRによるデザイン、コンペで勝利したものの実現されなかったアルヴァロ・シザの案、そして現在の展示空間を手がけたミケーレ・デ・ルッキを説明している。すなわち、いかに展示したかも歴史化されており、その情報を開示しているのだ。またブレラ絵画館では、ベッリーニやマンテーニャなど、イタリアの近世美術を展示しつつ、近現代作品も混入したり、顔の描き方はヘンだが、背景の建築は精密に描くブラマンテの絵もあって楽しめるが、感心したのは、やはり建築家を重視していること。すなわち、見せる収蔵庫の一部や修復作業を公開する部屋をエットレ・ソットサスが担当していることが、キャプションに明記されていた。
ちなみに、今回、ロンダーニのピエタ美術館以外にも、ミケーレ・デ・ルッキが美術館の空間デザインによく関わっていることを知った。まず20世紀初頭の銀行と4つのパラッツォを連結した巨大な美術館、ミラノのガッレリア・デイタリアは、企画展「メディチ家からロスチャイルド家まで──パトロン、コレクター、フィランソロフィスト」を開催し、主に銀行家コレクションの数々を紹介していたが、常設展のエリアにおいてカーテンを効果的に用いるなど、ルッキによるリノベーションの空間だった。またトリノの地下空間を活用したガッレリア・デイタリアも、ルッキのリノベーションである。こちらはJR展を開催しており、隣接する広場で難民の子どもたちの巨大写真を広げ、空から撮影した作品を紹介していた。大勢の人の協力で実現される水平のモニュメントは、シンプルだけど強い作品である。
From the Medici to the Rothschilds. Patrons, collectors, philanthropists
会期:2022年11月18日(水)~2023年3月26日(日)
会場:Gallerie d'Italia in Milan (Piazza della Scala, 6 20121 Milano)
JR. Déplacé∙e∙s
会期:2023年2月9日(木)~6月16日(金)
会場:Gallerie d'Italia in Turin (Piazza della Scala, 6 20121 Milano)
2023/03/12(日)(五十嵐太郎)
真月洋子「a priori」
会期:2023/03/13~2023/03/18
巷房・1[東京都]
先に本欄で紹介した初芝涼子「Consciousness」もそうなのだが、東京・銀座の巷房では、いい仕事をしているのだが、これまであまり見る機会がなかった写真家の作品が展示されることがある。今回の真月洋子展も、とてもクオリティが高く見応えのある展覧会だった。
真月は1998年~2004年に「a priori」と題した写真シリーズを制作し、2013年には同名の写真集を蒼穹舎から刊行している。今回の展示作品は、その続編というべきだろう。だが、同じく身体(ヌード)と植物(花)というテーマを扱っていても、旧作と新作ではかなり肌合いが違ってきている。以前は身体に直接、植物の画像を投影して撮影していたのだが、今回は複数の画像を合成してプリントした。そのことで、視覚的な要素よりも「皮膚から皮膚へと直接語りかける」触覚的な要素がより強調されるようになり、画像の緊密度が上がってきた。
また、真月がなぜ身体と植物との関係性にこだわるのかが、丁寧に仕上げられたコロタイプによる緻密な画像によって、説得力をもって表現できるようになった。真月は、植物を媒介にすることで、「時間の経過がひとの体にもたらすもの」をくっきりと浮かびあがらせることができると考えているようだ。今後は、ひとつの画面に収束するのではなく、複数の写真を組み合わせて並置することで、大判プリントによる、より広がりのあるインスタレーションも可能になるのではないだろうか。
なお、今回も展覧会に合わせて写真集『a priori』(蒼穹舎)が刊行された。印刷に気を配った丁寧な造本の写真集である。
2023/03/15(水)(飯沢耕太郎)
山下陽平&伊島薫展 見せてはいけない。なぜなら・・・?
会期:2023/03/16~2023/04/09
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
伊島薫は1990年代に「ヘアモード」と題するシリーズを発表したことがある(1994年に美術出版社から写真集として刊行)。当時はいわゆる「ヘアヌード」ブームの絶頂期で、ピュービック・ヘアを晒したヌード写真が蔓延していた。伊島は、なぜ「ヘア」にそれほどまでに注目が集まるのかという疑問をもち、あえてファッション写真の様式をそのまま借用して、モデルの顔と下半身だけを露出した写真を制作・発表したのだ。
東京ではひさしぶりの展示という本展の出品作「あなただけが知っている」を目にして、旧作の「ヘアモード」のことを思い出した。伊島の創作の動機となっているのは、いつでも既成概念への疑義と反抗であり、「見せてはいけない」画像のスクリーンショットを、カラフルなグラフィック作品に加工して展示した今回のシリーズにも、その身振りがそのまま受け継がれているように感じた。出品作はTシャツにもプリントして販売されており、それを購入した人だけが元の画像を見ることができる。いかにも伊島らしい、けれん味のあるプロジェクトだが、画像(どうやら女性器のようだ)のグラフィック処理があまりにも抽象化されていて、「見てはいけない」ものであるということが、よくわからなくなっているのが少し残念だった。
なお本展は、伊島と若手写真家とのコラボレーション企画「&伊島薫」の第一弾である。今回の山下陽平(1994年生まれ)は、スナップ写真における人物の顔の扱い方について問題提起する「シン・モザイク」シリーズを出品している。スナップ写真そのものの発想、技術が的確で、コロナ時代の都市環境をさし示すドキュメントとしても、しっかりと成立していた。「&伊島薫」の次の展開も期待できそうだが、伊島の新作による個展もぜひ見てみたい。
公式サイト:https://fugensha.jp/events/230316yamashitaizima/
2023/03/18(土)(飯沢耕太郎)
さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展
会期:2023/03/18~2023/06/18
東京都現代美術館 企画展示室 3F[東京都]
東日本大震災の記憶をどう受け継ぎ、作品化していくのかということは、多くのアーティストにとって大きく、重い課題といえるだろう。とりわけ、2008年から宮城県名取市北釜を拠点として活動し、震災直後の凄惨な状況をまざまざと体験した志賀理江子にとっては、それが特別な意味をもつテーマであり続けているのは間違いない。今回、Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023の受賞記念展として開催された竹内公太との二人展でも、力のこもった作品を発表していた。
ビデオ・インスタレーション作品の《風の吹くとき》(2022-2023)には、宮城県沿岸部の防波堤を歩く目を閉じた人物たちが登場する。彼らを支え、導くもう一人の人物が、強い風が吹き荒ぶその場所で、震災にまつわる思いや出来事を静かに語りかける声が聞こえてくる。視覚を奪われた人物は、あの地震と津波による「暗い夜」を経験した者たち、一人ひとりの化身というべき存在なのだろう。
もうひとつの作品《あの夜のつながるところ》(2022)では、大きく引き伸ばした写真プリントを壁に貼り巡らし、パイプ、土嚢袋、鉄板などを床に配置していた。福島県の山間部の私有地だという、津波で流された車両、船、ユンボなどの重機類を「瓦礫ではなく私物」として置いてある場所を再現したインスタレーションである。志賀はここでも、震災の記憶そのものの個別化、具現化をめざし、それを全身全霊の力業で実現していた。
竹内公太の、太平洋戦争末期の風船爆弾の飛来地(アメリカ)を、地図、ストリーミング映像、写真などを介して検証した作品群も、やはり時の経過とともに災厄の記憶がどのように変質していくのかを丹念に追っており、志賀の仕事と共振する内容だった。東京都現代美術館の天井の高い、大きなスペースが、うまく活かされた企画展といえるだろう。
公式サイト:https://www.tokyocontemporaryartaward.jp/exhibition/exhibition_2021_2023.html
2023/03/19(日)(飯沢耕太郎)