artscapeレビュー

2015年03月01日号のレビュー/プレビュー

微笑みに込められた祈り 円空・木喰 展

会期:2015/02/07~2015/03/22

そごう美術館[神奈川県]

江戸時代の僧、円空と木喰による神仏像を見せる展覧会。円空(1632-1695)と木喰(1718-1810)はそれぞれ生きた時代こそ重ならなかったとはいえ、ともに全国を行脚しながら各地で木を彫り出し、数多くの神仏像を造像した。その数、現存しているだけで、円空仏は約5,000体、木喰仏は600体あまり。いずれにせよ、かなりの数の神仏像をつくり出した僧であることは共通している。さらに付け加えれば、両者はともに、中高年になってから造像を始めたという点でも通じている。
本展は、両者が彫り出した神仏像を一挙に見ることができる貴重な機会。それぞれ比較しながら見てみると、造形上の共通点と相違点が浮き彫りになるのが面白い。それぞれ造形上の変化が見られるとはいえ、一般的に言えば、円空仏は荒々しく力強い直線的な造形を特徴とする一方、木喰仏は柔らかく優美な曲線的な造形が多い。円空仏は見上げるほど大きいものもあるが、木喰仏の大半は抱えられるほど小ぶりなものである。
ひときわ注目したのは、そのお顔の微笑みである。よく知られているように、双方はともに穏やかな微笑みを浮かべたお顔が特徴的とされているが、本展で展示された170体あまりの神仏像を見ると、一口に微笑みと言っても、その内実は実に多様であることがわかる。文字どおり誘い込まれるような深い微笑から、哀しみを覆い隠したような微笑まで、微笑の幅はとてつもなく広い。木喰仏のなかには、微笑みを通り越して、硬い意志を封じ込めたかのような強いお顔まである。
円空仏と木喰仏が庶民の祈りの対象だったことはまちがいない。だが、それらの微笑みの幅広さは、その祈念の多種多様さと対応していたように思えてならない。祈りの種別がさまざまだったからこそ、円空仏と木喰仏はさまざまな表情で微笑みを湛えることで、さまざまな祈りに応えようしていたのではなかったか。普遍的な美という神話が崩壊した現在、円空仏と木喰仏の醍醐味は、局地的な場所で必要とされる造形という意味で、インターローカリティーにあると考えられるだろう。

2015/02/09(月)(福住廉)

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関かおり『マアモント』

会期:2015/02/09

横浜にぎわい座 のげシャーレ[神奈川県]

2010年に初演され、2012年のトヨタ コレオグラフィーアワードでは次代を担う振付家賞を獲得した『マアモント』。本作はその再演になる。白い舞台空間に現れるのは、白いダンサーたち。じっくりゆっくりとした動作は、ダンサーたちを見たことのない奇怪な動物に変容させる。振り付けを与えることでダンサーを人間ではないなにかに変えるという試みは、バレエにもモダン・ダンスにもあるいは舞踏にもあるし、伝統的な芸能にもあるものだ。それぞれの試みには異なるそれぞれの目的があり、それぞれ別種の達成を目指している。関の目的はなんだろう。たんなる記号としてのモンスターではなさそうだし、わかりやすい恐怖でも美しさでもないようだ。おそらくそれは、別種の生物の「気配」を出現させることなのではないか。気配は目に見えるものではない。見えるもののなかでただ察せられるものだろう。この「察知」の感覚を観客から引き出すこと。関がそこを目指していたとすれば、それは特異な芸術的挑戦であろう。数分のパフォーマンスが終わるたびに暗転し、再度照明がつくと別のパフォーマーがすでに動作をはじめている。それはまるで、珍獣を次々と「スライドショー」で観察しているかのようで、観客席も含めた劇場空間が博物学の教室になったのかと錯覚するような、不思議な感覚に襲われた。気配の出現のための緻密な努力はいかほどのものだろう。ただ、欲をいえば、もっと緻密であってほしかった。関の抱く美意識を想像するに、きっともっと到達したい高みがあるはずだ。すべてのダンサーからそのような気配を感じられたかというと、そうは言い切れない。目指すべきイメージと達成されたものとのギャップを感じてしまうこともあり、そういうときには、CGが高度に発達している現在、あえて人力で未知の生物を劇場に出現させる意味があるのかとつい思ってしまう。いや、そうではないのだろう、ダンサー(人間)こそが「気配」を生み出せる媒体なのだ。でも、本当にそうなのか、CGのクオリティーがダンサー(人間)を上回る日が来るのかもしれない。と、こういう対話がつい心のうちで起きてしまうのだが、ひょっとしたら、目指すべきイメージ(完成形)を見る側が推測してしまうから、CGとの比較なんてことも考えてしまうわけで、イメージを推測させないなにかを踊るのならば、そこをかいくぐれるのかもしれない。


マアモント:marmont - excerpt -

2015/02/09(月)(木村覚)

かのうたかお展

会期:2015/02/10~2015/02/22

ギャラリー中井[京都府]

かのうたかおの陶芸作品は、壺状の型にシャモット(耐火レンガを細かく砕いた粒)と長石を混ぜて詰め、焼成したものだ。壺としての実用性はなく、それどころかいくつもの亀裂や穴が開いている。砂礫のような質感も相まって朽ち果てた古代遺物のようだ。しかしそこには、「陶芸とは何か」という根本的な問いかけや、歴史ある窯元の家に生まれた自身の出自、大学卒業後に海外青年協力隊の一員としてニジェール共和国を訪れた際に知ったアフリカの土や砂への思いなどが反映されている。つまり、かのうの陶芸観を凝縮したオブジェなのだ。また、新作の一部には人面の造形や櫛目模様も見受けられるが、これは弥生式土器から着想したものだという。この日本陶芸史にコミットする姿勢は、従来の作品には見られなかったものだ。新たな要素を加えた彼の創作は、次のステップへと踏み出しつつある。

2015/02/10(火)(小吹隆文)

京都の高等女学校と女学生

会期:2014/12/20~2015/03/29

京都市学校歴史博物館[京都府]

京都では、1869(明治2)年に日本で最初の学区制小学校が開校した。番組とよばれる自治組織ごとに設置された、いわゆる「番組小学校」である。元治の大火や東京奠都であたりが沈滞するなか、復興のシンボルとして町衆の手によって創設され地域ぐるみで管理運営まで行なわれたという。元明倫小学校の京都芸術センターや元龍池小学校の京都国際マンガミュージアムなど、統廃合で閉校になった番組小学校の建物が近年相次いで他の利用目的の施設に生まれかわっているが、元開智小学校の本館もそのひとつ。木造瓦葺きの立派な門をくぐり成徳小学校から移築された起り破風の玄関をとおって館内に一歩足を踏みいれると、板張りの廊下や石製の階段手摺、生徒が描いた壁画など、いかにも懐かしい風景が広がっている。
高等女学校の制服をテーマにした本展では、写真や資料で近代の女学生文化をたどる。1891(明治24)年の学校法改正とともに登場した女学生は、かつては恵まれた良家の子女だけがなれる憧れの存在だった。昭和のはじめには京都市内に公立6校、私立10校あった女学校も第二次世界大戦後には共学化がすすんで女学生の存在価値も次第にうすれ、いまでは女学生という言葉自体あまり耳にしなくなった。展示品にレプリカ一点しか実物の制服がないのは少々残念だが、数々の写真パネルからでも十分に当時の様子をうかがい知ることができる。パネルの多くは制服姿の女学生を写した集合写真である。明治期には着物に髷の正座、大正期には袴に庇髪の椅子式座位または立位、セーラー服に引っ詰めの三つ編みになって顔や身体に表情がみられるようになるのは昭和期にはいってのこと。満面の笑顔にいたっては戦後になるまでほとんどみあたらない。大和撫子とはいたって控えめで大人しく装うものだったのである。資料の多くは個人からの提供というが、これらの写真をアルバムにしまって大切に保管していた人たちの思いを想像すると、その時代を生きた少女たちの存在が急にリアリティーを帯びて見えてくる。[平光睦子]

2015/02/13(金)(SYNK)

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篠田千明『The 5×5 Legged Stool──四つの機劇より』

会期:2015/02/13~2015/02/15

高架下スタジオSite-D 集会場[神奈川県]

昨年7月に上演された『機劇』Aプロの一部「ダンススコアからおこしてみる[譜面]」をリニューアルしたのが本作。もっとも大きな変更点は、映像にあった。この作品の趣向は、ダンサー福留麻里がアンナ・ハルプリンの「5 Legged Stool」という作品をひとりで演じるというもの。ひとりで五つのパートをどう演じるかというと、福留がひとつ目のパートを演じ終え、次に二つ目を演じる際に、ひとつ目の演技の内容が会場に設置してあるモニターに映されるという形式をとる。そうやって、ひとつのパートの演技が終わるたびにモニターでは映像が重ねられ、映像のなかでパートがひとつずつ増えてゆくというわけだ。舞台上の演技が映像によって編集され統合されていくという点に、篠田千明の独創的なアイディアは凝縮されているわけだが、初演の際には映像を重ねた結果福留の姿が映像内で薄くなってしまうという難点があった。ところが、今回は映像を重ねる代わりに、福留が映っている部分を周りから切り取るようにすることで、薄くなる傾向が改善されていた。福留が複数映ると画面の枠のなかが複数に切り分けられる。その映像自体新鮮で面白いのだけれど、それがたんに映像としてあるのではなく、舞台のなかにモニターとともに設置され、舞台表現の一部となっているところに、本作の最大の驚きがある。じつは、映像のなかの福留は、別撮りだ。別の場所で撮ったものであり、目の前の演技をその場で撮影し、即座に編集し、上映したというものではない。とはいえ、それでもその映像は、目の前で演技を行なう福留と響きあう。このことはなによりひとつの「福留麻里の身体」だからこそ与えられる共鳴だろう。時間の経過とともに「福留麻里の身体」は増殖する。複数のパートは、普通は異なる複数の人間によって演じられるわけだが、ここではひとつの「福留麻里の身体」がそれを実現させる。そのことは奇妙で、異常でさえあるのだけれど、しかしひとつの身体によってであるがゆえの統一感もあって、映像が生み出す演劇なるものに、今後起こりうる「未来の演劇」としての手応えを感じた。

2015/02/15(日)(木村覚)

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