artscapeレビュー

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』

2022年06月15日号

翻訳:雨沢泰

発行所:河出書房新社

発行日:2020/03/05

「パンデミック・ディストピア小説」ということで気になっていた一冊。原題は「見えないことについての考察」で、1995年に原著が刊行された。作者のジョゼ・サラマーゴは、1922年生まれのポルトガルのノーベル賞受賞作家。

ある日突然、交差点の車内で信号待ちをしていた男性が「視界が真っ白になり失明する病」を発症する。この「白い病」は、原因不明のまま、恐ろしい速さで無差別に人々に感染していく。発症した失明者と、感染が疑われる濃厚接触者は、家族から引き離され、医師も看護師もいないまま、元精神病棟に強制隔離される。兵士が昼夜見張り、脱走者は銃殺。送り込まれる失明者と濃厚接触者の数は増え続けるが、食糧の配給は次第に滞り、限られた食糧とベッドの奪い合いが始まる。元精神病棟は上下水道のメンテナンスもなされておらず、収容者たちは身体を清潔に保てず、排泄物は廊下にまで溢れ、悲惨な衛生状態に陥っていく。

だが、収容者のなかにただ一人、目の見える女性がいた。第一発症者を診察し、自身も失明した眼医者の妻である。「自分も失明した」と機転をきかせて夫を搬送する救急車に乗り込み、夫以外には秘密を打ち明けないまま収容所で暮らすことになったのだ。読者は、彼女の「眼」をとおして、この強制収容所=社会の縮図の闇を見つめることになる。社会から排除された者の人権を顧みない国家権力の発動。見えない者どうし、すなわち他人の監視の視線がなくなることで、盗みに始まり、良心や罪の意識が崩壊する。食糧の配分や遺体の埋葬をめぐり、人間の尊厳や倫理をどう保てるか。

ただし、「これは無秩序状態ではない」点に、本書の描く真の恐ろしさがある。「全員失明者」という平等性のなかに、自らの生存をより優位にするため、暴力で他者を支配しようとする者たちが出現する。左右の病棟と各病室という空間秩序が体現する支配構造は、仮の平等性を打ち砕く。最底辺の犠牲者となるのは、各病室への食糧の配分と引き換えに性暴力を強要される女性たちだ。「あちこちで本能のまま乱交状態になる」のではなく、各病室=社会集団内で男たちによる「集団的合意」の下で性暴力が遂行されることの方が、本質的な恐怖である。

登場人物の固有名がないことは、「個人としての尊厳も固有の顔貌も奪われた状態」を指すと同時に、寓話性を高める。「私たちには人間の本性が何も見えていなかった」という辛辣な批判/外見に惑わされず「真実の姿」に気づくというヒューマニズムを、「盲目状態」の両義性として本書は語る。

だが読み終えて強く感じたのは、本書は「ケアについての寓話」としても読めるのではないかということだ。なぜ、最後まで唯一失明しないのが「医者の妻」すなわち「女性」なのか。この疑問が導きの糸となる。「集団的な失明」が意味するのは、「監視の視線と道徳心の崩壊」と同時に、「自身のケアができない状態への強制的移行」である。収容所に医者も看護師も不在であること、つまりケアする者がいない環境設定の前半と、困難な旅路の末に自宅=私的な家庭領域に舞台を移した後半の双方において、「医者の妻」には、夫に加え、同じ病室の収容者たちに対し、食糧の確保、導線の誘導、傷の手当て、身体を洗う、衣服の洗濯から「就寝前の本の朗読」まで、あらゆるケア労働が降りかかってくる。そこには、自身も性暴力を受けながらも、被害者の女性たちの身体を洗い清めるという過酷な役目も含まれる。さらに作者は、「ケアする者」の(心の)ケアを担う存在にも目配りをきかせる。後半、さらに悲惨な状況に置かれる「医者の妻」の頬を伝う涙をなめ取り、無言で寄り添ってくれる「涙の犬」である。だが、この「涙の犬」も両義的だ。ケア労働の担い手とされるのは、性役割としての「妻」、そして見返りを求めず自身の言葉を持たない「従順な動物」なのだ。

「視界を覆う白い輝き」しか見えなくなった人々は、人間の本質的な闇の部分を「見ていなかった」と同時に、「他人のケアがないと人間的な生を持続できない」ことを「見ていなかった」寓話でもある。ラストで、人々は失った順番に再び視力を取り戻す。「医者の妻」は「今度は自分が失明する番だ」と恐れるが、彼女に失明は訪れない。なぜなら世界は「ケアを担う者」を永久的に必要とするからだ。失明から回復した人々は再び秩序や都市機能を取り戻すだろう。だが、「自分たちに本当に見えていなかったもの」が何だったか気づくだろうか。「医者の妻」がアパートの窓から視線を落とすと、「町はまだそこにあった」。これはディストピアの終わりを告げる希望ではなく、「ケアの終わりのなさ」の続行という絶望である。

2022/05/13(金)(高嶋慈)

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