artscapeレビュー
2023年08月01日号のレビュー/プレビュー
「東洋一」の夢 帝国図書館展
会期:2023/03/28~2023/07/16
国立国会図書館国際子ども図書館[東京都]
上野にはよく足を運んでいるが、久しぶりに《国際子ども図書館》を訪れた。安藤忠雄と日建設計が手がけた、ガラス・ボックスが歴史的な様式建築に貫入するリノベーションが行なわれ、2002年に全面開館して以来だろう。おかげで既存のレンガ棟に対し、中庭を挟んで弧を描くアーチ棟(書庫、資料室、研修室、事務室などが入る)が2015年に増築されていたことを初めて知った。さて、今回の目的は、この建築そのものの歴史を振り返る 「『東洋一』の夢 帝国図書館」展である。
図書館は、美術館と同様、コレクションが増えることから、増改築を繰り返すことが多いビルディングタイプだが、この建築もまさにそうした変遷を辿った。最初は久留正道や真水英夫の設計による帝国図書館の全体計画の1/4を実現したところで、1906年に開館する。その後、蔵書の増加や、関東大震災によって東京の図書館が罹災し、利用者が増えたことを受け、増築工事が1929年に竣工した。明治期の建築は鉄骨で補強されたレンガ造だったのに対し、昭和の増築は鉄筋コンクリート造である。
敗戦後は国会図書館の支部として使われ、平成に増改築されたことにより、国際子ども図書館として生まれ変わった。その際、閲覧室、大階段、廊下の室内装飾が、創建当時の状態に復元されている。展示は当時の図面や写真を陳列しており、見上げると、実際のデザインをすぐに確認できる好企画だった。
一方で、古典主義の細部に対する説明が気になる。例えば、柱頭について「古代ギリシャ建築のコリント式」と記していたこと。アカンサスの葉に覆われたコリント式の特徴は認められるが、同時にイオニア式の渦巻きを備えており、むしろ両者を複合したコンポジット式ではないか。なるほど、葉の上部先端が小さな渦巻きになり、判別しにくいケースもある。もっとも、渦のサイズが大きいことに加え、コリント式にはないオヴォロ(卵形装飾)と鏃形が並ぶエキヌスが存在していることから、コンポジット式というべきだろう。なお、コリント式もギリシア時代にはあまり多くないが、コンポジット式はローマ時代以降のデザインだ。こうした説明は、当時の設計者による記述を根拠にすることもあるが、建築史の精度はいまの水準とは違い、形のディスクリプションとしては修正するのが望ましい。
公式サイト:https://www.kodomo.go.jp/event/exhibition/tenji2023-01.html
2023/06/24(土)(五十嵐太郎)
原田裕規「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」
会期:2023/06/20~2023/07/09
日本ハワイ移民資料館[山口県]
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本からハワイへ渡り、多くがサトウキビ畑や製糖工場での過酷な労働に従事した移民。半ば忘却された彼らの生と記憶を、「声」としてどう可視化し、継承することが可能か。原田裕規の本個展で発表された映像作品「Shadowing」シリーズは、英語の音声を聞きながら復唱する学習法「シャドーイング」を戦略的に用いて、歴史や主体の多層性と重ね合わせながら、身体行為を通した記憶の継承について考えさせる、非常に秀逸な作品だった。
展示会場の日本ハワイ移民資料館は、かつて5,000人を超える島民がハワイへ渡った、山口県の周防大島にある。渡米後に成功した貿易商が建てた大正期の和洋折衷住宅に、当時の生活道具、農具、衣服、写真などの資料が展示されている。本展の主催は周防大島地人協会で、ハワイのカウアイ島との姉妹島縁組60周年を記念し、山口出身の原田に作品制作を依頼した。キュレーションは高知県立美術館主任学芸員の塚本麻莉。
映像作品「Shadowing」は4点で構成され、基本的に同じ構造をもつ。少年、女性、壮年期の男性らが一人ずつモニターに映り、子ども時代に寝る前に不思議な体験談を聞かせてくれた祖父の思い出、ハワイ風の鶏すき焼き「チキンヘッカ」の由来や個人的な記憶、移民が生み出した合理的な衣服「カッパダチ」の作り方などを英語で語る。だが、彼らの表情の動きはぎこちなく人工的だ。さらに非実体性を感じさせる演出が、2種類の「声」である。ハワイ在住の日系アメリカ人が読み上げる台本を、原田自身が「シャドーイング(復唱)」した音声が追いかけるように響く。映像の人物は、ハワイの日系アメリカ人をモデルに制作したCG画像であり、フェイストラッキング技術によって原田の口の動きと連動させて表情を動かしている。原田自身の「影」「分身」ともいえるアバターだ。台本は、朗読を担当した日系アメリカ人自身の思い出、周防大島出身の民俗学者・宮本常一のエッセイ、文献資料などを基に再構成されている。
一見シンプルな映像に、さらに複雑な奥行きを与えるのが、映像に付された「日英字幕」の仕掛けである。画面に登場する人物は「一人」だが、「祖父の語った体験談」が口調を真似て入れ子構造で語られたり、子ども時代に家族と食べた「チキンヘッカ」の思い出の語りが、「どうやって代用の食材で日本の鍋料理をつくったか」という考案者の語りにスライドし、語りの主体は「私/他者」「現在/過去」の境界を曖昧に揺らぎながら往還する。ここで、「祖父」「チキンヘッカの考案者」といった「他者」「過去」の語り手のパートには、「標準的な英語/日本語」ではない字幕が付けられていることに注意したい。音声を聞きながら字幕をよく見ると、例えば「the」は「da」、「that」は「dat」、「matter」は「matta」と表記され、日本語話者には難しい子音の発音が訛ったり脱落していることに気づく。これらは、移民の母語と英語が接触してできた混成語「ピジン英語」である(対応する日本語字幕は山陽地方の方言になっている)。
ここで、「シャドーイング」すなわち「声をなぞる」という行為は、本作を多重的な意味へと拡げていく。まず、「英語の発音を追いかけて反復する学習法」という第一義的な意味は、移民1世たちの英語習得過程そのものを示す。そして、祖父母の代になった彼らが話すピジン英語の訛りが、「子ども時代の記憶」として、3世さらには4世によって語られ直され、「現在語られる正しい英語の発音」のなかに残響のように響き続ける。それは、祖先や先人たちの影を追う「ピジン英語のシャドーイング」という形の記憶の継承だ。実際の日系人の声を通して、ひとつの語りのなかに複数の言語と世代が混じり合う。さらにその語りを、日本語訛りの英語で原田がシャドーイングする。それは、輪郭線が曖昧に重なり合った、聴きとりにくい声だ。だが、現在の日本社会で半ば忘れられて亡霊化した日系移民の記憶を現在に継承することは、こうした複数の声と主体が混じり合う語りによってこそ可能なのではないか。「単一の声」ではないこと。それは、「ハワイ移民の生と記憶」が、ひとつの明確な声に集約できない複雑さとともにあることの示唆でもある。
そして、「英語字幕をわざわざ併記する」仕掛けにより、映像を見る私もまた、「注意深く英語音声を聞く」ことを余儀なくされ、「頭の中でのシャドーイング」を始めている。あなたの声もここに重ねてほしい、という要請。もしくは、あなたの声も重ねて良いのだ、という承認。「影としてのアバター」は、移民1世、その子孫たち、原田と無数の他者を受け入れながら「記憶の継承の器」となり、その末端には鑑賞者自身も連なっていくのだ。
「他者の声をなぞることで記憶を継承する」試みは、例えば山城知佳子の映像作品《あなたの声は私の喉を通った》(2009)と共通する。サイパン戦の生存者の老人の証言を、山城がなぞり直すこの作品では、あくまで「老人と山城」という「一対一の関係」に閉じられていた。一方、原田作品では、アバターすなわち実体のない亡霊的存在が、「声の分有を通した記憶の継承」のための装置として効果的に機能する。
「影」はまた、自分自身の身体から切り離せない存在でもある。自分がどこへ行こうとも、身体の後ろにくっついてくる「影」。それは、移民自身が属していた文化、言語、共同体、記憶といったアイデンティティを形づくるもののメタファーでもある。故郷の生活様式を保ちつつ現地の風土に合わせて変容していく「料理」や「衣服」についての語りはその一例を示す。
そして、語りと展示空間の相関性も本展の大きなポイントである。料理の語りはハワイで使用された調理道具やストーブが展示された台所で、衣服の語りはハワイから持ち帰った洋服やトランクが展示された衣裳部屋のような部屋で展開される。生活道具で満ちた空間が、「もう一つの声」として立ち上がる(語りと空間の相関性が立ち上げる磁場は、例えば、出撃前の特攻隊員が泊まった元料理旅館を舞台に、隊員たちの遺書、戦争イデオロギーを思想的に支えた京都学派、文化人が担ったプロパガンダについての重層的な語りが展開するホー・ツーニェンの映像作品《旅館アポリア》[2019]とも共通する)。
日本ハワイ移民資料館は、モノや文字資料は溢れているが、(シアターコーナーの映像の一部をのぞき)日系移民自身の語る声の展示はない。そうした「肉声の不在」を補完する役割ももつ本展は、「原田裕規というアーティストの個展」ではあるが、常設化がふさわしいと思われる意義をもっていた。
原田はこれまで、収集した膨大なアマチュア写真を素材に、写真それ自体には写らない無数の亡霊的存在──撮影者、現像業者、写真に眼差しを注いだ者、「ファウンドフォト」として作品化するアーティスト、それを展示するキュレーターなど──を示唆するシリーズ「心霊写真」を展開してきた。本展では、「匿名的な無数の亡霊的他者」が「ハワイ移民」としてひとつの焦点を結んだといえる。
関連レビュー
あいちトリエンナーレ2019 情の時代|ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 豊田市エリア(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
原田裕規「心霊写真/マツド」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年09月15日号)
2023/06/25(日)(高嶋慈)
蔡國強 宇宙遊 ─<原初火球>から始まる
会期:2023/06/29~2023/08/21
国立新美術館[東京都]
会場に入ると、仮設壁が取り払われて広大な展示室の向こうまで一望できる。こんな使い方は初めてじゃないかしら。作品は壁に沿って時計と反対周りにほぼ時系列に並び、中央には屏風絵やネオンによるキネティック・ライト・インスタレーションが置かれ、とてもにぎやかだ。
タイトルの「原初火球」とは宇宙の始まりを告げる大爆発=ビッグバンのことで、日本で最初に開いた個展のタイトルでもあった。つまり「〈原初火球〉から始まる」と題したこの展覧会は、中国を出て日本でデビューし、ニューヨークに移住して世界に活動の場を広げていった蔡の原点ともいうべき「原初火球」展を軸に構成されているのだ。それは、各章立てが「〈原初火球〉以前」「ビッグバン:〈原初火球:The Project for Projects〉」「〈原初火球〉以後」「〈原初火球〉の精神はいまだ健在か?」とされていることからも明らかだろう。日本で回顧展を開くなら、自分をデビューさせてくれた日本および「原初火球」展を軸に構成したいという蔡の義理堅さが伝わってくる。
同展に先立ち、いわきの海岸で「満天の桜が咲く日」と題する花火イベントを実現させたのも、その記録映像を含めて展示室裏の休憩室のスペースで「蔡國強といわき」と題した特集展示を行なっているのも、日本滞在中にお世話になったいわき市民に対する恩返しの意味があるだろう。カタログのなかで蔡は「一人のアーティストの成長とは、故郷であれ異郷であれ、なんと多くの人々の支援の上に成り立っていることだろう」と書いている。この1行だけでもアーティストとしての揺るぎない自信と、支えてくれた人たちへの感謝の念が伝わってくる。
さて、最初の展示は、来日以前に制作した絵画や火薬を使った作品のほか、父がマッチ箱に描いたドローイングもあり、かなり文化度の高い家庭に育ったことがうかがえる。火薬は早くから作品に使用していたが、それは中国人が発明した三大発明のひとつだからであり、使い方ひとつで善にも悪にも転じる両義的な存在だからであり、また、初期のころから美術の枠にとらわれない自由な発想を持っていた蔡にはうってつけの素材だったからでもあるだろう。
1986年に来日。滞日中の最大の成果が1991年に開いた「原初火球」展だ。これは「プロジェクトのためのプロジェクト」と銘打たれているように、彼が構想していたプロジェクトのうち7つを選んで火薬を使って描き、屏風に仕立てて放射状に並べたもの。このうち「大脚印」「ベルリンの壁を再現する」「烽火台を再燃する」などは「外星人のためのプロジェクト」と称し、火薬を爆発させることで地球外からも観測できる壮大なプロジェクトだった。
その後も「外星人のためのプロジェクト」は増えていくが、そのなかで実現したものに「万里の長城を1万メートル延長する」、「天地悠々」、「地球にもブラックホールがある」などがある。「万里の長城を1万メートル延長する」は1993年、長城の西端からゴビ砂漠に1万メートルの導火線を引いて爆発させ、瞬間的に長城を延長させた。「天地悠々」は1991年に福岡で、「地球にもブラックホールがある」は1994年に広島で、それぞれ実現している。また「大脚印」は「歴史の足跡」に名を変えて、2008年の北京オリンピック開会式で火薬による巨大な足跡が出現したことは、多くの人の記憶に焼きついているはずだ。展示室奥の壁に貼り出されている33メートルにおよぶ作品は、この「歴史の足跡」のためのドローイングだ。
その手前にあるアインシュタイン、UFO、宇宙人、惑星などの輪郭に沿ってネオンがさまざまな色に変化するキネティック・ライト・インスタレーションは、2019年にメキシコ・チョルーラ市の屋外で、2021年には上海の美術館で公開された《未知との遭遇》という作品。これは初めて見た。最終章で蔡は、AI、VR、NFTなどの最新技術を採り入れた作品を試みているが、彼の真骨頂がこれからも仮想現実ではなく、現実に火薬を爆発させることにあり続けるのは間違いない。いや間違っても爆発はVRで済ませようなんて思うなよ。
公式サイト:https://www.nact.jp/exhibition_special/2023/cai/
2023/06/28(水)(村田真)
甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性
会期:2023/07/01~2023/08/27
東京ステーションギャラリー[東京都]
彼のような人物を「異才」と呼ぶのだろう。大正時代に妖艶な女性像で名を馳せたと思ったら、芝居にハマってみずから女装したり、映画界に進出して時代考証家として衣裳づくりを担うなど「迷走」した日本画家、甲斐荘楠音のことだ。「妖艶な」と述べたが、彼の描く女性像は妖艶というだけでは物足りないグロテスクさを伴っている。そんな美学を岸田劉生は「デロリ」と表現したが、これは「サラリ」の逆で、デロッとした粘着質な濃い表現を指す。20年ほど前に郡山市立美術館で「再発見、日本の姿:キーワードはデロリ」という展覧会が開かれ、ぼくは見逃したのだが、その後『芸術新潮』の「デロリ特集」で初めて甲斐荘を知り、衝撃を受けた。だから甲斐荘と聞くと反射的に「デロリ」というキーワードが浮かんでしまうのだ。それはともかく。
作品はほとんどが大正時代に描いた女性像。まず目につくのが《横櫛》で、同題作品が2点あるが、ゾッとするのは京都市立絵画専門学校研究科に在籍中の最初のほう(1916)で、にっこり微笑む女性の目の下に褐色のクマがあってホラーなのだ。その2年後に描かれた《横櫛》(1918)は色や細部が異なるだけでまったく同じ構図の女性像だが、清楚な大正の美人画として仕上げている。同一人物だとしたらよけい怖い。
《白百合と女》(1920)と《女人像》(c. 1920)はどちらも女性と花の取り合わせで、やはり謎の微笑みを浮かべている。前者の白百合は西洋では純潔の象徴とされ、聖母マリアのアトリビュートでもあるから、腹がふっくら膨らんだこの女性は処女懐胎か。《島原の女(京の女)》(1920)は伏し目の太夫を描いたものだが、わずかに微笑むその容貌はどこかで見たことがあると思ったら、レオナルド・ダ・ヴィンチの描く女性像、とりわけ《聖アンナと聖母子》のアンナによく似ているではないか。どうも甲斐荘の女性像には日本画・美人画に収まらない、西洋の古典に通じる水脈が流れているのかもしれない。
もっとエキセントリックな作品に《幻覚(踊る女)》(c. 1920)がある。炎のように赤い衣装を着けて舞う女性は口も目も赤く縁取られ、伸ばした手の影が背後の壁から伸びている。ホラー映画の見過ぎではないか。《春宵(花びら)》(c. 1921)は、豪勢な髪飾りをつけたふくよかな太夫が、盃に落ちた桜の花びらを拾おうとし、左下の禿と思しき少女がやはり笑いながらそれを受けようとしている。不気味なのはふたりとも微笑むのではなく、口を開けて笑っていること。フォッフォッフォッと笑い声が聞こえてくるようだ。なんなんだこれは!?
以上はすべて大正期の作品で、昭和に入ると作品はめっきり減り、戦争が近づくにつれ映画にのめり込んでいく。同展では、これまでほとんど知られることのなかった映画の衣裳考証家として、彼のデザインした衣裳とその映画ポスターを並べて展示している。関わった映画は「雨月物語」や「旗本退屈男」シリーズなど計236本に及ぶが、ここでは省略。
最後は再び日本画に戻り、《畜生塚》(c. 1915)と《虹のかけ橋(七妍)》(1915-1976)という2点の大作が紹介される。《畜生塚》は未完の大作だが、さまざまなポーズの裸体の女性20人ほどを描いた奇怪な群像だ。右から2人目はやはりレオナルドの聖母を思わせるが、中央の人物を抱える集団はミケランジェロのピエタを、全体としてはやはりミケランジェロの未完の壁画《カッシーナの戦い》の下絵を彷彿させる。一方、《虹のかけ橋(七妍)》のほうは逆に着飾った7人の女性の群像だが、驚くことに大正時代から60年以上にわたり断続的に描き続けてきたという。《畜生塚》と違い、せっかく絢爛豪華な衣装を描いたのだから死ぬまでには完成させたかったに違いない、というのは貧乏人の考えか。いずれにせよ常人ではない。
公式サイト:https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html
関連記事
「再発見、日本の姿:キーワードはデロリ」展|木戸英行:RECOMMENDATION(1999年10月15日号)
2023/06/30(金)(村田真)
スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた
会期:2023/07/07~2023/09/12
国立西洋美術館[東京都]
ヨーロッパのなかでもピレネー山脈に隔てられたスペインは、アフリカに隣接し、かつてイスラム圏に属したこともあるせいか文化的にちょっと異質なイメージがある。一般的にスペインといえば、フラメンコ、闘牛、アルハンブラ宮殿、現代ではサッカーが有名か。文学ではセルバンテスの『ドン・キホーテ』しか思いつかないが、美術だとベラスケス、ゴヤ、ピカソと1、2世紀にひとりくらい天才画家を輩出した国として知られる。そんなスペインのイメージを広く伝えてきたのが版画であり、今回は同館所蔵の版画を中心に、スペインという国のイメージの変遷をたどろうという企画だ。
最初は17世紀初頭に著された『ドン・キホーテ』の挿絵や版画が並ぶ。物語のおもしろさだけでなく、馬にまたがる貧相なドン・キホーテとロバに乗る太っちょのサンチョ・パンサのヴィジュアルは、それだけで「絵になる」せいか、ホガース、ゴヤ、ドーミエ、ダリなどが描いていきた。セルバンテスより少し後の17世紀を代表する画家といえばベラスケスだが、彼の作品は大半がスペイン国内にあったため、19世紀にプラド美術館が開館するまであまり知られていなかった。ゴヤやマネがこの巨匠の絵を版画にしたが、とりわけマネによるベラスケスの模写や援用が近代絵画の革新を生み出すことになる。
展示はその後、アルハンブラ、フラメンコ、闘牛と続くが、正直だんだん飽きてくる。だって「版画を通じて」なんだもん。スペインの特異なイメージを伝えるというコンセプトは悪くないし、ちょうど「ガウディとサグラダ・ファミリア展」も開かれていてタイミングもグッドなんだけど、そもそもの出発点がコレクションの版画を見せようということだから限界がある。蛇足だが、常設展示室の奥では小企画展「美術館の悪ものたち」をやっていて、こちらも版画中心だが、テーマを膨らませればもっとおもしろくできそう。ぜひ規模を拡大して企画展示室で見せてほしい。
公式サイト:https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023spain.html
美術館の悪ものたち
会期:2023年6月27日(火)~9月3日(日)
会場:国立西洋美術館 新館2階 版画素描展示室
(東京都台東区上野公園7番7号)
関連レビュー
ガウディとサグラダ・ファミリア展|村田真:artscapeレビュー(2023年07月01日号)
2023/07/03(月)(村田真)