artscapeレビュー
カール・ゼーリヒ『ローベルト・ヴァルザーとの散策』
2022年06月15日号
翻訳:新本文斉
発行所:白水社
発行日:2021/11/10
本書は、スイスの伝記作家・ジャーナリストであるカール・ゼーリヒが、作家ローベルト・ヴァルザー(1878-1956)との40回以上におよぶ散策の記録を書き留めたものである。本書は晩年のヴァルザーの人となりを伝える書物として長らく知られてきたが、たとえヴァルザーの作品について何も知らなくとも、本書はそれ自体できわめて興味深い読み物として成立している。
ごく個人的な話になるが、わたしはかつて、エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社、2008)を通じて、このローベルト・ヴァルザーという作家に大きな関心をもった。ハーマン・メルヴィルの小説中の人物「バートルビー」に類する人物を文学史のなかに探っていくこの驚嘆すべき書物は、まさしくこのスイス人作家をめぐるエピソードから始まる。そこで描き出されるヴァルザーの実人生は、カフカやゼーバルトを魅了したその作品と同じく、あるいはそれ以上に興味をそそるものだった。
本書の主役であるローベルト・ヴァルザーは、この「散策」が始まった時点ですでに文学的には沈黙し、スイス東部ヘリザウの精神病院に収容されていた。かたや、編集者でもあった本書の著者ゼーリヒは、この散策に先立って──世間がヴァルザーにあらためて目をむけるべく──その作品をふたたび世に問おうとしていた。そうした背景のもと、1936年以来、ゼーリヒはヴァルザーのいた精神病院をたびたび訪れ、本書に収められた長期間にわたる「散策」を敢行する。本書の初版が世に出たのは1957年、ヴァルザーが亡くなった翌年のことである。
したがって本書はまず、晩年に沈黙したこの作家の言葉を伝える貴重な資料として読むことができる。しかし同時に、本書には「著者」ゼーリヒによる数多の脚色が施されていることに注意せねばならない。訳者あとがきでも指摘されるように、本書の端々にあらわれる箴言めいた言葉のなかには、どこかこの作家には似つかわしくないものも含まれる。この『ローベルト・ヴァルザーの散策』は2021年にズーアカンプから出た最新版の邦訳だが、その編者のひとりであるペーター・ウッツの指摘によれば、本書には「後見人」ゼーリヒの政治的な身振り、さらにはひとりの「作家」としての介入が数多くみとめられるという。
だが、それを単純に本書の瑕疵と考えるべきではないだろう。本書が、ローベルト・ヴァルザーという謎めいた作家との散策を伝える貴重な「資料」であり、それをもとにしたカール・ゼーリヒという人物の「作品」でもあるということはいずれも事実であり、この二つは単純な排他的関係にはない。晩年に沈黙したひとりの伝説的な作家の「生」が、ここには幾重にも捻れたしかたで描写されており、そのことが逆説的にも本書を魅力的なものとしている。さらに本書には、ゼーリヒ本人によるヴァルザーの肖像写真が多数収められている。二人きりの散策の「真実らしさ」を強調するかのようなその数々の写真をいかに「読む」か──それもまた、このミステリアスな書物がわれわれに突きつける問いのひとつである。
2022/06/07(火)(星野太)