artscapeレビュー
フリードリヒ・シュレーゲル『ルツィンデ 他三篇』
2022年06月15日号
翻訳:武田利勝
発行所:幻戯書房
発行日:2022/02/09
2019年6月に刊行開始された〈ルリユール叢書〉(幻戯書房)が、先ごろシリーズ30冊に達したという記事を読んだ
。その玄人好みのラインナップもさることながら、たったひとりの編集者が、月に一冊を超えるペースでこの叢書を切り盛りしているというのは驚異的というほかない。ところで数ヶ月前、その新刊書のなかにひときわ目を引く表題を見つけた。それが本書、フリードリヒ・シュレーゲルの『ルツィンデ』である。フリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)といえば、兄アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(1767-1845)とともに雑誌『アテネーウム』を立ち上げるなど、多彩な活動で知られる初期ドイツ・ロマン派の作家だ。そして、この学者肌の作家による唯一の小説作品が、かれが27歳のときに発表した『ルツィンデ』(1799)なのである。
これは翻訳にして140頁ほどの中篇小説であり、ドイツ・ロマン派に格別の関心を寄せる読者を除けば、本書の存在を知る読者はそう多くはないだろう。ただ、『ルツィンデ』はけっして「知られざる」作品というわけでもない。戦前には1933年と34年に二種類の(!)翻訳が出ており、文芸同人誌『コギト』第30号(1934年11月号)には、かの保田與重郎による『ルツィンデ』論が掲載されている。すくなくとも戦前の日本では、本書は──おもに日本浪曼派を通じて──それなりに知られていた作品であった。戦後に目を転じてみると、1980年代から90年代にかけて刊行されていた『ドイツ・ロマン派全集』の第12巻に、やはり『ルツィンデ』の新訳が収められている(平野嘉彦訳、国書刊行会、1990)。そしてこのたびの『ルツィンデ 他三篇』は、当該作品に加え、関連する「ディオテーマについて」「哲学について」「小説についての書簡」の三篇を収録した、いわば決定版とでも言うべきものである。
そもそも本書はいわくつきの小説である。哲学および文学に深い造詣を示した若きフリードリヒ・シュレーゲルは、本書『ルツィンデ』が引き起こした一大スキャンダルによって、アカデミズムへの道を永久に絶たれることになった。それは、本書がシュレーゲル本人と、8歳年上の人妻ドロテーアの恋愛をただちに想起させる「モデル小説」だったからだ。本書におけるユーリウスとルツィンデは、その数年前、すでにベルリンのサロンで噂になっていたフリードリヒとドロテーアを明らかにモデルとしたものだった。本書の解説によると、『ルツィンデ』をめぐる騒動は、1801年に行なわれたシュレーゲルの教授資格審査の場にまで及んだという(293-294頁)。その小説としての内容の評価以前に、本書はそうしたスキャンダルとともに受容されたのだ。
だが、『ルツィンデ』の本当の「スキャンダル」はそこにはない──かつてそのことを指摘したのが、批評家のポール・ド・マンであった。ド・マンは「アイロニーの概念」(『美学イデオロギー』上野成利訳、平凡社ライブラリー、2013)において本書『ルツィンデ』を取りあげ、ヘーゲルやキルケゴールといった錚々たる哲学者たちが、この小説をなぜかくもヒステリックに論難するにいたったのかを説明する。ごくかいつまんで言えば、その理由は次のようになる。この小説──とりわけ「ある省察」と題されたパート(124-129頁)──では、性愛と哲学をめぐる議論がほとんど不可分なかたちで繰り広げられる。つまりこの小説では、性愛的描写と哲学的思弁が、明らかな意図をもって同じ平面のもとにおかれているのだ。ここに読まれるのは、「性愛のコード」と「哲学のコード」のアイロニカルな混淆であり、そのことが本書を読んだ哲学者たちを激しく苛立たせた原因だ、というのである。
実際に本書を読んでみると、このド・マンの立論にはそれなりに理があるように感じられる。つまり『ルツィンデ』が挑発的なのは、おのれの秘すべき恋愛をモデルにしたという表層的な次元にはおそらくない。むしろ読者は「小説(ロマン)」というこの文学形式に依拠した文学的かつ思想的な挑発にこそ着目すべきなのだ。本書に収録された「小説についての書簡」をはじめとする小品は、そうしたシュレーゲルの意図をうかがい知る助けとなるだろう。巻末の充実した註や訳者解題とあわせて、本書は日本語における『ルツィンデ』の決定版と言える一冊である。
2022/06/07(火)(星野太)