artscapeレビュー

2023年04月15日号のレビュー/プレビュー

鳥居万由実『「人間ではないもの」とは誰か──戦争とモダニズムの詩学』

発行所:青土社

発行日:2023/01/07

かつて『遠さについて』(ふらんす堂、2008)で詩壇に颯爽と現われた鳥居万由実(1980-)による、日本近代詩の研究書である。時期としてはおおよそ第一次世界大戦後から第二次世界大戦までを対象に、左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴らの作品が論じられる。

本書に即して言うと、これらの詩人のあいだにある共通点は「人間ではないもの」へのまなざしである。序章によれば、1920年代から1930年代後半というのは、詩のなかに動物や機械といった「人間ではないもの」の表象が「爆発的に登場した」時代であるという(14頁)。この言い方がひとつのポイントなのだが、ここでいう「人間ではないもの」とは、時には無力で小さな「昆虫」であり、時には哺乳類をはじめとする「動物」であり、またあるときには工場で騒音を発する「機械」である(ただし、本書は生物学的な分類にもとづき、昆虫も魚類も鳥類も哺乳類もすべて「動物」に括っている)。戦間期におけるさまざまな詩人の作品を「人間ではないもの」というキーワードによって新たに捉えなおしたところに、本書のオリジナリティがある。

だがそもそも、そのようなテーマを設定する理由とは何なのか。それは、当時の日本における「主体」の問題と分かちがたく結びついている。本書は大きく、モダニズム詩を論じた第一部(左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎)と、戦時期の詩を論じた第二部(高村光太郎、大江満雄、金子光晴)からなる。各章はいずれも独立した作家論として読みうるものだが、これらを束ねる大きなキーワードが「主体」であることは、本書の端々で明示される。著者の見立てでは、動物や機械が何らかの寓意や象徴をともなって登場するのは、「主体」がうまく機能していないとき、あるいは「主体」を離れたところから言葉が発せられるときである(16頁)。より平たく言えば、安定したアイデンティティをともなった「主体」が何らかの理由により揺らいでいるとき、あるいは国家などにより仮構された「主体」──たとえば「国体」──が批判されるべきものであるとき、動物や機械といった「人間ではないもの」が頻繁に登場してくる。おそらくそのように言えるだろう。

そのような全体像を確認したうえで言えば、本書の眼目は、やはり個々の作家論にある。なかでも「ジェンダー規範と昆虫──左川ちか」(第一部第一章)と「『人間ではないもの』として生きる──金子光晴」(第二部第四章)を個人的には興味深く読んだ。前者は、昨年『左川ちか全集』(書肆侃侃房、2022)が刊行されたばかりの詩人についての力強い論攷であり、後者は、戦時下の情勢に抵抗する姿勢を崩すことのなかった例外的な詩人における、さまざまな「非−人間」の表象を包括的にたどったものである(蛇足めいたことを付け加えれば、この「非−人間」のうちに「神」も含まれることがきわめて重要である)。かりに全体を束ねるコンセプトに引っかかるところがなくとも、冒頭に列挙した戦間期の詩人たちに興味のあるむきには一読を勧める。

2023/04/03(月)(星野太)

浅沼光樹『ポスト・ヒューマニティーズへの百年──絶滅の場所』

発行所:青土社

発行日:2022/12/26

本書のもとになったのは、雑誌『現代思想』に連載された「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」である(2020年1月号から2022年3月号まで)。本書の「あとがき」にあるように、連載時から大幅な加筆修正がなされているが、かくも壮大な思想史的試みが途絶せず一書にまとめられたことを、まずは言祝ぎたい。

本書の表題における「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」とは、第二次世界大戦前から今日までの約一世紀にほぼ重なると見てよい。著者・浅沼光樹(1964-)は、思弁的実在論をはじめとする今日の現代思想──そこでは副題にもある「絶滅」が、ひとつの主要な問いを構成している──を論じるにあたり、まずはそこにいたるまでの思想の場面をたどることから始める。それが本書第一部「二〇世紀前半」の内容である。そこで論じられるヤスパース、ハイデガー、田邊元、ジャンケレヴィッチ、西田幾多郎、パースといった面々をつなぐひとつの固有名──それが「シェリング」である。

フリードリヒ・シェリング(1775-1854)は、カント、フィヒテ、ヘーゲルらと並び、ドイツ観念論を代表する哲学者のひとりである。弱冠15歳でテュービンゲン神学校に入学を許可され、卒業後まもなく幾冊もの著書を執筆、20代のはじめにはすでに大学の教壇に立っていたこの早熟の哲学者は、カントやヘーゲルに比べるとその一般的な知名度ははるかに劣る。しかし近年、専門家による地道な研究の甲斐あってか、このシェリングの哲学体系が新たに注目を集めつつあるのだ。

事実、今世紀に入ってからの現代思想は、さながら「シェリング・ルネッサンス」の様相を呈している。とりわけマルクス・ガブリエル(1980-)、イアン・ハミルトン・グラント(1963-)の2人をその代表格として、ここのところシェリング再評価の気運は留まることを知らない。本書の著者もまた、シェリングを専門とする研究者のひとりとして、現代において甦ったシェリングの思想をさまざまな仕方で「使用」していこうとする。このあたりの経緯は第二部「二〇世紀後半から二一世紀初頭にかけて」に詳しい。そこでは、ホグレーベ、ジジェク、ガブリエル、ドゥルーズ、グラントにおけるシェリングの(隠れた)影響が指摘され、現代思想におけるシェリングの重要性が(再)確認される。

その重要性とは、端的に言っていかなるものなのか。著者の見立てでは、カントからヘーゲルへといたるドイツ観念論の「ループ」のなかで、その中間にいるシェリングこそが、この終わりなきループからの脱出の鍵を握っている。ただし本書では、この仮説の証明にすべてが捧げられることはなく、むしろ19世紀から21世紀にかけてのさまざまな哲学者の仕事のうちに、このシェリングの隠れた痕跡が見いだされていくのだ。前述のように、ハイデガー、ジャンケレヴィッチ、ドゥルーズといった大陸哲学の重鎮たちはもちろんのこと、そこから時間的・地理的に隔たった京都学派(西田幾多郎、田邊元)や思弁的実在論(メイヤスー、ブラシエ)の面々についても、それは例外ではない。おそらくほとんどの読者にとって、近現代哲学におけるシェリングの存在感をこれほどまでに感じさせてくれる書物はかつてなかったのではないか──本書を読んでいると、そのように思わされる。

とはいえ、本書はシェリングやポスト・シェリングの哲学について、まとまった論証をおこなうといった性格の本ではない。平明な書きぶりながら、しばしば大胆な飛躍を厭わない議論の連続なので、読者はテンポよく移り変わる話題の節々から、自分で何らかの糸口を見いだすことが求められるだろう(とりわけ第三部「ニヒリズムの時代」にそれは顕著である)。いずれにせよ本書『ポスト・ヒューマニティーズへの百年』が、ガブリエルをはじめとする現代思想のルーツ(のひとつ)としてのシェリングへと赴こうとする読者に対し、さまざまな示唆を与えてくれるものであることは確かである。

2023/04/03(月)(星野太)

寺崎英子『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』

発行所:小岩勉(発売=荒蝦夷)

発行日: 2023/03/31

寺崎英子は1941年、旧満州(中国東北部)で生まれ、戦後に宮城県鶯沢町細倉(現・栗原市)に移った。最盛期には3,000人以上の従業員を擁していた鶯沢町の三菱鉱業細倉鉱山は、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱などを産出する全国有数の鉱山だったが、安価な鉱産物の輸入が自由化されたこともあって業績が悪化し、1987年に閉山に至る。

寺崎は、幼い頃に脊髄カリエスを患い、家業の八百屋の経理などを手伝っていたが、細倉鉱山の閉山前後から、カメラを購入して細倉の街並み、人、自然、取り壊されて空き家になっていく建物などを克明に記録し始めた。その本数は、黒白、およびカラーのフィルム371本(10,985カット)に及ぶ。今回刊行された写真集には、写真家の小岩勉を中心とする寺崎英子写真集刊行委員会がスキャニングした画像データから、432点が収録されている。

それらを見ると、寺崎がまさに閉山によって大きく変わり、失われていこうとしていた細倉の姿を、写真として残すことに、強い思いを抱いて取り組んでいたことが伝わってくる。細やかな観察力を発揮し、被写体の隅々にまで気を配って、一カット、一カット丁寧にシャッターを切っているのだ。とはいえ、カメラワークはのびやかで、柔らかな笑顔を向けている人も多い。愛惜の気持ちはあっただろうが、写真を撮ること自体を充分に楽しみつつ、記録の作業を続けていたのではないだろうか。結果的に、遺された371本のフィルムには、細倉とその住人たちの1980~1990年代の姿が、そのまま、いきいきと写り込むことになった。

寺崎は亡くなる1年ほど前の2015年に、小岩に電話をかけ、「これで寺崎英子って名前の入った写真集をつくって」とすべてのネガを託したのだという。彼女自身、自分の仕事の価値をしっかりと自覚していたということがわかる。写真集を見ると、掲載された写真のクオリティの高さは、一アマチュア写真家による記録写真という範囲を遥かに超えている。このような写真が撮られていて、しかも写真集としてまとめられたこと自体が奇跡というべきだろう。既に2017年以降、せんだいメディアテークなどで写真展が開催されているが、ぜひほかの地域でも展示を実現してほしいものだ。

2023/04/04(火)(飯沢耕太郎)

BNAW presents AWDL performance『STOP KISS』

会期:2023/03/30~2023/04/09

ウエストエンドスタジオ[東京都]

同性愛者として生きていくには二つの段階を経る必要がある。自分自身と折り合いをつけること。そして周囲と、社会と折り合いをつけること。『STOP KISS』はひとりの女性がこの二つのプロセスを乗り越えて自分自身として生きはじめる物語だ。AWDLはActors Writers Directors Labの頭文字を取ったもの。ボビー中西主宰の演技ワークショップ・BNAWに通う徳留歌織、福永理未、久保田響介、久保山智夏の4人の俳優をメンバーに、俳優が書き、演出し、演じるグループとして2020年から活動している。今回は1998年にニューヨークで初演された韓国系アメリカ人のダイアナ・ソンによる戯曲『STOP KISS』を広田敦郎による新訳と米倉リエナの演出で上演した。


[撮影:Minmin]


舞台は90年代のニューヨーク(戯曲の指定では「いま」)。24時間ニュース専門のラジオ局で交通情報を伝えるトラフィック・レポーターとして働くキャリー(祐真キキ/徳留歌織のWキャスト)は大学時代からニューヨークに住んで11年。ある日、ブロンクスの公立学校で教師として働くためにセントルイスからニューヨークにやってきたばかりのサラ(俵野枝/福永理未)がキャリーのアパートを訪れる。友達の紹介で猫を預けにきたらしい。タイプの違う二人はしかし何となく馬が合い、週末には一緒に出かける約束をするのだった。

ところが、次の場面で事態は一変している。病院の診察室で警官(梶原涼晴)に事情聴取されるキャリー。どうやら二人は早朝の公園で暴漢に襲われ、サラは意識不明に陥っているようだ。朝の四時過ぎにそんなところで何をしていたのかと問う警官に「ただぶらっと歩いてて」と答えるキャリーだったが──。


[撮影:Minmin]


作中では事件に至るまでの出来事と事件が起きてからの出来事が交互に描かれていく。時に喧嘩をしながらも徐々に親密さを増していく二人。一方、事件後のキャリーは酷い偏見と差別的な言動に晒されることになる。加害者、警官、目撃者、マスコミ、そしてニュースを聞いた誰もが彼女をレズビアンと決めつけ、サラの両親までもが「まるでスケベ親父って感じ」でキャリーのことを見るのだった。目撃者のミセス・ウィンズリー(高橋まゆ狐)はこう言う。「二人の女性が朝の四時に、ウェスト・ヴィレッジの公園にいたんですよ。レズじゃないほうが珍しいでしょう」と。

だが、実のところキャリーとサラとの関係がどのようなものであったかは観客にはそれほど明らかではない。キャリーにはしばしばベッドを共にするジョージ(髙野春樹)という腐れ縁がいて「わたしたち結婚するんだろうね」とまで言っているし、サラも地元では元カレのピーター(内藤栄一)と同棲していたことがあるのだという。観客にはむしろ、二人はヘテロセクシュアルのように見えるはずだ。


[撮影:Minmin]


[撮影:Minmin]


しかしその認識も、二人が親密さを増していくにつれて変化していくことになる。あるいはその認識の変化は、二人が自身と、そして相手と向き合い、自らのセクシュアリティを受け入れていく過程と連動したものでもあるだろう。個人の内面と二人だけの関係のなかでゆっくりと生じた変化はしかし、事件によって社会という外部に暴力的に開かれてしまう。

作中では直接的な暴力としてヘイトクライムが描かれていたが、それは同性愛者として生きていくうえでの障害を象徴する出来事としても読み解くこともできる。二人の初めてのキスの直後に事件が起きていることも示唆的だ。実際、キャリーは事件の直後から(つまりは二人の初めてのキスの直後から)世間の差別的な言動とレッテル貼り、そして周囲の人間の無理解に晒されることになるのだった。


[撮影:Minmin]


[撮影:Minmin]


事件の前後のエピソードはそれぞれ、キャリーが自分自身と折り合いをつけ、そして社会のなかで同性愛者として生きていく=後遺症の残るサラとともに暮らしていくという決断をするまでの過程を描き出す。いずれにおいても重要なのは、それがあらかじめ用意されたものではなく、彼女が自身の意志で選び取ったものだということだろう。

そう考えると、この作品に付された「ヘイトクライムを乗り越え、愛を求めた二人の女性の物語」というキャッチフレーズは(もちろん間違いではないものの)ややミスリーディングにも思われる。この作品の魅力はひとりの女性が同性愛者としての自身を受け入れ、社会のなかで同性愛者として愛する人と生きていくことを選ぶその過程を描いた点にある。だが、それが変化として観客に受け取られるためには、物語の最初の段階において二人がヘテロセクシュアルに見えることが重要なはずだ。二人が初めから同性愛者として提示されてしまっては、その変化の過程は見えづらくなってしまう。この物語を特に必要とするであろう観客に届けるためにはレズビアンを描いた作品だということを宣伝する必要があり、作品が届かなければ上演の効果も何もあったものではないという意味ではレズビアンを描いた物語としてこの作品を宣伝するのは十分に理解できる選択ではあるものの、よい戯曲の優れた上演だっただけに、上演の効果を阻害するような宣伝はもったいないようにも思われたのだった。看護師役の松平里美も含め俳優はみな好演。特に、私が観劇したKチームで2時間ほとんど出ずっぱりのキャリーを演じていた徳留歌織には拍手を送りたい。


[撮影:Minmin]



AWDL:https://awdl.stage.corich.jp/

2023/04/05(水)(山﨑健太)

台北と高雄 流行音楽中心の建築と展示

台湾では、ついにOMAによる《台北パフォーミングアーツセンター》がオープンしたが、ほかにも海外の建築家による現代建築が登場している。ここでは台北と高雄の流行音楽中心(ミュージックセンター)を紹介しよう。いずれもホールや音楽関連の施設、そしてポピュラー音楽の歴史に関する展示空間を備えている。

台北では、巨大ビルの開発が進行中の南港エリアに行くと、ライザー+梅本による《台北流行音楽中心》が、コンサートは開催されていなくても、日曜日の出店で大賑わいだった。これは音楽育成のための産業区の棟と音楽史をたどる文化館が広場を挟み、さらに空中ブリッジで道路を横断すると、ギザギザで多面体的な造形の派手なホールがあり、想像以上に大きい。上部が外に張りだすデザインは過剰だが、よく考えると、街中のビルも2階より上を前面にだすことで、雨に濡れない通路を提供しており、これと同じ機能をもつ。文化館は、1930年代からの流行音楽史を紹介し、ヘッドフォンをつけてまわるが、音とともに時代・背景の変化を工夫して展示していた。1970年代にフォーク、80年代になると、ロックやアイドルといった流れは、日本と似ている。もっとも、80年代における政治的な民主化がもたらした「自由」は日本と比べて、重みが違う。権利関係をまとめるのは大変そうだが、日本にはこういう通史の常設施設がない(古賀政男音楽博物館はあるけど)。文化館はエレベータで最上階にのぼってから降りるという動線だが、ルートの途中、ガラス張りの階段を使うとき、ほかの2棟を見下ろすことができ、施設の全容がわかる。

4年前に訪問したときはまだ工事中だったが、スペインの建築家、マヌエル・モンテスリンによる水辺の《高雄流行音楽中心》も完成していた(もともとコンペでは、平田晃久案が惜しくも2位だった)。巨大な建築だが、これに沿って路面電車のルートが設定されているので、アクセスはしやすい。八角形を反復するデザインは、遠くからも見え、奇抜な造形だが、近づくと、内部の構造とは関係がなく、完全なハリボテである。フランク・ゲーリーの建築は、ハリボテでもカッコいいけど、残念ながら、そのレベルには達していない。さて、その展示は、台北と同様、ポップスとロックの歴史をたどる。こちらはインタラクティブな仕掛けを多用し、スタイリッシュだが、外国人にとっては、エリアごとに音を自動再生する台北の方が親切だった。いずれにしろ、音楽の展示は難しい。ちなみに、筆者以外に来場者は誰もいなかった。



台北流行音楽中心 文化館から産業区を見る




台北流行音楽中心 1930年代から始まる展示




台北流行音楽中心 電車と音楽の展示




台北流行音楽中心 階段室からホールへのブリッジを見る




高雄流行音楽中心




高雄流行音楽中心




高雄流行音楽中心


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2023/04/05(水)(五十嵐太郎)

2023年04月15日号の
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