2018年01月15日号
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artscapeレビュー

2016年06月15日号のレビュー/プレビュー

ホース・マネー

ペドロ・コスタ監督の映画『ホース・マネー』は、死の直前の混濁した記憶の迷宮めぐりのような展開である。そして闇を裂く光の効果が強烈だった。病める男のほとんど意味不明な語りから始まるが、物語が進むにつれて、その謎めいた言葉の意味は少しずつ解きほぐされる。が、その記憶は個人の体験で閉じず、ポルトガルの社会的な事件や移民共同体の集合的記憶とも接続していた。ドキュメンタリーとフィクションの境界線が揺らぐような作品である。

2016/05/10(火)(五十嵐太郎)

窓学報告会 vol.2

会期:2016/05/11

YKK AP株式会社 窓研究所[東京都]

窓研究所の報告会に参加する。早稲田大学の中谷礼仁研究室による柱間装置論では、香川県の栗林公園の水辺にある掬月亭を題材とする約16分の映像を制作していた。光の状態が変化する1日の空間の表情の変化を丁寧にとらえた作品だが、とりわけ印象に残るのが、誰もいなくなったゾクゾクするような夜のシーンである。そして小津安二郎の映画は、実は柱、床、天井を撮影していなかったことを再認識させられた。

2016/05/11(水)(五十嵐太郎)

石山貴美子展──わたしが出会った素敵な作家たち

会期:2016/05/09~2016/05/14

巷房(3階、地下、階段下)[東京都]

『面白半分』(1972~80)は、僕の世代にとってはとても懐かしい雑誌だ。作家や詩人が半年交代で編集長を務め、それぞれの特徴を打ち出した洒脱な編集ぶりで人気を集めた。初代編集長は吉行淳之介で、以下野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆と続く。これらの顔ぶれは、若い世代にはぴんと来ないかもしれないが、高度経済成長下に花開きつつあった「70年代文化」のエッセンスそのものといってよい。石山貴美子は、その『面白半分』でインタビューや対談記事の写真撮影を担当していた。本展では、その時代に撮影したポートレートを、ヴィンテージ・プリント6点を含めて65点ほど展示している。
文学者たちの普段着の気取らない表情を、いきいきと捉えることができたのは、石山があくまでも傍観者としての位置からシャッターを切っているためだろう。黒子に徹することで、むしろ彼らの無防備な、壊れやすい内面が写り込んできているように見える。今回の写真展のDMには吉行、野坂、開高、五木、金子、井上といった『面白半分』の歴代編集長に加えて、羽仁五郎、草野心平、田中小実昌、寺山修司、大島渚、唐十郎のポートレートが使われている。皆若々しい風貌だが、その12人のうち、五木と唐を除いて10人が故人になっていることに気づくと、感慨深いものがある。「70年代」が、すでにはるか彼方になりつつあるということだが、逆にこれらの写真を見ていると、彼らの記憶が生々しくよみがえってくるように感じる。写真に力があるので、いいエッセイをつけて、ぜひ一冊の本にまとめてほしいものだ。

2016/05/12(木)(飯沢耕太郎)

クリーピー 偽りの隣人

黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』は、当たり前の日常がずれて、いつの間にかそうでなくなる怖い映画である。主人公の職場として山本理顕が設計した埼玉県立大学が登場するが、部屋の向こうも見えるその透明な空間とは対照的に、プライベートな家屋の密室性が際立つ。親密な場所の奥底が反転していく感覚は、フロイトの提唱した「不気味なもの」と通底するものだろう。

2016/05/12(木)(五十嵐太郎)

アピチャッポン・ウィーラセタクン『真昼の不思議な物体』

会期:2016/05/08~2016/05/13

シネ・ヌーヴォ[大阪府]

『真昼の不思議な物体』(2000)は、タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編初監督作品。年齢、境遇、場所もさまざまなタイの人々が、ある物語をバトンのように受け渡しながら口述で語り継いでいくプロセスと、その「再現」映像が、モノクロの映像で綴られる。次の語り手に受け渡される度に、思わぬ方向へ展開・分岐していく物語。整合性という点では破綻しているが、本作を見て感じるのは、サーフィンのような心地よい浮遊感だ。冒頭、車窓の風景を捉えるカメラは、都市の高速道路から下町の市場を抜け、住宅地を行商する女性が即興的に語り出す物語からスタートする。足の悪い車椅子の少年と若い女性の家庭教師。白昼、突然倒れた家庭教師のスカートから転がり落ちた「不思議な物体」。その正体や変容は次の語り手の想像に自由に委ねられ、象使いの少年、村の老婆、中年女性のグループ、にぎやかな小学生たち、手話で会話する女子学生たち……と語り手が交替するごとに、宇宙人の登場するSF、村人による鬼退治、メロドラマ、子どもを誘拐して都会へ逃げる逃避行などとさまざまに変容していく。
口承による物語伝達を記録したモノクロフィルムという性格は、文化人類学におけるフィールドワークの記録としての民族誌映像のパロディを思わせる。さらに、語られた内容を演劇仕立てで「再現」する場面が挿入されたり、「カメラのフレーム外部」から聞こえる音声が侵入することで、カメラの客観性への疑義やフレームの虚構性が示される。だが、ウィーラセタクンの狙いは、ドキュメンタリーの真正性や民族誌映像の客観性への批評にとどまるものではないだろう。テープレコーダーから流れる声に耳を傾け、語り手や演じ手を見守る「観客役」がいることは、演出や虚構性の露呈という側面とともに、口承伝達における「声を媒介とした時空間の共有」という側面を示している。物語の始まりさえも他者に明け渡し、首尾一貫した整合性を手放す代わりに、生き生きとした有機的な語りの力を映画に取り戻し、活性化させることが賭けられているのではないか。ウィーラセタクンの他作品においても、歌や語りの声が宿す魔術的な力は、しばしば象徴的・効果的に取り入れられている。吟遊詩人や口承伝達においては、「聞き手」の存在や願望が強く作用し、時に物語の流れや登場人物の性格・動機付けを変えてしまうほどの力を持つ。そうした即興性と双方向性に開かれた語りの持つ有機的な力を、映画に取り込んで活性化させること。そこでは、語り手の物語と聞き手の願望、映画と演劇、ドキュメンタリーとフィクション、フレームの内と外の境界線は、流動的に揺らぎ溶解している。エンドクレジットで朗々と流れる男性の詠唱は、本作が希求する魔術的な声と即興的な生成の力を象徴的に示していた。

2016/05/13(金)(高嶋慈)

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