artscapeレビュー
2010年09月01日号のレビュー/プレビュー
東野祥子『I am aroused..............Inside woman』
会期:2010/07/31~2010/08/01
世田谷美術館[東京都]
「くぬぎ広場」と称する世田谷美術館の裏庭が会場。歴史的な暑さの夏の夜。おつまみやビールが販売されるミニ「野外ライブ」みたいなリラックスした場に、東野祥子はサイレント映画的イメージを持ち込んだ。プロジェクターを駆使して、巨大な映像が芝生や建物の壁面に映される。そこに、強烈に速くまた奇妙なカーブを描く東野のダンスが紛れ込む。すると東野が、回転数の速いサイレント映画のなかの人物のように見えてくる。ダンスというのは、踊れれば踊れるほどその身体の正常さが現われるもの。そうした正常さは東野の妄想するダークで奇っ怪なイメージとなかなかかみ合わない。東野の試みの難しさはここにある、とぼくはつねづね思っていた。映像のなかの人物と目の前のダンサーを錯覚するといった今回の趣向は、その難しさを少し軽減する効果があった。ただ「サイレント映画的」と形容してみたように、センスが1920年頃に設定されていて(レジェの『バレエ・メカニック』をリミックスしたような映像が用いられるなど)、それがぼくには個人的な趣味に映ったのだけれど、そうなのだろうか。懐古趣味というよりも、目の前の身体以上に映像に映された身体こそリアルに感じる今日のぼくたちの認識こそがテーマになるべきで、しかし、今後東野作品のなかでそうした事柄が展開されるかもしれないという予感を強く受けた公演だった。
2010/08/01(日)(木村覚)
尾畑涼子「祈りのかたちに似ている」
会期:2010/07/31~2010/08/12
ミリバールギャラリー[大阪府]
作者の祖母の故郷である和歌山の古座川町で撮影した写真作品。プリントの中でゆっくりと進む時間を感じながら、少年時代の夏休みを思い出した。行ったことがない土地なのに、なぜか懐かしい気持ちになるから不思議だ。展示は川面を意識したのか、大小の作品を底辺揃えで一直線に並べていた。また、床にも小品を並べており、視線を上下に動かしながらぐるりと展示室を回るのが楽しかった。
2010/08/02(月)(小吹隆文)
上原徹 展 INERT MODULES
会期:2010/07/30~2010/08/11
AD&Aギャラリー[大阪府]
高層ビルの一部分を撮影し、幾何学的な図柄をミニマルアートのように仕上げた写真作品。単体ではなく、アンサンブルでインスタレーションを構築していた。作品の魅力は徹底したクールさ。同種のモチーフを用いる作家は他にもいるが、展示の美しさという点では私が見た過去の例より一段突き抜けていた。まだ発表経験が少ない作家だが、今後の活躍に期待したい。
2010/08/02(月)(小吹隆文)
BASARA
会期:2010/08/04~2010/08/09
スパイラルガーデン ギャラリー[東京都]
武闘派の現代美術家、天明屋尚がキュレイションを手掛けた企画展。「BASARA」とは、14世紀の南北朝時代に頻繁に用いられた、豪奢な華美を好む美意識や時世粧を表わす「婆娑羅」を、特定の時代を指す用語としてではなく、現代にまで脈々と通底する、ある種の「遺伝子」として提起するために、天明屋が開発した造語である。天明屋自身をはじめ、池田学、井上雄彦、歌川国芳、河鍋暁斎、三代目彫よし、月岡芳年、野口哲哉、HITOTZUKI(KAMI+SASU)、村山留里子、山口晃、横尾忠則など、ジャンルも世代もバラバラのアーティスト24組が参加したほか、縄文土器や印籠、根付、デコ電、デコトラなど、「BASARA」を体現すると考えられる数々のモノも併せて展示された。いやったらしい縄文土器から全身に刺青をまとった男たちの写真、色彩豊かな細密画から蒔絵のバイクなどが立ち並んだ会場は、まさしく絢爛豪華。パンチの効いた造形が次々と眼に飛び込んでくるのが楽しい。なるほど、「BASARA」がたんなる様式のひとつにとどまらず、日本美術の全体を貫く底流のひとつであることがよくわかるし、アニメやマンガに由来するオタク文化がのさばり、対外的にも「クールジャパン」として制度的に定着したいま、それを現状に対する「宣戦布告」として打ち出す意義はかなり大きい。「スーパーフラット」から「マイクロポップ」へと続いた昨今の日本の現代アートの流れを、大きく切り換えるエポックメイキングな展覧会として評価できると思う。ただし、疑問点がないわけではない。それは、本展の企画者である天明屋自身の作品に、若干の違和感が残ったということだ。きらびやかな色彩や緻密な描写、あるいはおどろおどろしい造形による作品が大半を占めていただけに、天明屋による《思念遊戯》(2009)の落ち着いた画面は奇妙に目立っている。刀剣を持ちながら取っ組み合う2人の任侠が描かれていることから、これはもしかしたら過剰に飾り立てる「BASARA」の背後に控える死生観の現われなのかもしれない。けれども、絵の細部に眼を凝らして見ると、そこには人体を縁取る繊細な線描や金箔を敷き詰めた後景、蛸のなまめかしい曲線、そして何よりもマットな色彩による彫り物の描写などがあり、それらは「BASARA」の破戒美というより、むしろ洗練された調和美、あるいは端正な典雅の印象を強めてしまっている。作品と概念との齟齬を、実作の面ではなく、少なくとも理論的にどのように埋め合わせるのか、そこに今後の課題が残されている気がしたが、ともあれ画期的で挑発的な展覧会だったことはまちがいない。今回はごくごく短期間の展覧会だったので、ぜひ公立美術館に場所を移して、巡回してほしい。
2010/08/04(水)(福住廉)
石川真生 写真展
会期:2010/07/23~2010/08/21
TOKIO OUT of PLACE[東京都]
沖縄の写真家・石川真生の写真展。携帯で撮影した『セルフ・ポートレイト─携帯日記─』と、あらゆる人びとに日の丸で自己表現をしてもらう『日の丸を視る目』、2つのシリーズから新作が発表された(また渋谷のZEN FOTO GALLERYでも、ほぼ同時期に『Life in Philly』と『熱き日々 in キャンプハンセン』による写真展が開催)。この2つのシリーズには、後者の石川が撮影者に徹しているのに対して前者の石川が被写体にもなるという違いがあるが、双方に共通しているのはともに人間を丸ごとさらけ出すという写真の暴力性を最大限に発揮しているという点だ。とくに日の丸について考えたことはなくても、石川の写真は自己と日の丸の関係性を明らかにするように迫ってくるし、術後の身体を包み隠さず披露しているように、そのような暴力性を自らにも差し向けるところに、石川真生ならではの倫理がある。それは、写真というメディアがはらむ大衆性がかつてないほどの拡がりを見せている今日、写真家という特権性を自己否定する身ぶりであるばかりか、私たちがつい忘れがちな「写真を撮る」という表現行為の楽しさと恐ろしさを、全身で教えようとする態度の現われのように感じられた。だからこそ、『日の丸を見る目』で被写体となっている人びとの多くが、左右を問わず、思想的に偏っているように見受けられたのが気になった。このシリーズの醍醐味は、携帯で自分を撮ることはあっても、日の丸などには見向きもしないような、市井の人びとが、なかば暴力的に日の丸と自己の関係性を問い直させられた結果、どのような表現が立ち現れるのか、その点に尽きると思うからだ。携帯の世俗性と日の丸の象徴性が重なり合うとき、石川真生はかつてない達成を遂げるのではないか。
2010/08/04(水)(福住廉)