artscapeレビュー
2010年12月01日号のレビュー/プレビュー
日展
会期:2010/10/29~2010/12/05
国立新美術館[東京都]
毎年恒例の日展。今回新たに2点の発見があった。ひとつは、彫刻の会場の並々ならぬ迫力。数百点を超える彫像が広大な会場に立ち並ぶ光景は、圧巻だ。これはそんじょそこらの展覧会では到底なしえない、まさしく日展という日本随一の団体展ならではの展観である。もうひとつは、絵のサイズについて。前々から指摘されているにせよ、油絵と日本画はそれぞれ無闇にサイズが大きい反面、書はあまりにも小さすぎる。一般的にはほとんど解読できない象形文字のような文字を小さく書かれても、視覚的な好奇心を刺激されることはほとんどなく、素通りしてしまいがちだ。書の専門家にとっては定型的な漢字なのかもしれないが、そうでない者にとって書はいまや抽象画に近い。文字の意味内容より、形式が眼に飛び込んでくるからだ。であれば、そのフォルムの力強さ、迫力、圧倒的な存在感こそ、見る者に訴えかけるべきであり、だからこそ書は巨大なサイズで描かれるべきなのだ。
2010/11/12(金)(福住廉)
悪魔のしるし『悪魔のしるしのグレートハンティング』
会期:2010/11/11~2010/11/17
いわゆるバックステージもの。「フェスティバル/トーキョー10」の公募に採用されて、新作を制作する劇団の演出家という設定。金欠だったり、役者と折り合いがつかなかったり、そもそも演出家本人が怠惰だったりしてなかなか上手くいかない。その様子は「悪魔のしるし」という劇団が今回遭遇した出来事をリアルに再現しているかのようだ。しかも、舞台上の劇団が上演しようとするのは「竜退治」というおとぎ話。伝説の竜を退治に向かったら、思いのほか竜がしょぼくて怒りにまかせて殺したという内容。これは「F/T」というイベントに参加してみたもののしょぼい作品しかつくれませんでしたという前述の話とパラレルなわけで、こうした入れ子状の構造が舞台に刺激を生み出していることは間違いない。では、「『しょぼい竜を退治した話』をしょぼくしか上演できなかった劇団の話」が悪魔のしるしによって見事に“しょぼく”上演されたのかというと、その点が微妙で、やたらとひとり喋りまくる「演出家の男」以外は、なんだか覇気のない役者たちの演技が続く。正直、舞台全体が上手く機能しているように見えないのだが、じゃあこれが上手く機能していたほうがいいのかというと難しいところだ。しょぼいものを見事に描くのは、しょぼいものをしょぼく描くことより滑稽で愚かしい場合が多い。じゃあ、しょぼいものはしょぼく描くのがいいかといえばすぐには首を縦に振れないし、だからといって、しょぼいものは描くべき対象ではないといい切るのも間違っている気がする。そういう問いを誘発したという点で本作は問題作に相違ない。
2010/11/13(土)(木村覚)
悪人
会期:2010/09/11
TOHOシネマズシャンテ[東京都]
小説を映画化するのは難しい。それは、実写で描かれたイメージが文字から連想したイメージとかけ離れていることが少なくないからであり、小説のボリュームを収めることのできない映画は必然的に小説の重要な構成要素をそぎ落とすことを余儀なくされるからだ。吉田修一原作、李相日監督作品による本作も、残念ながらそのパターンにはまってしまった。束芋が着想を得たという風俗嬢は映画には含まれていなかったし、だから主人公の男のいたいけな性格を十分に描ききれていなかった。さらに重大な欠落は、悪人と善人、正義と不正義をきれいに振り分けることができないことを描写するのが小説の肝だったにもかかわらず、この映画の重心はどちらかというと人間の美しいところに傾いており、醜いところをほとんど描くことができていなかった点だ。主演の妻夫木聡と深津絵里(の演技)が美しすぎるうえ、物語の終盤の舞台となる灯台のシーンもあまりにもロマンティックにすぎる。2人が灯台を目指す動機がきちんと説明されないまま物語が進んでしまうから、夕日に染まった広い海を前に純愛のあれこれを見せつけられても、こっちはなんだか困ってしまう。唯一気を吐いていたのが、岡田将生。軽薄短小、卑怯卑劣な男をこれでもかというほど演じてみせ、ついついうっとりしてしまいがちな物語の偏りにひとりで歯止めをかけた。岡田が演じた悪人が、強がりながらも一瞬見せる悔恨の情こそ、この映画の見どころである。
2010/11/14(日)(福住廉)
宮本佳美 展 immortal plant
会期:2010/11/06~2010/11/27
イムラアートギャラリー[京都府]
花をモノトーンで描いた絵画作品。100号×3の大作をはじめ、100号、50号の作品が中心だ。宮本が描く花は、明るく生命力にあふれた野の花ではなく、まるで蝋人形のような、生と死の中間でもうひとつの生を得たかのような花だ。以前の作品は、押し花を漂泊して、写真撮影した上で描いていたが、新作はドライフラワーを水の入ったガラスの器に浸し、照明を当てた様子を写真撮影して描いている。水槽の中で揺らめく分、旧作より躍動感があるが、それでも静謐で幻想的なたたずまいに変わりはない。モノトーンなのに既成の黒を使わず、20~30色を混ぜてつくった黒を塗り重ねて行く手法や、確かな描写力も相まって、彼女ならではの絵画世界が見事に表現されていた。
2010/11/16(火)(小吹隆文)
新incubation2「Stelarc×contact Gonzo─BODY OVERDRIVE」展
会期:2010/10/30~2010/11/28
京都芸術センター[京都府]
身体にフックをつけて吊り下げられるパフォーマンスで知られ、近年は医学やロボット工学を取り込んだ作品を制作しているステラークと、ストリートファイトから導き出される過激なパフォーマンスで知られるcontact Gonzo。ベクトルは違えど、“肉体”という共通のキーワードを持ち、見る者に本能的な衝撃を与える両者を共演させるとは、何とも大胆な試みだ。しかし、彼らの真骨頂を体感できるのは、やはりライブ・パフォーマンスしかない。contact Gonzoは会期中に二度、ステラークはロンドンからのWEB中継を一度行なったとはいえ、ほとんどの期間は資料展的な見せ方にならざるをえないのが本展の限界だ。美術展の枠内でパフォーマンスを扱うことの難しさを、改めて実感した。ただし、北ギャラリーでcontact Gonzoが行なったサウンド・インスタレーションは別物。ライブの素材から新たな価値をつくり出すことに、見事に成功していた。
2010/11/16(火)(小吹隆文)