artscapeレビュー

2018年08月01日号のレビュー/プレビュー

山田實「きよら生まり島──おきなわ」

会期:2018/07/17~2018/07/30

ニコンサロン新宿 THE GALLERY1[東京都]

山田實は1918年、兵庫県生まれ。1920年に一家で故郷の沖縄に戻り、以後、中国大陸で終戦を迎え、シベリアに抑留された1941~53年を除いては、那覇で暮らして続けてきた。2017年に惜しくも亡くなったが、存命ならば100歳ということで、その「生誕100年」を記念して開催されたのが本展である。

山田は沖縄に帰った1953年から那覇で山田實写真機店を営み、沖縄写真界の中心人物のひとりとなった。東松照明をはじめとして、「内地」の写真家が沖縄を訪れたときに、さまざまなかたちで便宜を図ることも多かった。その傍ら、アメリカ軍統治時代から本土復帰に至る沖縄の人や暮らしを丹念に撮影し、厚みのある写真群を残した。今回展示された、金子隆一のセレクトによる1950~60年代のスナップ写真40点を見ると、山田のしなやかだが強靭な眼差しの質がくっきりと浮かび上がってくる。どの写真を見ても、被写体を細部までしっかりと観察しながら撮影しているているのがわかる。例えば少女がコカコーラのマークが入っている缶で水浴びをしている写真があるが、山田は明らかにそこに目をつけてシャッターを切っている。一見穏やかな作風だが、じっくりと見ていくと、沖縄の社会的状況に対する怒りや哀しみが、じわじわと滲み出てくるような写真が多い。

山田を含めた沖縄の写真家たちの系譜を、きちんと辿り直す写真展をぜひ見てみたい。そろそろ、どこかの美術館がきちんと企画するべきではないだろうか。

2018/07/21(土)(飯沢耕太郎)

小田原のどか編著『彫刻 SCULPTURE 1』

発行所:トポフィル

発行日:2018/06/30

彫刻家・小田原のどかによる叢書『彫刻 SCULPTURE』の刊行が始まった。その創刊号である本書には、「空白の時代、戦時の彫刻」と「この国の彫刻のはじまりへ」という2つの特集に加え、編者の恩師でもある彫刻家・小谷元彦と青木野枝へのインタビュー、山田亮太の詩篇「報国」、そして編者と白川昌生、金井直による鼎談「『彫刻の問題』、その射程」が収録されている。以上のラインナップを見てもわかるように、本書は、昨年同じくトポフィルから刊行された『彫刻の問題』の議論を継承・発展させたものであると言ってよい。

驚くべきは、その密度と熱量である。約500頁にわたる本文に加え、それに関連する「彫刻・碑マップ」や関連年譜・索引、そして約40頁におよぶ英文要旨にいたるまで、この編集・造本・発行をひとりの個人が手がけたという事実には、ただひたすら驚嘆するほかない(版元のトポフィルとは、小田原がメンバーとして関わる出版プロジェクトの名称である)。本書が「1」と銘打たれているように、すでに続刊も告知されており、2019年夏にはアルトゥーロ・マルティーニの「彫刻、死語」と、クレメント・グリーンバーグの「新しい彫刻」の邦訳を収めた『彫刻2』が刊行される予定であるという。

先に見た2つの特集名が示すように、本書がおもに焦点を合わせるのは、近代の黎明期、そして戦時下における日本の彫刻の姿である。とはいえそれは、いわゆる「日本の近代彫刻」の「お勉強」にとどまるものでは毛頭ない。本書の巻頭言として書かれた「近代を彫刻/超克する」が明言するように、その根底にあるのは、彫刻を語ることが「この国の近現代史に光を当てることに他ならない」(17頁)という切なる問題意識だ。その成否については、ぜひとも本書に当たっていただければよいと思う。最後にあらためて特筆しておきたいのは、このような遠大な射程をもった叢書をひとりの個人が手がけたという、その事実がもつ意味である。本書を読んでいて何よりも感動をおぼえるのは、その文章のすみずみから、編者の抑えがたい強烈な怒りが感じ取られるところである。それは狭義の「彫刻の問題」にとどまらず、いまなお遍在する社会的な不正義(おもに女性に対する)への怒りだと私は理解した。かつて、ユダヤ人追悼碑のコンペティションで審査員を務めたジェームズ・ヤングの言葉を引きつつ、「ここから千年先まで議論が続くことを私は夢見ている」(16頁)と彼女はいう。いささか大げさな気がしないでもない。しかしその熱の籠もった文章を読むと、その直後に書き添えられた「さしあたって五〇年・・・・・・・・・、数年に一度のペースで、彫刻をめぐる論集を定期的に刊行する」(強調引用者)という言葉も含め、俄然真実味を帯びるところが不思議だ。

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2018/07/25(水)(星野太)

カンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ──思弁的唯物論の展開』

訳者:岡嶋隆佑、熊谷謙介、黒木萬代、神保夏子

発行所:青土社

発行日:2018/07/04

過去、雑誌『現代思想』などに掲載されたカンタン・メイヤスー(1967-)の論文を収めた日本オリジナル著作集。メイヤスーの邦訳は主著『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳、人文書院、2016)に続き、本書が2作目となる。

周知のように、メイヤスーは2000年代における「思弁的実在論」の流行の口火を切った哲学者である。本書の副題にもあるように、メイヤスーが自著で用いた言葉はあくまでも思弁的「唯物論」であり、前述のムーヴメントにしても彼自身が積極的に喧伝しているわけではない。しかしいずれにせよ、メイヤスーの『有限性の後で』が、21世紀の哲学に新たな方向性を示した画期的な著作であることに疑いの余地はないだろう。他方、2018年現在、けっして多作とは言えない彼のその後の思想の展開は、英語や仏語で発表された論文を通じてわずかに示されるにとどまっている。その意味で、表題作「亡霊のジレンマ」をはじめとする6本の主要論文を収めた本書は、メイヤスーのその後の思想を知るうえで必携と呼べる一冊である。

また、本邦でも紹介されつつあるように、メイヤスーの「偶然性」や「祖先以前性」をめぐる議論は、近年の美術や文学の世界にも少なからぬ影響を及ぼしてきた(まったく薦められないが、その比較的早い例としてロビン・マッカイ編『ザ・メディウム・オブ・コンティンジェンシー』[カイカイキキ、2014]が挙げられる)。そうした文化現象としての思弁的実在論/唯物論に関心のある読者にとって、本書に収められた「思弁的唯物論のラフスケッチ」や「形而上学と科学外世界のフィクション」をはじめとする(相対的に)カジュアルな論考は、その理解の助けとなってくれるにちがいない。むろん、本邦初訳のマラルメ論、あるいはベルクソンやドゥルーズをめぐるハードな論文も収めた本書は、『有限性の後で』を通じてメイヤスーの哲学に関心を抱いた読者の期待にも、大いに応えてくれるものであるはずだ。

2018/07/25(水)(星野太)

ダニエル・ヘラー゠ローゼン『エコラリアス──言語の忘却について』

訳者:関口涼子

発行所:みすず書房

発行日:2018/06/08

プリンストン大学で教鞭を執る若き比較文学者、ダニエル・ヘラー゠ローゼン(1974-)の初の邦訳書。この著者の仕事を10年以上にわたり追いかけてきた者として、本書の出現はまさに待望といってよい出来事だった。従来、ヘラー゠ローゼンの名は「ジョルジョ・アガンベンの英訳者」という枕詞とともに伝えられることが多かったが、本書『エコラリアス』の訳出によって、恐るべき学識と語学力を備えたこの碩学の名は、今後本邦でも広く知られていくにちがいない。

弱冠20代半ばにしてアガンベンの複数の訳書をものした著者は、これまで本書を含む7冊の──まったく主題の異なる──単著を発表しているだけでなく、ノートン版『アラビアン・ナイト』の編集を手がけるなど、文献学の領域でもすぐれた業績を残している。『薔薇物語』の研究で博士号を取得した彼の専門はさしあたり中世文学といってよいだろうが、古代ローマ法以来の「海賊」をめぐるさまざまなトポスを渉猟した『万人の敵』(2009)や、ピタゴラスに端を発する「世界の不調和」の系譜をたどった『第五の槌』(2011)などが示すように(いずれも未邦訳)、その関心は哲学、法学、言語学などにまたがり、ほとんど際限がない。

なおかつこの著者の美点は、10におよぶ言語を操り、古代・中世・近代の文献を縦横無尽に呼び出すその学知に加えて、それを伝える文章がきわめて平明かつ魅力的であることだ。先に列挙したような壮大なテーマを扱った著作が、専門的な知識を欠いた幅広い読者に開かれているという事実は、率直に言って驚くべきことである。私たちはその筆に身を任せるだけで、本来ならば容易には接近しがたい広大な「知」の一端を瞥見することができる。本書『エコラリアス』もまた、古典文学からカフカ、ハイネ、カネッティら近代の作家を経由して、副題にもある「言語の忘却」という主題にさまざまな角度から迫った、すぐれたエッセイ集として読むことが可能である。

2018/07/25(水)(星野太)

『未来のミライ』

[全国]

細田守監督の『未来のミライ』は、ネット上の評判をチェックすると、家族のホームビデオを見せられているようだなど、あまり芳しくないが、本来、アニメで表現しづらい、派手さに欠けた家族の日常を細やかに描いた点で、実験的な作品だ。例えば、彼の過去作『サマーウォーズ』(2009)における親戚の集まりのシーンもそうだったが、実写ならば簡単に撮影できることも、逆にアニメは難しいのである。ただ、アニメならではの派手なアクションを期待するファンにとっては、退屈になるかもしれない。テーマとしては、『おおかみこどもの雨と雪』(2012)や『バケモノの子』(2015)でも子供の学びと成長を描いていたが、本作はこれを受け継ぎながら、さらに主人公の年齢を4歳にまで下げたこと、また日常的な住空間を舞台として、ファミリーヒストリーの系譜と現在の偶然性も加味したことが特筆されるだろう。

さて、建築の視点からは、主人公の両親が独立したばかりの建築家と編集者の夫婦であること、また遠くにみなとみらいのランドマークタワーが見える冒頭の俯瞰シーンが提示するように、父の設計により家を建て替えたことが興味深い。したがって、おそらくひな壇造成をよしとせず、傾斜地に対し、何段階にも各部屋のレベル差を設け、あいだに中庭を挟む、独特な構成をもつ。また父の作業机の後にある本棚には、ザハ・ハディド、清家清、バウハウスの作品集のほか、『人工楽園』などの書籍の背表紙が見える。実際は谷尻誠に住宅の設計を依頼したものだが、行動範囲が狭い子供にとっては、幼稚園以外で過ごす大きな世界である。と同時に、のび太の家の2階の窓や机の引き出しのように、住宅の中庭と樹が、時空ファンタジーへの入り口として機能していた。未来の妹ミライと出会うのも、まさにここである。そうした印象的な舞台が、建築家によってデザインされていた。

2018/07/25(水)(五十嵐太郎)

2018年08月01日号の
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