artscapeレビュー

2010年09月01日号のレビュー/プレビュー

プレビュー:六甲ミーツ・アート「芸術散歩 2010」

会期:2010/09/18~2010/11/23

六甲カンツリーハウス、六甲高山植物園、ホール・オブ・ホールズ六甲、六甲ガーデンテラス、自然体感展望台「六甲枝垂れ」、六甲ケーブル六甲山上駅周辺[兵庫県]

阪神間に位置し、神戸・阪神・北摂エリアの人にとってなじみ深い観光地でもある六甲山。今年7月に展望台が新設されたのを機に、付近の複数の施設を会場とする現代アート展が開催される。出品作家は21組の招待作家を含む約40組。ピクニック気分で山歩きしながらアートを楽しみ、同時に六甲山の自然や景観を五感で再認識するのが目的だ。大都会のすぐ近くにある豊かな自然を味わいながら、美術館とも街中とも違うアートとのお付き合いを考えてみたい。

2010/08/20(金)(小吹隆文)

平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)『森の奥』

会期:2010/06/21~2010/06/28

愛知芸術文化センター小ホール[愛知県]

あいちトリエンナーレ2010関連公演。2030年。ボノボを人間並みの頭脳に進化させる目的で集まった研究者たちと2体の助手のロボットが主要登場人物。まるでプラトンの対話編のように「人間とはなにか」「動物とはなにか」「ロボットとはなにか」について人間と人間、のみならず人間とロボットとのあいだで議論が交わされる。胸のあたりで赤いパルスが動く黄色い2体のロボット。本作の見所はこれが人間と一緒に演じるところ。はっとさせられるのは間で、人間の役者と呼吸がじつにうまく合っている(アフタートークで、役者がロボットに合わせているところもある、とのことだった)。平田オリザと石黒浩が目指したのは「うまく合っている」と観客に見せかける自然主義に相違ない。しかし、ロボットとの会話ならば間が合わないほうが自然である、という考え方もありうるだろう。要は、ロボットにどんなことを要求するのか、どんな性能を与えるのかという設定こそ重要なはずで、残念ながらその設定が不明確だった。例えば、なぜこの研究に(人間ではなく)ロボットが助手として参加しているのか、など。最後の場面、個々別々の思いを抱えた人間たちが滝に現われる虹を見に行くところで、ビールを持ってくるように頼まれたロボットたちが「ビールを持って行くより消えそうな虹を見逃さないほうが大事だ」と依頼を後回しにした。感情はないとした(これは設定されていた)ロボットに感情の芽生えを察知させるロマンチックなエンディングから、ロボットの人間化が二人の作者の目指すところと解釈しうる。けれどもそのベクトルだけがロボットの未来ではないだろうし、ロボット演劇の未来でもないだろう。

2010/08/24(火)(木村覚)

あいちトリエンナーレ2010(平田オリザ ロボット版『森の奥』、島袋道浩「漁村における現代美術」、山本高之「どんなじごくへいくのかな」ほか)

会期:2010/08/21~2010/10/31

愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場[愛知県]

あいちトリエンナーレ2010の醍醐味は、歩いて30分くらいの範囲に展示が集中しているところ。昨年の越後妻有アートトリエンナーレとアイディアは似ているけれど、アクセスの簡便さでは明らかに勝っている。歩き回るのに都市がいいか田園がいいかといえば意見が分かれるだろうけれど。
まだ2/3ほどしか見ていない段階で恐縮だが感想を言うと、作家が自分の手で作品をつくるのではなく、誰かにやらせる作品が目立っていた。平田オリザはロボットに演劇をさせ、島袋道浩は漁師に魚をさばかせ、山本高之は子どもに地獄をつくらせ(「どんなじごくへいくのかな」)、動物園の動物の前でそれぞれの動物を主人公にした「一週間の歌」の替え歌を歌わせ踊らせた。こうした「やらせる」=タスク系の作品では、プレイヤーの性能が際立ってくる。それが見所になる。名古屋市美術館の島袋は、篠島の人々の生活に芸術のフレームを置いてその性能(の見事さ)を際立たせようとした。長者町会場の山本の場合は、地獄の立体造形や歌といった芸術的表現は手段であって、地獄の説明や歌っているときの挙動の一つひとつに表われる、子どもという存在の奥深さ、不可解さそれ自体が見所となっていた。


山本高之「どんなじごくへいくのかな」

2010/08/24(火)~25(水)(木村覚)

artscapeレビュー /relation/e_00010355.json s 1219592

高橋瑞木『じぶんを切りひらくアート──違和感がかたちになるとき』

発行日:2010年8月26日
編者:高橋瑞木
著者:石川直樹、下道基行、いちむらみさこ、遠藤一郎、志賀理江子、山川冬樹、高嶺格、三田村光土里
発行日:2010年8月26日
発行:株式会社フィルムアート社
価格:2,100円+税



30代から40代前半の中堅アーティストに水戸芸術館の学芸員・高橋瑞木がインタビューした。なにより特徴的なのは、普通だったら躊躇してしまう、けれど本当に聞いてみたいことを単刀直入に質問していること。「スランプはある?」「いま食べていけている?」「どういういきさつでアートを志すようになったの?」etc. なかでも一番興味深いのは、子どもの頃の話。読んでいると多くの作家が子ども時代にすでにいまの活動と同じようなことをしているのだ。遠藤一郎は高校時代に広島へ自転車旅行をしているし、石川直樹は中2のときに高知へ一人旅に出ているし、高嶺格は小2でバンドを組んでいる。また共通しているのは、学校であまりいい経験をしていないこと、管理社会への反発が創作活動のエネルギーになっていること。高橋は彼らの共通点を、学校や社会、あるいは自分自身の身体、あるいはアートへの「違和感」の内にみている(副題は「違和感がかたちになるとき」)。もうひとつ面白いのは、自分をどう称するかについての質問。「あなたは『アーティスト』なのか?」「アーティストは職業なのか?」といった問いは、彼らが社会をどうみて、社会とどう対峙しようとしているかを明らかにする。「ライフ」展を企画した高橋だけある。アートの後ろには必ずライフが隠れている。いや、ライフそれ自体がアートの源泉なのだ。そうした当たり前のことに真っ当な眼差しが注がれている好著。前述のアーティストのほか、いちむらみさこ、下道基行、三田村光土里、志賀理江子、山川冬樹のインタビューが掲載されている。

2010/08/31(火)(木村覚)

2010年09月01日号の
artscapeレビュー