artscapeレビュー
2013年02月01日号のレビュー/プレビュー
東日本大震災復興支援「つくることが生きること」神戸展
会期:2013/01/17~2013/01/27
デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]
アーティストの中村政人が立ち上げた東日本大震災復興支援のためのアートプロジェクト「わわプロジェクト」とデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)の共催による展覧会。たった10日間で終わらせてしまうのが惜しいほど充実した内容だった。会場であるデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)は、1927年に旧館、1932年に新館が建てられた神戸生糸検査所を改修し、2012年夏にオープンしたオルタナティブ・スペースだが、レトロな工場を思わせる広々とした空間がじつに魅力的で、神戸にもようやくこのような場所ができたのかと思うと嬉しくなる。
今回の展覧会で、その空間的魅力を最大限に活かしていたのは、椿昇の巨大なバルーン作品と畠山直哉および宮本隆司の写真によるスライドショーだろう。ミサイルをかたどった白いバルーンは、青みがかった白い光を放ちながら天井高が10メートルはありそうな巨大な空間いっぱいに広がり、いまにも爆発しそうなその広がりが核の保有に対する警告となって観る者に精神的・肉体的に迫ってくる。バルーンのそばにあるカーテンを開けて中に入ると、部屋の真ん中に釣り下がる巨大なスクリーンに被災地の光景が映し出されていた。畠山の撮影による被災した気仙沼の写真と宮本が1995年の阪神・淡路大震災の数日後に撮影した神戸の写真のスライドショーだ。同じスクリーンの裏には別のスライドショーも投影される。畠山が被災する前の気仙沼で撮った写真だ。
被災前と被災後の気仙沼の写真は、とても同じ人間が撮ったとは思えないほど違う。アングルや構図の点では確かに同じ写真家の手によるものと感じられるのにである。その違いは撮影者の心情の違いであるのか、あるいは写された対象に対する観る者の思いがその違いを引き起こすのか。被災前の何気ない日常風景。それは静止画像でありながら、穏やかな時間の流れを感じさせる。これは紛れもなくアートだ。他方、被災後の写真は、報道写真のように硬直してみえる。これはアートなのだろうか。そう思った途端、この問い自体がきわめてナンセンスであるように感じた。実際、次の展示室に行くと、さまざまな支援プロジェクトの記録や映像がインスタレーションされ、それらの一つひとつが小さな希望と大きな愛にあふれている。各々の支援の記録は、アート・建築・デザインの三つに大別されていたが、被災者と支援者の思いが伝わってくる内容は、逆説的に、なにをもって芸術的であるとか、機能的であるといったことを半ば無化しているように思えた。私たちは皆、生きる希望を抱くためになにかをする。それはどんなことであれ、なんと称されようと、その人にとってはかけがえのないことであり、それこそが重要なのだ。[橋本啓子]
2013/01/22(火)(SYNK)
鈴木ユキオ+金魚『大人の絵本』
会期:2013/01/25~2013/01/28
象の鼻テラス[神奈川県]
絵本作家トミー・ウンゲラーの『すてきな三にんぐみ』に触発されて『大人の絵本』というタイトルとなった本作は、第1部が鈴木ユキオ+金魚による『断片・微分の堆積』、第2部がゲスト(25日は黒田育世+松本じろ、26日はKATHY+大谷能生、27日は東野祥子+カジワラトシオ、28日は白井剛+Dill)を招いての『即興絵本』という二部構成。『断片・微分の堆積』は、昨年の『揮発性身体論「EVANESCERE」/「密かな儀式の目撃者」』と同じキャスト、鈴木に加え安次嶺菜緒、堀井妙子、赤木はるかの女性3人による上演。力の拮抗する身体部位の関係を発見しては採集し、それを最良の状態で再生しようとする、鈴木のトライアルはおおよそそのあたりに焦点が絞られているようだ。長年のパートナーである安次嶺はもとより、若い堀井や赤木も鈴木的振付が体に浸透してきたみたいで、昨年の公演よりも観客の身体に訴えかけてくる力が増してきた。近年のダンス作家たちの試みには、身体をストイックに鍛錬し、振付を体現する固有の質をかたちにしようとする傾向がある。それは誰でも踊れる民主的なダンスというよりは、ダンスの高みを追求する傾向であり、排他的に見える面もあるとしても、ダンスにしかできないことを徹底的に追求するなかで普遍的な価値を確立し、閉塞的な状況を突き抜けようとしているのであれば、支持したい。鈴木のダンスに濃密に存在するスリリングな魅力が、女性3人からも遜色なく受け取られるようになるのはもうすぐではと予感した(安次嶺のソロには彼女固有のダンスが強く感じられた)。第2部、ぼくが見た回には白井剛が音楽家のDillとともに出演、鈴木と3人で即興的なパフォーマンスを上演した。この第2部は「音」と「身体」の関係が主題であったというが、黒い革靴を白井と鈴木で奪い合ったり、壁に投げつけたり、床に手で叩きつけたりと「タップ」的な要素が出てくると、「コンテンポラリーのタップダンス?」と期待してしまったが、さほどその点の展開はなく、即興ならでは、ハプニングの連続するなか個人の力量が発揮される時間で場は満たされた。
2013/01/28(月)(木村覚)
松永真ポスター100展
会期:2013/01/09~2013/01/31
ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]
デザインは常にその時代の企業、社会、地域、人々の生活と密接に結びついて現われるものだから、「時代を超えた」とか「普遍的である」という言葉は必ずしも誉め言葉になるとは限らないのだが、ギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催されている「松永真ポスター100展」に関しては、「普遍的な」という形容がもっともふさわしいように思う。松永真の自選による約100点のポスターは、資生堂時代の作品、あるいはいまはなきセゾン美術館の展覧会ポスターを除くと、近作ばかりを集めたのだろうというのが最初に見たときの印象であった。実際、チラシのモチーフにもなっている《JAPAN“燃え盛るか日本、燃え尽きるか日本。”》は2001年、《HIROSHIMA APPEALS 2007》は2007年の作品である。ところが、入口で手渡されたパンフレットを片手に改めて作品一つひとつを見てゆくと、1970年代、80年代、90年代、2000年代と、氏の仕事からまんべんなく出品されていることがわかり、あらめて驚かされた。シンプル、ストレート、インパクトのある構成、色彩、書体……。この「新しさ」はいったいなんなのだろうか。パッケージ、CI、ポスターと多岐にわたる松永真のデザイン・ワークであるが、意外にもポスターのみを一覧する展覧会は初めてであるという。過去に手がけたポスターは約1,300点。そのなかから100種類を選んでいる。ではこの100種類はどのような基準で選ばれたものなのだろうか。松永氏によれば、それはやはり「普遍性」であるという。松永氏の仕事のなかには、その時代の文脈で評価され、大ヒットした作品も多数ある。時代を超越した作品ばかりをつくるアーティストではない。しかし、今回のセレクションでは流行が色濃く反映されるファッションなどのモチーフは避け、結果的により「普遍的」なイメージが選ばれることになったという。いずれのポスターも、いま、街角に貼られていても違和感を覚えないのではないか。
パッケージデザインやCIデザインの多くは短期に消費されるものではなく、長期にわたって使用されることを前提にデザインされる。しかし、一見変わりないように見える企業や商品のロゴも時折リニューアルされる。松永真の代表作のひとつであるスコッティのパッケージも、松永氏自身の手によってアップ・トゥ・デートされてきた。「普遍」は必ずしも「不変」ではないのだ。ここに選ばれた100種類のポスターは、いまの時代感覚における普遍性であり、10年後に松永氏が再び100種類のポスターを選んだとしたら、きっと今回とはまた異なる作品が選ばれ、それでいながら見る者に松永デザインの「普遍性」を印象づけるに違いない。[新川徳彦]
2013/01/28(月)(SYNK)
松永真『ggg Books 別冊 9:松永真』
赤い丸は《JAPAN ”燃え盛るか日本、燃え尽きるか日本。”》(JAGDA、2001)。黒い丸は《HIROSHIMA APPEALS 2007》(広島国際文化財団、JAGDA、2007)。シンプルにして力強いメッセージを放つ代表作を、さらにシンプルに表現した表紙が印象的である。本書はギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催された松永真の展覧会「松永真ポスター100展」に合わせて出版されたテキスト集である。デザイン誌、新聞、講演録などから再録した松永真自身によるテキストのほか、亀倉雄策、田中一光、永井一正らによる批評が収録されている。内容は「ポスター」「ブック&エディトリアル」「パッケージ」「CI、マーク&ロゴタイプ/カレンダー」「西武美術館・セゾン美術館の仕事」「海外での個展・活動など」「フォラージュ」「フリークス」「書評/コラムなど」「年譜」で構成。伝説的なスコッティのパッケージデザイン・コンペの話はもちろん、個々のデザインの背後にある物語から、自らの人生、デザイン哲学にいたるまで、松永真の人と仕事を知るうえで欠かすことのできない文献である。[新川徳彦]
2013/01/28(月)(SYNK)
プレビュー:岡田利規×ピッグアイロン・シアターカンパニー『ゼロコストハウス』
会期:2013/02/11~2013/02/13
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
岡田利規が国際的に活躍するアメリカのパフォーマンス集団ピッグアイロン・シアターカンパニーと組んで上演するのが『ゼロコストハウス』。タイトルから推測できるように、この作品は坂口恭平の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版、2010)をマテリアルにして、またヘンリー・デイヴィッド・ソロー『森の生活』も参照しながら、岡田自身の自伝的な内容を盛り込みつつ、東日本大震災以後の生活が語られていくのだという。2年近く前から(すなわち「3.11」以降)、演劇の分野でもダンスの分野でも「震災以後」を主題にした作品は多くつくられてきた。それらの多くはこの歴史的な出来事と十分に張り合っているようには見えず、たんに「流行現象に飛びついている」のかと思わざるをえないような作品も少なくなかった。先述の坂口と熊本で実際に交流を行なってきた岡田は、彼の直接の経験から一体なにを語るのか、その経験から彼がえた「変化」とは具体的にはどんな事態なのか、そしてなによりそうした自身の体験や考察の成果から演劇というフォーマットはどう揺るがされるのか、大いに期待したいところだ。
2013/02/01(金)(木村覚)