artscapeレビュー

2015年03月01日号のレビュー/プレビュー

浅野綾花「Uターンのまなざし」

会期:2015/02/03~2015/02/21

橘画廊[大阪府]

浅野綾花は、都市風景をモチーフにした版画や言葉を用いた作品で知られる若手作家だ。作品には多分に自分自身の経験や感情が反映されており、私小説的な作風と言ってよいだろう。そんな彼女が、本展で新たな方向性を見せてくれた。それは、人物(自分、友人、知人、芸能人)の顔を描いた版画と、商品パッケージや包装紙、レシートなどをコラージュした新作だ。コラージュにより具体的な物質と情報が導入され、彼女の表現はまた新たな段階に入ることになる。現実と空想、主観と客観が入り混じった詩的世界が、今後ますます豊かになることを期待している。

2015/02/04(水)(小吹隆文)

鉛筆のチカラ 木下晋・吉村芳生 展

会期:2014/12/06~2015/02/08

熊本市現代美術館[熊本県]

木下晋と吉村芳生の二人展。それぞれ主題も関心も異なるが、ともに鉛筆を用いている点では共通している。前半に木下、後半に吉村の作品が立ち並んだ展観は、よく知られた代表作が多かったとはいえ、非常に見応えがあった。
この二人の優れたアーティストについては、すでに十分に論じられているので、新たな論点を提起することは、なかなか難しい。ただ、両者による作品をあわせて見てみると、木下にとっての「他者」と吉村にとっての「自己」が、鉛筆という画材をとおして表裏一体の関係にあるように思われた。
ハンセン病患者で詩人の桜井哲夫や最後の瞽女、小林ハルをみつめる木下の視線は、絶対的な他者を見ているようで、そのなかに自分自身を見出しているように見えるし、尋常ではない執着心によって自分の顔を徹底的に対象化している吉村にしても、描かれた自画像の視線が見ているはずの他者を私たちに想像させている。つまり木下と吉村は、それぞれ自己と他者に焦点を強く当てながらも、自己の中の他者、他者の中の自己を浮き彫りにすることで、結果的に、自己と他者の境界線を溶け合わせているように見えた。両者による鉛筆の線は、どれほど正確に対象を写しとったとしても、自己と他者の曖昧で不確かな質を照らし出すのである。
吉村の作品に《未知なる世界からの視点》という絵画がある。川岸に咲き乱れる黄色い花を色鉛筆で描いた大作だが、吉村はこれをつねに天地を逆にして展示しており、実際本展でもそのように展示されていた。川面に映る花々が上に、実際の花々が下に見えるわけだが、あまりにも精緻に描かれているため、一見しただけでは逆転していることがわからない。ただ今振り返れば、この転倒は、展示上の工夫を超えて、上述したような自己と他者の転倒をも暗示しているように思えてならない。
自己と相対する他者がいる。その他者の先には死者がいる。木下と吉村の作品は、おそらく自己と他者の境界線のみならず、死者と生者のそれをも撹乱しているのではないか。木下の作品に強く立ち込めている祈りの雰囲気は、自己と他者、そしてその先の死者に連なる、長い時間性が感じられるし、前述した吉村の絵画が描いているのは文字どおり此岸と彼岸の狭間だからだ。自己を出発点にしながらも、他者や死者にまで到達する魂の往来。木下晋と吉村芳生は、それぞれ別々のやり方で、その境地を目指しているのではなかろうか。

2015/02/05(木)(福住廉)

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成田亨 美術/特撮/怪獣

会期:2015/01/06~2015/02/11

福岡市美術館[福岡県]

成田亨の本格的な回顧展。ウルトラマンの怪獣をデザインしたことで知られているが、その前後に制作された絵画や彫刻なども含めて700点あまりの作品が一挙に展示された。
何より眼を引いたのは、数々の怪獣を描いた絵コンテ。強弱のある線と濃淡をつけた水彩の色彩を組み合わせた怪獣の描写がとてつもなくすばらしい。昆虫や動物など、怪獣の着想の源となったイメージも併せて展示されていたので、成田の想像力の展開過程も理解できるようになっていたが、やはり最大の見どころはその想像力を実際にフォルムに置き換えた手わざにある。線とかたちの有機的な結合の巧みさに何度も唸らされた。ウルトラマンという大衆文化を生み出した根底には、成田の類まれな描写力が隠されていたのだ。
本展の醍醐味が怪獣デザイナーとしての成田亨の全貌を解き明かすことにあることは疑いない。けれども、その余韻として残されるのは、むしろ大衆芸術と純粋芸術が重なり合う余白である。ウルトラマンシリーズ以後の成田のクリエイションが次第に先鋭化していき、そのデザインの重心も有機性から抽象性に移り変わっていった事実を考えれば、成田を大衆芸術から純粋芸術への移行過程に位置づけることはできなくはない。けれども、成田はジャンルを横断するように大衆芸術から純粋芸術へ転身したわけではあるまい。晩年盛んに描いていた油彩画には、カネゴンやピグモンといった自らが生み出した怪獣がたびたび登場しているからだ。成田にとって、自らの立ち位置はそもそも最初から大衆芸術と純粋芸術が重複する領域にあったのだ。
多くの場合、現代美術を中心に考える思考方法によると、純粋芸術を大衆芸術から切り分ける傾向がある。そのことによって美術の自立性を唱導しようとしたわけだが、成田亨の豊かな創作活動が示しているのは、そのような制度上の区分があくまでも人為的につくられたものにすぎないという厳然たる事実である。
80年代以後、成田の想像力は神話的な物語へと向かった。龍や天狗など、誰もが知るキャラクターであるがゆえに、成田の想像力がそれらを十分に開花させたとは言い難いが、それでもここには重大な意味がある。なぜなら成田がはじめから大衆芸術と純粋芸術が重複する領域に立脚していたとすれば、成田の想像力はそもそも最初から神話を物語っていたとも考えられるからだ。晩年になって根源的な神話に立ち返ったのではなく、ウルトラマンシリーズの怪獣をデザインしていた頃から成田は神話的な想像力を発動していたのではなかったか。成田自身が的確に指摘しているように、「神話は歴史ではなく人の想像力」の問題なのだとすれば、純粋芸術であれ大衆芸術であれ、想像力をもって何かを創作することは、必然的に神話の水準に到達するはずだ。成田亨の功績は、現代美術やサブカルチャーという制度的区分にかかわらず、ものづくりの極限化が神話にいたる道筋を、私たちの目前に示した点にある。

2015/02/05(木)(福住廉)

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山城大督個展「HUMAN EMOTIONS/ヒューマン・エモーションズ」

会期:2015/02/06~2015/02/22

ARTZONE[京都府]

京都市内の複数の会場で行なわれた「映像芸術祭 MOVING 2015」のプログラムの一つ。《VIDER DECK/イデア・デッキ》と《HUMAN EMOTIONS/ヒューマン・エモーションズ》の2作品が出品されたが、特筆すべきは後者。本作は、会期前の会場に簡単なセットを組み、そこに1歳、5歳、7歳の子供たちを登場させ、複数台のカメラで撮影したものを撮影時とほぼ同じ状態の会場で再生するものだ。まだ社会を知らない子供たちが遊戯的な交流を続ける中で、種々の感情や関係性が生まれ、社会性の萌芽らしきものがうっすらと確認できる。子供たちの行動は本当に瑞々しく、またスリリングでもある。最初から最後まで目を離せない本作は、まさに傑作と呼ぶべきであろう。

2015/02/07(土)(小吹隆文)

TURN/陸から海へ ひとがはじめからもっている力

会期:2015/02/01~2015/03/29

鞆の津ミュージアム[広島県]

日比野克彦監修による連続企画展。鞆の津ミュージアムをはじめ、全国4会場を巡回しながら、「ひとがはじめからもっている力」を再認識させる作品を見せた。参加したのは、会場によって異なるとはいえ、Chim↑Pomやサエボーグ、中原浩大、田中偉一郎、岡本太郎、マルセル・デュシャンなど、古今東西さまざまなアーティスト、27組。全般的な傾向として、日比野自身や中原浩大といったベテランのアーティストが、おそらく「ひとがはじめからもっている力」を意図した作品を発表したため大失敗していたのに対し、比較的若いアーティストはそのようなテーマと無関係に作品を制作しているため、それぞれ鮮烈な印象を残すことに成功していた。
淺井裕介は土蔵の内部に、彼が近年熱心に取り組んでいるマスキングテープを貼り合わせた作品を制作した。暗い空間の四方八方に手足を突っ張った、有機的な生命体のような作品は、絵画でもあり彫刻でもあり、しかしそのいずれでもないような不思議な魅力を放っていた。
岩谷圭介は日本で初めて風船による宇宙撮影を成功させた人物。実際に風船を上昇させ、そのカメラから見える光景を撮影した映像を発表した。回転しながら徐々に高度を上げていく風船は、厚い雲を突き抜け、大気圏外へ入る。黒い宇宙空間と青い地球の対比が目覚ましい。やがて風船が破裂すると、落下。映像には、GPSを頼りに回収する様子まで記録されている。岩谷のプロジェクトが素晴らしいのは、必要最低限の技術を自分で開発することによって、通常、国家や巨大資本に牛耳られている宇宙空間を個人の手の中に見事に取り返している点にある。大空を飛ぶ自由を奪還しているのが八谷和彦だとすれば、岩谷圭介は宇宙を「我が物」にしようとしていると言えよう。アクセスしがたいエリアに接近しうる糸口をつけた意義が大きいのはもちろん、ほんとうに優れているのは、まさしくその壮大な想像力なのだ。
だが、個別の作品はともかく、展覧会全体に視角を広げてみれば、疑問がないわけではない。例えば「TURN」というコンセプトは、海から陸への転回によって、「ひとがはじめからもっている力」への視点の転換を暗示していることは理解できるにしても、そのパースペクティヴがあまりにも広すぎるため、それが具体的に何を指しているのか、いまいち理解しにくい。言い換えれば、「TURN」によって対象化される事象と、「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」、あるいは「ポコラート」が指示する事象の区別が判然としないのである。このようなコンセプトの曖昧さは、必然的に「ひとがはじめからもっている力」の曖昧さと結びついている。「ひとがはじめからもっている力」という理念は、稚拙な描写であろうと、単純なかたちの造形であろうと、シンプルな想像力であろうと、どんな作品であれ回収しうる広がりを持ちえている。ところが、厳密に考えてみると、この美術館の前回の展覧会「花咲くジイさん〜我が道を行く超経験者たち〜」で披露されていたような、老人の想像力や創造力、そしてエロスは周到に排除されていることに気づかされる。老人の止むに止まれぬ創作活動が「ひとがはじめからもっている力」の発露ではないと言い切ることができるのだろうか。
「TURN」のような装置が、社会的な弱者や周縁化された人々を包摂するノーマライゼーションの政治学に貢献することは想像に難くない。だが、いみじくも岩谷の風船宇宙撮影が端的に示しているように、アートの可能性は、そのような社会の同調圧力ないしは限界を鮮やかに突き抜ける運動性にこそあるのではなかったか。社会をより豊かにするためには、「ひとがはじめからもっている力」などという無難なテーマではなく、大気圏外へと突破するアートの力をこそ理念とすべきである。

2015/02/07(土)(福住廉)

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2015年03月01日号の
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