artscapeレビュー

2010年10月01日号のレビュー/プレビュー

「日本画」の前衛1938─1949

会期:2010/09/03~2010/10/17

京都国立近代美術館[京都府]

伝統的な日本画の美意識に飽き足らず、全く新たな日本画を創造しようとした「歴程美術協会」の活動を、約80作品で紹介。戦雲急を告げる1938年に結成され、洋画家をも巻き込んで、抽象、シュルレアリスム、バウハウスなどの美術運動を積極的に吸収しようと努めた彼らの表現は、今見ても非常に刺激的だ。歴程美術協会の活動は未だほとんど紹介されていないらしいので、国立美術館で正面切って取り上げた功績は大きい。

2010/09/02(木)(小吹隆文)

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タブロオ・マシン[図画機械] 中村宏の絵画と模型

会期:2010/07/25~2010/09/05

練馬区立美術館[東京都]

画家・中村宏の個展。練馬区立美術館が所蔵する作品を中心に150点あまりが展示された。50年代のルポルタージュ絵画から60年代のモンタージュ絵画、70年代の空気遠近法、タブロオ・マシン、90年代以後の立入禁止など、これまでの中村の画業の変遷を時系列に沿って振り返る構成は、2007年に東京都現代美術館で開催された「中村宏──図画事件 1953-2007」に近いが、それに加えて中村によるグラフィックの仕事を丁寧に紹介するとともに、「模型」と呼ぶ小さな立体作品をまとめて発表したところに、本展の特徴がある。「タブロオ・マシン」という言い方に暗示されているように、中村の絵画にはつねに速度が伴っているが、それはたんにアニメーションのような連続的な運動を錯視させる「動く絵画」というより、むしろここからあそこへ移動することを阻まれながらも、なおも動き続けようとする意志のようなものだ。中村の代名詞ともいえる黄色と黒の縞模様で構成された立入禁止のシリーズでは直接的に運動が止められるし、鉄道ダイヤグラムの作品にしても、線を眼で追う運動性はたしかに感じられるが、画面の中央には線そのものをかき消したかのような痕跡が残されているため、その運動のリズムはどうしても途中で阻まれることを余儀なくされている。9枚の絵で構成された《タブロオ機械1-3》(1986-87)は、同じ大きさの支持体を並べているため、あたかもマンガのコマ割りのように見えるし、実際そのように読んでしまいがちだが、描かれた絵の内容は決してマンガのような連続性によって貫かれているわけではなく、むしろその自動的な運動を錯乱させているかのようだ。速度と反速度を同時に絵画の枠組みの中に位置づけようとするばかりか、絵画と反絵画を同時に画面に定着させようとするのが中村宏の目論見だとすれば、それははたして「絵画」なのか「図画」なのか、あるいは「事件」なのか。

2010/09/02(木)(福住廉)

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足立喜一朗 SOAP/SOAP

会期:2010/08/28~2010/09/26

NADiff a/p/a/r/t[東京都]

東京都現代美術館の「Space for future」展(2007-2008)にディスコを模した電話ボックスの作品を発表して注目された、足立喜一朗の新作展。ナディッフの地下空間と一階でそれぞれミラーボールをモチーフとした作品を展示した。地下には、鏡の破片を貼りつけた4つの球体をゆっくり回転させ、部分的にLEDライトを当てることで空間の壁面に無数の光を乱反射させた。立ち込めたスモークが光線を効果的に引き立てている。一方、地上では大きなガラスを支える枠組みに沿った形で十字架のようなオブジェを設置した。よく見ると、これも同じく表面を鏡の断片で覆われた棒状のもので、同じようにゆっくりと回転している。日中ではそれほどでもないが、外が夕闇になるにつれて、光の反射が強まると、ある種の神々しささえ感じさせる作品だ。表面の仕上がりや造形的な完成度から察すると、普遍的で崇高な美を追究するオーソドックスな作品のように見えるが、しかし足立の鋭い視線はそうした凡庸な美術の物語の先にまで到達している。回転する速度の歪さやモーターの騒々しい機械音は、作品の形式的な美しさを自ら相対化する仕掛けであり、そのことによって美の永遠性を信奉してやまない物語のフェイクを演じているわけだ。こうした二重の構えは、モダニズムという支配的な物語が実質的には失効しつつも、しかし制度的にはいまだに残存している現在の状況のなかでこそ、最も有効である。

2010/09/03(金)(福住廉)

奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編

会期:2010/08/22~2010/09/19

MISAKO & ROSEN[東京都]

美術家・奥村雄樹の個展。会場でプロの落語家による高座を開き、その様子を記録した映像と高座に使用した木製の高台、落語家の手をクローズアップで撮影した写真などを発表した。身体から離れた目玉の動きとその視界をモチーフにした噺を選んでいたように、落語の基本的な魅力である、現実的にはありえないけれども、落語においては可能になる独特の空想物語をテーマにしていたようだ。最低限のモノしか見せないミニマルな展示風景は、現場で催された高座を聞かなかった多くの来場者にとっては、たしかに「祭りの後」のような侘しさを禁じえない。けれども、むしろ気になったのは、奥村の関心があくまでも手と眼に集中しているように見えたことだ。私たちの眼には見えない目玉を落語家が手中に収めているところを写し出した写真は、まさしくその例証である。しかし、すぐれた落語とは視覚や触覚のみならず、文字どおり全感覚的な体験に私たちを誘うものである。眼は見てはいないけれども、私たちはその世界を見ているのであり、感じているのであり、つまりはそこに「いる」のだ。このような落語ならではの芸術的な特性を省みると、奥村の作品はその旨味を凝縮するというより、むしろ削ぎ落としてしまっているように思えた。「目玉の親父」がひとつの人格をもった身体として考えられているように、眼ひとつとってみても、そこには全身的な感覚が宿っているのである。

2010/09/03(金)(福住廉)

Chim↑Pom個展 Imagine

会期:2010/08/07~2010/09/11

無人島プロダクション[東京都]

Chim↑Pomが返ってきた。先ごろの「六本木クロッシング2010」では、まるで飼い慣らされてしまった狼のように大人しく、見失った野性の回復が待望されていたが、今回の個展で名誉挽回、本領を発揮した。今回のテーマは現代アートにとっての根幹である視覚。眼の見えない視覚障害者とともにいくつかの作品を制作したが、Chim↑Pomのアプローチは一般社会が遵守しているよそよそしい礼節を一切踏むことなく、むしろ当事者の心中に土足で踏みあがり、平たくいえば「ふつうに仲良くなる」というものだ。眼の見えない者同士に「にらめっこ」をさせる映像作品や、映画館のチケット売り場で眼が見えないのに3D料金を請求される様子を収めた映像作品には、その奇怪な顔面造作やナンセンスなやりとりが見る者の笑いを自然と誘う。けれども、私たちは「見える」けれども、彼らには「見えない」という厳然たる事実に思いを馳せると、思わず笑いながらも、その笑いがどこかで暗い影をひきずっていることに気づかされる。形式的な交流によっては、その圧倒的な断絶を乗り越えることなど到底不可能であり、だからこそ土足のまま踏み入ることが必要だった。「見える」者と「見えない」者は、どうすればわかりあえるのか。その問いに対してChim↑Pomが出した簡潔明瞭な答えは、imagine、想像せよ。ただ、ここで重要なのは、だからといって想像力が無条件に肯定されているわけではないということだ。なぜなら、想像力こそ視覚に大きく依存した精神活動であり、そうである以上、「見える」者と「見えない」者の溝が完全に埋められるわけではないからだ。つまり、Chim↑Pomのいう「想像力」とは、双方を架橋するための決定的な解決策としてではなく、むしろ逆に、想像力をもってしてでも縫合することが難しい、その不可能性を思い知り、しかし、それでもなお、両者に通底する交通の次元を探り出そうとしてまさぐり続ける意思を表わしているのではないだろうか。土足で他人の家に入り込めば、間違いなく叱られるだろうが、叱られながらも当人と仲良くなる可能性がないわけではない。そこに、Chim↑Pomは賭けている。

2010/09/04(土)(福住廉)

2010年10月01日号の
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