artscapeレビュー
2010年09月01日号のレビュー/プレビュー
藤井裕史 展─Black Fossil─
会期:2010/07/27~2010/08/01
ギャラリーマロニエ[京都府]
若手染色家の初個展。天地約2.6メートル×幅約4.5メートルの大作2点と小品4点が出品された。まるで惑星の地表を捉えた天体写真のように複雑なテクスチャーを見せるグレーの部分と、地部分の漆黒から白へと抜けていくグラデーションの対比が美しい。黒一色でこれだけ豊かな世界を描き出したのは見事だ。最近見た若手染色家の中では断トツの出来栄えだった。
2010/07/27(火)(小吹隆文)
鉄を叩く──多和圭三 展
会期:2010/06/26~2010/08/22
足利市立美術館[栃木県]
彫刻家・多和圭三の初めての回顧展。初期の野外彫刻から鉄の塊をひたすら打ち続ける代表作まで、多和の30年あまりに及ぶ制作活動を振り返った。70年代から80年代にかけて6回参加した「所沢野外彫刻展」の記録写真のほか、打ち続けることで別の一面を出現させた鉄の立方体作品、その制作風景を記録した映像、そして手製の玄能(ハンマー)など実物の道具の数々、多和のこれまでの活動を一望できる堅実な構成だ。なかでも特筆すべきは、鉄を打つ作品の制作過程を記録した映像。多和が鉄を打つ姿を初めて見ることができた(部分的にYou Tubeで視聴できる)。振り上げた玄能を鉄の表面に向けて振り下ろす姿は、激突の瞬間の高い金属音を聞いていると、あたかも求道的な修行僧のように見えるが、休憩を入れながら定型化した身体運動を繰り返す点では、むしろ熟練のアスリートのようだ。じっさい、つねに両足をしっかりと踏みしめ、決して体幹を崩さないほど安定した身体の「型」は、小手先の職人芸というより、全身で体得したアスリートの才覚ともいうべきもので、その無駄のない所作そのものがじつに美しい(もっと下半身をやわらかく屈伸させているのかと勝手に想像していたが、そうでもないところが意外だった)。鉄の表面を幾度も幾度も打ち続けることで別の一面を浮き彫りにする作品は、だから、多和本人が「ゆっくりと、あてどなく、ゆっくりと」と語っているように、必要最小限の身体運動の痕跡であり、同じく仕上がりもミニマリズムの風合いが強かった。ただし、最近では表面の触感や凹凸を激しく前面化させた《無量》(2007)や《景色─境界》(2008)など、従来の方法から抜け出すかのような作品もあるし、じっさい鉄板に溶断機で無数の線状痕を残す作品など、新たな手法に取り組んでいるようだ。身体に身についてしまった癖を意図的に捨て去ること。思えば、伝統芸能にしろアスリートにしろ、優れたアーティストは一芸的に芸を追究するより、絶えず自己の身体をつくり変えながら新たな造型や運動に挑戦して新たな「型」を獲得してきたはずだった。このように近年の多和が「つくる」ことに傾倒していることが明らかな以上、もうそろそろ、多和圭三を「ポストもの派」という物語から解放するべきではないだろうか。今後、愛媛県の久万美術館と目黒区美術館へ巡回。
2010/07/28(水)(福住廉)
本橋成一 写真展 昭和藝能東西
会期:2010/07/21~2010/08/03
銀座ニコンサロン[東京都]
昭和の時代に栄えていたさまざまな芸能の現場をとらえた写真展。見世物、落語、相撲、ストリップ、小人プロレスなど、いまとなっては郷愁を誘ってやまない、あるいは初めて見る、数々の芸能の一面を目にすることができた。それらの生き生きとした雰囲気はじつに魅力的であり、だからこそそれらが失われつつある現状を省みると、心の底から侘しくなる。かつて福田定良は新しい大衆演芸の条件として「芸術の楽しさと生活の匂い」を指摘していたが、今日の社会にあってこうした芸能の現場が失われつつあるということは、芸から生活の匂いが消えていることだけではなく、暮らしの匂いそのものが根絶されているということなのかもしれない。例えば、近年芸能に対して道徳意識を過剰に求める傾向が強いが、そもそも芸能とは、かねてから「ヤクザ者」の世界にあるのであり、これに一般的な倫理意識を当てはめようとすること自体が筋違いである。雑多な匂いを感じ取ることがない世界は、退屈であり、なおかつ恐ろしい。
2010/07/30(金)(福住廉)
新世代への視点2010
会期:2010/07/26~2010/08/07
ギャラリーなつか、コバヤシ画廊、ギャラリイK、ギャラリー現、ギャルリー東京ユマニテ、藍画廊、なびす画廊、ギャラリーQ、Gallery-58、GALERIE SOL、gallery 21 yo-j[東京都]
「東京現代美術画廊会議」による毎年恒例の企画展。11の画廊が選んだ若手作家の個展をそれぞれの会場で同時期に催した。例年に比べて多様な作品がそろっていたような気がして楽しめたが、今回注目したのは富田菜摘(ギャルリー東京ユマニテ)、鎭目紋子(gallery-58)、山本聖子(コバヤシ画廊)。富田は新聞や雑誌から切り抜いたイメージを張り合わせて等身大の人体像などを発表した。コラージュの立体版ともいえるが、異質のイメージを衝突させて異化効果をねらうというより、投資家風の老人には株式欄を、主婦にはスーパーの安売り情報というように、個別のキャラクターに応じたイメージを正確に選び出している。イメージと人格を厳密に対応させることで個体として自立させようとしているわけだが、にもかかわらず、その個体が断片の集合としてしか成立しないところがおもしろい。その対応関係があまりにも強く結ばれているところが気にならないわけではなかったし、欲をいえば、もう少しイメージに多様性と拡がりがあってもいいような気がしないでもないが、それでも統合された人格というものがフィクションにすぎないことを、富田の作品はうまく教えてくれる。車窓から東京のコンクリート・ジャングルを眺めたような絵を描いた鎭目の絵は、透明感があるわりには暗い色調の画面が東京のとらえどころのない陰鬱さを的確に描き出していた。これは、ふだん東京で暮らしている者にはわかりにくいかもしれないが、地方都市や外国から久々に東京に帰ってきた際に強く感じさせられる感覚である。そしてその暮らしの舞台である住宅の間取り図をチラシから切り抜き、それらの連続と集積をインスタレーションとして見せる山本聖子は、昨年の同画廊での個展より規模をさらに大きく発展させ、浴室やトイレだけをそれぞれ集積させた小品にも取り組むなど、自らの作品を新たな方向に着実に展開させていた。壁から少し離して設置されているため、壁に映りこんだ骨組みの影が間取り図を立体的に見させている。間取り図とは、そもそも三次元を二次元に置き換えることで新しい生活への欲望を刺激するものだが、それをさらに立体化して私たちの夢物語を錯綜させてしまうところに山本の作品の醍醐味がある。けれども、それは骨組みだけを抽出しているという点で、三次元への再帰還を果たしているわけではないから、私たちの視線は立体と平面のあいだを果てしなくさまようほかない。寄る辺のない宙ぶらりんの視線運動をまざまざと体感させる傑作である。
2010/07/30(金)(福住廉)
マン・レイ展 知られざる創作の秘密
会期:2010/07/14~2010/09/13
国立新美術館[東京都]
マン・レイの大々的な回顧展。活動の拠点だったニューヨークやパリ、ロサンゼルス、そして再びパリというように、時系列に沿った構成で、幼少時に描いた絵から、いわずと知れた実験的な写真の数々、そして老年まで嗜んでいた絵まで、約400点あまりの作品が一挙に公開された。解説によると、本人は写真家としてではなく、あくまでも画家として評価されることを望んでいたようだが、本展の展観を見るかぎり、残念ながらそのような評価には同意できない。魅力的だったのはやはり写真や映像であり、絵画はとてつもなく凡庸で、見るべきものは皆無だったからだ。そして見逃してはならないのが、本展の後半で発表されているジュリエットへのインタビュー映像。パートナーによる貴重な証言とアトリエの内観を目撃できるだけでなく、奇天烈なサングラスやメガネを次々とかけかえながらカメラの前でおしゃべりに興じるジュリエットのキャラクターがおもしろい。
2010/08/01(日)(福住廉)