artscapeレビュー
2017年05月15日号のレビュー/プレビュー
ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展
会期:2017/04/29~2017/06/25
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
ソール・ライターの日本における最初の本格的な展覧会となった本展の構成は、やや意外なものだった。ライターといえば、ニューヨークのダウンタウン、イースト・ヴィレッジの自宅の界隈を撮影した、カラー写真のスナップショットがよく知られている。一時、ほぼ忘れられた存在になっていた彼の“復活”のきっかけとなったのも、ドイツのSteidl社から刊行された写真集『Early Color』(2006)だった。
だが今回の200点あまりの展示作品には、初期のモノクローム写真やファッション写真、絵画作品、プライベートに自室で撮影されたヌード写真などが、かなりの部分を占めている。しかも、それらの作品がとてもいい。ライターは本来画家志望であり、1980年代以降写真の仕事から遠ざかったあとも、あたかも日記を綴るようにスケッチブックにドローイングを描きためていた。ボナールを思わせる詩的で生彩あふれる色彩感覚と、大胆な筆遣いによる絵の仕事は、彼の画家としての才能をまざまざと示していた。初期のモノクローム写真のナイーブな眼差しも印象に残るが、より驚きだったのはヌード写真だった。みずみずしいエロティシズムと、親密で生々しい雰囲気は、ライターのスナップ写真にはほとんど見られないものだ。彼の写真家としての「もうひとつの顔」が、そこにくっきりと浮かび上がっていた。
本展のキュレーションを担当したポリーヌ・ヴェルマール(ニューヨーク国際写真センター)の、ライターの作品と日本の浮世絵との親和性という指摘もじつに興味深い。たしかにその縦位置の構図、フラットな色面分割、何も写っていない部分(「間」)の強調、カリグラフィー(看板の文字など)への強い興味などは、浮世絵的としかいいようがない。実際にライターの蔵書には、北斎、広重、春信、歌磨、清長、写楽らの和装本、茶道や俳句の研究書、『好色一代女』、『枕草子』、『更級日記』の英訳本などもあったという。ライターが日本文化と伝統絵画の表現に強い興味を抱き続け、それを自分の写真に応用としていたことは間違いない。そのあたりについては、さらなる調査・研究が必要になってくるのではないだろうか。一回で終わるにはもったいない展示なので、さらに別な角度からの展覧会の企画を期待したいものだ。
2017/04/29(土)(飯沢耕太郎)
北参道オルタナティブ・ファイナル
会期:2017/04/08~2017/05/22
北参道オルタナティブ[東京都]
昨年12月、取り壊し予定の家屋を舞台にグループ展「北参道オルタナティブ」を開催。ところが取り壊しが延期されたため、「北参道オルタナティブ・ファイナル」として第2回目の開催となった模様。このまま取り壊しが延期されれば、どこかの「閉店セール」みたいにずるずると「ファイナル展2、3…」と続けていけるのではないか。なんてことは考えてないよね。もともとこの建物、アクリル絵具のリキテックスで知られる旧バニーコーポレーション(現バニーコルアート)の社屋だったらしい。どうりでチラシにリキテックスの広告が載ってるわけだ。参加作家は、阪本トクロウ、椛田ちひろ+有理、村上綾、角文平、原田郁、市川平、桑山彰彦ら16人。作品は、ファイナルと銘打ってるわりにおとなしく、壁に穴をあけたり床を抜いたり絵具をぶちまけたりする人はいなかった。まあやりたくてもできない大人の事情があるんだろう。てか、そういう空気を読めない人は最初から呼ばれないわけで。その結果、よくも悪くも踏み外した作品はなく、ほどよくまとまりのある展覧会になっていた。
2017/04/29(土)(村田真)
プレビュー:したため#5『ディクテ』
会期:2017/06/22~2017/06/25
アトリエ劇研[京都府]
京都を拠点に、近年着実に力をつけてきている「したため」は、演出家の和田ながらが主宰する演劇ユニット。初期作品では、台本を用いず、出演者との会話を積み重ね、その人の記憶や経験から言葉を引き出し、「演劇」としての時空間を構築していく方法論が試みられていた。近年は、自由律俳句や小説など、戯曲でない(演劇の舞台のために書かれたのではない)テクストを台本として用いる手法へとシフトしている。特に、昨年発表された『文字移植』は、ドイツを拠点に、日本語とドイツ語の両方で執筆する作家である多和田葉子の同名小説を、「演劇」として俳優の発話する身体に「移植」する試みであった。「翻訳」の(不)可能性、言語の物質性、異言語や異文化の越境に伴う身体的な違和感を主題としたこの小説では、原文のドイツ語の語順のまま、単語が読点で区切って並べられ、日本語の文法構造が破綻したパートと、読点が一切ない日本語で書かれたパートが交互に登場する。そうした構造的な仕掛けに加え、ポストコロニアルと男性中心主義への批評が何重ものメタファーによって仕掛けられ、多層的な解釈をはらむ小説だ。したためは、美術作家の林葵衣による舞台美術の力も借りつつ、俳優の身体表現と声によって、テクストの密度を音響的・立体的に立ち上がらせることに成功していた(詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
今回の新作公演でしたためが挑むのは、テレサ・ハッキョン・チャによる実験的なテクスト『ディクテ』。朝鮮戦争と軍政を逃れて渡米したチャは、コリアン・ディアスポラとして二重化された生と言語を生きる自らの苦痛に、日本の植民地支配により母語を剥奪された母の世代の記憶を重ね合わせ、英語とフランス語に漢字やハングルが混じる多言語の使用と、フランス語の書き取り練習、カトリックの教義問答、映画の台本など、様々な文体のコラージュからなる極めて多層的なテクスト『ディクテ』を書いた。前作の『文字移植』においても主題化されていた、翻訳、ポストコロニアル、異文化・異言語へ移植される身体、発話的苦痛、ジェンダーといったキーワードが、本公演『ディクテ』ではどのような深化をとげるのか、非常に興味深い。舞台美術は前作と同じく、林葵衣が担当。さらに、外国から日本に移住した人々に取材する作品を継続的に発表しているBRDGの山口惠子が出演者として参加する。演出家の松田正隆による舞台化や山田うんによるソロダンス作品など、これまで何度も舞台化されてきた『ディクテ』だが、したため版はどのようなものになるのか、見逃せない。
関連レビュー
2017/04/30(日)(高嶋慈)
ライアン・ガンダー ─この翼は飛ぶためのものではない
会期:2017/04/29~2017/07/02
国立国際美術館[大阪府]
ライアン・ガンダーの重要作と新作約60点を紹介する個展。壁にキャプションはなく、ハンドアウトの会場図に記されたナンバリングを頼りに、「作品」を探す「鑑賞行為」は、畢竟、「作品」と「作品でないもの」の境界、美術館という制度的空間、「見ること」をめぐる思考へと向かうことになる。ただし、「美術」という制度へのメタな言及を「作品」として成立させるガンダーの手つきは、ユーモアやウィットに富み、思わずクスリとさせられてしまうものだ。
例えば、仮設壁の下の隅に、偶然足をぶつけて開けてしまったような「穴」には、丸めた紙くずが無造作に突っ込んである。チラシのメインビジュアルは、壁に取り付けられた眉毛と目玉がキョロキョロと動き、色んな表情をしてみせる愛らしい作品だが、通常は観客に「見つめられる」存在が「見つめ返す」という反転をはらむ。せわしなく動く眉毛と目玉は、私たち観客自身の「眼の運動」、つまり視覚的な刺激を求める欲望を模倣するかのようだ。また、何もない展示室の床や壁に、おびただしい黒い矢が突き刺さった作品もある。矢は均等に散らばるのではなく、床や壁のある箇所に向かって緩やかに密集している。展示空間に物理的な作品を置くのではなく、それを「見る」観客の視線を「矢」に置き換えて可視化したと考えられる。一方、《アンパーサンド》では、壁の一部がフレームよろしく正方形に切り取られ、台に乗ったさまざまな物品がベルトコンベアーで運ばれ、目の前を通過していく。それらは電化製品や衣服、日用雑貨が多いが、落書きされたマネキンの一部など、不可解なオブジェも混じる。陳列される物品の一つひとつには、「解説文」を付した冊子が用意される。明らかに「美術館」の擬態であるが、ここでは、観客が自分の足で歩く代わりに、「作品」の方が向こうからやってきてくれる。私たちは、用意されたソファに身を沈め、TVを眺めるようにそれらを消費すればよいのだ。
このように、「美術」という制度への自己言及性とゲーム性がガンダー作品の特質だが、この点で興味深いのは、ガンダー自身が手がけたコレクション展「ライアン・ガンダーによる所蔵作品展──かつてない素晴らしい物語」である。時代、メディアや技法、テーマが異なる作品どうしが、形態的類似性や記号的な連関性に基づき、「ペア」として半ば強引に並置され、接続されている。例えば、「円」というキーワードで、吉原治良の絵画とイサム・ノグチの彫刻。「夫婦(カップル)」というキーワードで、バゼリッツの逆さまの肖像画とシーガルの石膏像。「星空」というキーワードで、キーファーの巨大な絵画と星座のイメージを小さな箱にコラージュしたコーネルのオブジェ。「椅子」というキーワードで、倉俣史朗とミロスワフ・バウカ。「後ろ向きの裸婦」というキーワードで、パスキンとリキテンスタイン……。ここで行なわれているのは、作品が属す文脈からの切断と再接続であり、その交換可能性と組み合わせの恣意性は、美術史という「物語」とそれを制度的に支える美術館というシステムを、ゲーム的な遊戯性の中へと散逸させてしまう。
ただし、ここで留意したいのは、ガンダーが自作を(しかも特権的に2作品も)配置している点である。そして2作品とも、見た目の類似性ではなく、「コンテクスト」への位置づけへと回帰する欲望が透けて見えることだ。自作の一つは泉太郎の作品とペアで設置され、ユーモアや軽やかさといった「同時代的感性」を匂わせる(ガンダーも泉も1976年生まれ)。もう1作は、ローゼンクイストのポップアート絵画と並置され、深読みを誘う。このようにガンダーの手つきは両義的だ。一方では、美術史という「物語」や美術館というシステムをゲームの遊戯性の中へ解体しつつ、「物語」の構成要素として自作を登録し、コンテクストへの回帰を密かに欲望するからだ。その意味でこれは、「コレクション展」というフォーマットを利用した、もうひとつの「作品」と言えるだろう。
2017/04/30(日)(高嶋慈)
山岸俊之展[WHITE BIBLE]コトバをおくる
会期:2017/04/30~2017/05/07
ギャラリー水・土・木[東京都]
ギャラリーには正方形の桐箱が並び、そのなかに空(雲)の写真と、聖書からの引用を点字と活字で書いた紙が入っている。奥の和室は、畳が取り除かれて江戸期の和書を貼った板が敷きつめられ、その奥の棚にやはり点字訳した童謡20編が置かれている。近年の山岸の関心は聖書と点字にあるようだ。山岸によれば、12年前のクリスマスの日にふと入った教会で、盲目の司祭が点字を読みながら「はじめに、言(ことば)があった」と述べたのがきっかけだったという。以来、聖書と点字を勉強し、五島列島の教会やキリシタンの史跡を巡っているらしい。この日は山岸のトークがあり、以上のようなことを語ったのだが、最後に触れた「五島列島久賀島、牢屋の窄事件」が印象的だった。それは明治元年に約200人のキリシタンが捕まり、わずか6坪の土牢に閉じ込められて多数の死者を出したという悲惨な話なのだが、印象的だったのはその事件ではなく、山岸がその牢屋をたずねたとき、内部は見られなかったものの6坪を示す線を見て想像力を膨らませ、「そういうものをアートと呼びたい」と述べたことだ。実際に見なくても、少ない情報からイメージを膨らませることができるのがアートであり、それが盲目の司祭を通して点字と聖書につながっていったってわけ。なるほど。
2017/04/30(日)(村田真)