artscapeレビュー

2010年12月01日号のレビュー/プレビュー

プレビュー:しりあがり寿「わしはもう寝る」展

会期:2010/12/02~2011/01/23

ギャラリーOUT of PLACE[奈良県]

今年10月に奈良で開催された「奈良アートプロム」で、約40台のモニターを駆使して抱腹絶倒の映像作品を見せてくれたしりあがり寿。その縁が続いているということか、間髪を入れず再び奈良での個展が決定した。作品は、1,000人の寝ているオヤジを描いた小品群《わしはもう寝る》。2009年に東京で開催された個展の巡回だが、それでも関西のファンにとって朗報なのは間違いない。石膏の額縁に収まってグースカ寝ているオヤジたちに早く会いたい!

2010/11/20(土)(小吹隆文)

プレビュー:伊東宣明 展“回想の遺体”

会期:2010/12/07~2010/12/12

立体ギャラリー射手座[京都府]

“生と死”という根源的なテーマを追求した作品を制作し、遂には葬儀会社に就職した伊東宣明(現在は退職)。就職後1年半の間に100体以上の遺体と接してきた彼が、その都度つけてきたメモを頼りに、遺体を丹念に回想する。記憶は時と共に薄れるため、回想の遺体は事実とも虚構ともつかない状態になる。そのもどかしさのなかにこそ、伊東が探し求める解が見つかるのかもしれない。

2010/11/20(土)(小吹隆文)

プレビュー:山荘美学~日高理恵子とさわひらき~展

会期:2010/12/15~2011/03/13

アサヒビール大山崎山荘美術館[京都府]

自宅の庭にある百日紅を、見上げた構図で描き続ける日高理恵子。見慣れた自分の部屋を、小さな船や動物たちが行きかう別世界に変身させてしまうさわひらき。2人がアサヒビール大山崎山荘美術館で競演する。日高は、安藤忠雄設計の新館で、天窓を生かした展示を行ない、同館所蔵のモネの《睡蓮》と並置される。さわは、古い洋館の本館を会場に、アンティークな雰囲気の中で映像作品の展示を行なう。個性豊かな空間で、2人がどのような世界をつくり出すかに注目したい。

2010/11/20(土)(小吹隆文)

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飴屋法水『わたしのすがた』

会期:2010/10/31~2010/11/28

にしすがも創造舎とその周辺[東京都]

にしすがも創造舎を起点に、観客が自分の足で周辺にある廃墟を三軒めぐるというのが、この演劇のストーリー。いや、正確には「ストーリー」はなく、そこにあるのはほぼ「コース」のみ。「ストーリー」に近いものがあるとすれば廃墟に点在する貼り紙くらいで、そこには聖書が基となっていると思しきシチュエーションにおいて「主」へ向けた「わたし」の独白が綴られている。恐ろしく朽ち果てた民家、小さな教会、病院。出発地の元中学校も含め、劇場=廃墟はどこを見ても、かつてそこに暮らしまた行き来していたひとの痕跡が空間にあふれかえっていて、不気味だ。おばけのいないおばけ屋敷のよう。すべての小物、柱や壁の傷、建物に巻き付く植物たちは、ただそれがそこにあるというだけでなにかしら見るべき出来事に見えてくる。小さな教会の大きめの部屋に巨大なスズメバチの巣が吊られているなど、演出は無数に施されている。けれども、同時に、ただの廃墟めぐりとどう違うのかとも思わされる。この仕掛けのどこがもっとも演劇的かといえば、廃墟を出るたびに渡される、次に向かうコースの記された地図だったのかもしれない。地図に誘導されることで町並みは劇場と化し、廃墟は貼り紙とも相まって無数のサイン(隠喩)を帯びたものに見えてくる。Port Bの『完全避難マニュアル 東京版』もまた、山手線の各駅周辺を舞台にしている。ぼくは「代々木」しか見ることができなかったが、街にある店の名前や看板の文句などの記された「台本」(専用ウェブサイトからプリントアウトして持参した)を頼りに、観客が店や看板を発見しながら進む作品だった。「フェスティバル/トーキョー10」のテーマ「演劇を脱ぐ」を強く意識させるこの2作が、役者不在、観客が街を歩くだけの作品であることは興味深い。Port B(本作の「代々木」)が街に潜在するものを意識させるマテリアル指向が強いとすれば、飴屋作品の場合それと独白とをブレンドさせることで観念的な指向が際立った。街を舞台にする作家としては岸井大輔も忘れてはならないが、彼らの取り組みによって、この方法の振り幅が明らかになり、それによって一層ユニークな試みが生まれてくる予感を抱いた。

2010/11/23(火・祝)(木村覚)

岡崎藝術座『古いクーラー』

会期:2010/11/19~2010/11/28

シアターグリーン・BIG TREE THEATER[東京都]

7人の人物が1人ずつ舞台中央に現われ、次々と独演する。それぞれのしゃべりには各々異なるエフェクトが与えられている。だじゃれとか、強圧的な怒鳴り声とか、「です」でいい語尾が「ですます」になっているとか。一貫しているのは、どれも「はずしている」こと。そのイタさは「ドゥーン」(村上ショージ)級。話の中身は多くが愚痴で、怒りが無思慮に放出されるたびに観客はあちこちで爆笑する。見ているうちに「悪意」という語が浮かぶ。7人のしゃべりにも時折登場していた古いクーラーが、終わりのほうで登場する。彼(クーラー)は30才と自称。空気の読めない彼は、最後にパンツを脱いで悪意をまき散らす。この30年で棄てられる運命のクーラーは、作者の神里雄大(作・演出)あるいは彼世代の自画像のようにも映る。強烈な虚無感と閉塞感が漂う。そうしたいらだちが見るべきものになっているのは、はずす演技を巧みにこなす役者たちの力量のおかげだろう。「悪意の芸術的昇華」という試みは、おそらくもっと高い到達点が設定されているのだろうが、現時点でも見応えはありゆえに後味は悪くはないが、しかしやはり暗くなる。

2010/11/26(金)(木村覚)

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