artscapeレビュー

2018年08月01日号のレビュー/プレビュー

縄文—1万年の美の鼓動

会期:2018/07/03~2018/09/02

東京国立博物館[東京都]

「日本の美」はしばしば、桂離宮に代表されるような質素きわまりない「ワビサビ系」と、日光東照宮に見られるような過剰なまでの「装飾系」の両極に分けられてきた。古代でいえば前者が弥生文化、後者が縄文文化であり、現代でいえば前者がもの派、後者が岡本太郎か。だから岡本太郎が縄文土器を「再発見」したというのはうなずける。でも、どっちかというと日本人に人気があるのはワビサビ系であり、装飾過剰系より日本的であると感じてしまいがちだ。そんなわけで太郎に見出されるまで縄文は長いあいだ博物館の隅に眠っていたわけだが、ここにきてにわかに巻き起こった縄文ブーム。この「縄文展」がブームをあおったのか、それとも「縄文展」がブームに乗ったのかは知らないけれど、いずれにせよ時宜にかなった企画といえる。

出品点数は国宝6件を含む約200点。しかも国宝指定はこの20年ほどのあいだのことで、つい最近の出来事なのだ。地図を見ると、縄文土器や土偶の多くは東日本から発掘されていて「ざまあみろ」と思う。だいたい弥生以降つねに文明文化は西日本が中心で徐々に東進してきたことになっているが、実はそれ以前は1万年ものあいだ東日本が中心だったと聞くとちょっとうれしくなる。デカイ顔をした関西人に対する東日本の逆襲というか。いや別に関西を嫌ってるわけじゃないけれど。

展示は初期のころのまだ装飾の少ない土器や石斧、装身具などから始まり、やがて「縄文」の名の由来になった縄模様が現れ、なんでこんな使いにくいゴテゴテの突起を施したのか首をひねりたくなる火焔型土器にいたる。実用性より装飾性を重んじるというのは、よっぽど生活に余裕がないとできないこと。数千年前の日本は自然も豊かで、日本人の想像力も豊かだったのだ(まだ「日本」じゃなかったけどね)。そのことを証してくれるのが、同時代の海外の土器との比較だ。ここでは中国、インダス、メソポタミア、エジプトの4大文明とその周辺の土器、および弥生土器を集めて比較している。なるほど、海外の土器には彩色したものはあるけれど、火焔型土器ほどの過剰な装飾は見られず、まったく日本独自のものであることがわかる。なにか美術史のスタート地点でドーピングを犯してしまったか、ハデなフライングをやらかしてしまったような目立ち方。でもこれが残念ながら続かず、弥生以降ワビサビ系が日本美の主流になっていくのだ。

そして最後は土偶。縄文で国宝第1号となった《縄文のビーナス》をはじめ、やけにモダンな《縄文の女神》、座って両手を合わせた《合掌土偶》、「太陽の塔」のルーツともいわれる《ハート形土偶》や《筒形土偶》、そして宇宙人がモデルと噂される《遮光器土偶》まで、よくこれだけ集めたもんだとホメてあげたい。それにしてもこれらの土偶に見られる顔貌や身なり、デザインは実に多彩で、どっちかといえば洗練されているというよりドン臭いけど、それだけにアヴァンギャルドで現実離れしていて、たしかに宇宙人をモデルにしたとか宇宙人がつくったとかいわれるのもわかる気がする。その他、さまざまな顔の土面や。耳、鼻、口のかたちの土製品、イノシシやサルなどの土製品、男根を思わせる石棒など、知られざる縄文美術に触れることができた。帰りにショップをのぞいてみたら、松山賢のプチ縄文土器や土偶を売っているではないか。縄文展のお土産に現代アートとは、東博もずいぶんユルくなったもんだ。

2018/07/02(村田真)

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岡本神草の時代展

会期:2018/05/30~2018/07/08

千葉市美術館[千葉県]

出品目録を見ると、作品数は計166点というからかなり大規模。でも「─の時代展」と題されているように、岡本神草だけでなく同時代の菊池契月、甲斐庄楠音、稲垣仲静、梶原緋佐子といった日本画家の作品も含まれていて、神草だけだと123点。しかも前期と後期で展示替えがあり、おまけに前半は大半がスケッチや下絵に占められ、ようやく本画が登場したと思ったら途中でぷっつり終わってしまい、ややハンパというか、たっぷり見せていただきました的な充実感は少ない。もっともそれは企画者のせいではなく、神草自身が若くして突然亡くなってしまったからであり、また量的な充実感はなくても、質的には数点ながら満足のいく作品があったことは特筆しておきたい。

さて、神草といえばなんといっても“デロリ系”の女性像に期待したわけだが、京都市立絵画専門学校の卒業制作で描いた《口紅》(1918)を最初のピークとして、特有の妖艶かつ不気味な表情は《拳を打てる三人の舞妓の習作》(1920)に受け継がれていく。ところがその後リアルな陰影表現を採り入れ、《仮面を持てる女》(1922)や《五女遊戯》(1925)などに変容。これはこれで妖艶なのだが、昭和に入るとまたスタイルが変わり、《化粧》(1928)、《婦女遊戯》(1932)といった浮世絵風のフラットな表現に回帰し、その翌年38歳で急逝してしまう。ハンパ感が否めないのはそのためだ。したがって、もっとも妖艶で不気味な魅力を発散させていたのは大正期で、それは甲斐庄楠音の《横櫛》、丸岡比呂史の《夏の苑》、稲垣仲静の《太夫》など、同世代の画家たちにも当てはまる。そして彼らも昭和に入るとあっさり系に転じてしまうのだ。考えてみればこれは岸田劉生をはじめとする洋画家にもいえることで、ここに大正と昭和の時代精神がはっきり表れているような気がする。

2018/07/03(村田真)

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広川泰士「Portraits」

会期:2018/06/18~2018/08/12

写大ギャラリー[東京都]

ファッションや広告の世界で活動しながら、日本各地の原子力発電所の施設を撮影した「STILL CRASY」(1994)、東日本大震災以後の日本の風景の変貌を緻密な描写で捉えた「BABEL」(2015)など、志の高い写真シリーズで知られる広川泰士。その彼の1970年代からの写真家としての軌跡を、「Portraits」という括りで概観する興味深い企画展である。

ファッション・広告写真家がポートレートを撮影すると、往々にして被写体を「ねじ伏せる」ような強引な撮り方になりがちだ。だが、広川の作品を見ると、まずはモデルたちに向き合って、彼らが発するエネルギーを受け止め、柔らかに絡めとっていくようなやり方をしているのがわかる。特にモデルが単独ではなく複数の場合、その気配りがうまく働いている。イッセイミヤケやコムデギャルソンなどのファッションを身にまとった「普通の人々」を撮影した『sonomama sonomama』(1987)や、芸能人や文化人の「家族」にカメラを向けた「家族の肖像」(1985~)の頃から、その傾向ははっきりとあらわれていて、広川のトレードマークと言えるような、群像のポートレートの撮影のスタイルが確実に形をとっていった。その手法は、震災以後に福島県相馬市や宮城県気仙沼市で撮影された、被災者の家族のポートレートにも見事に活かされている。

広川は「Portraits」のモデルたちに対して、風景に対峙するときとはまた違った、好奇心を全開にしたオープンな態度で接している。それが、のびやかな開放感につながっているのではないだろうか。彼の鍛え上げられたカメラアイは、これから先も厚みと多様性を備えた、クオリティの高い作品に結びついていきそうだ。

2018/07/03(火)(飯沢耕太郎)

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Layerscape 柳原照弘展

会期:2018/07/04~2018/08/07

クリエイションギャラリーG8[東京都]

デザイナーの柳原照弘の仕事を、一部だがよく知っている。それは佐賀県有田焼創業400年事業の「2016/」プロジェクトだ。私自身も同事業に一部携わったため、端々で「2016/」の噂を聞いていた。「2016/」とは、有田焼の窯元と商社16社と、オランダを中心とする8カ国16組のデザイナーとが協業し構築したひとつのブランドである。柳原はこれのクリエイティブ・ディレクターを務めた。2016年4月には全部で300以上のアイテムを開発し、ミラノ・サローネで商品発表をして好評を得たことで知られている。注目したいのは、むしろそのプロセスだ。デザイナー陣が2度にわたり、各1週間ほど有田町の古民家に滞在し、産地視察や事業者との意見交換、また商品開発の打ち合わせなどに費やした。滞在日程や日数は各々が自由に決めたことから、なかには1カ月ほど有田町に滞在したデザイナーもいたという。有田町を世界中のクリエイターが集まるプラットフォームへと導いたのである。

柳原のベースにつねにあるのは「デザインする状況をデザインする」という考えだという。この言葉の意味を考えるとき、「2016/」のプロセスを思い返す。柳原は徹底的に協調型のデザイナーなのだ。人と人とが信頼関係を構築することをむしろ楽しんでいるようにも思える。

本展は、人と物と空間とが結びついたとき、どのような状況が生まれるのかを実験したような展覧会だった。最初の展示室には、人物の上半身写真がプリントされた紙が何枚も吊るされていた。それらはなんとなく人物写真に見えるのであって、本当のところはわからない。なぜなら完全にピントをずらした“ピンボケ”写真であるからだ。このぼんやりした人物写真の合間を縫って、来訪者が室内をウロウロとすることで、虚像と実像が混じり合う。

展示風景 クリエイションギャラリーG8

奥の展示室は3枚の布で大きく区切られていた。この布が光によってモアレを起こし、ぼんやりと透けて見える向こう側を不思議な空間へと誘う。布の向こう側へ回ると、柳原がこれまでにデザインした実験的なプロダクトが展示されていた。「2016/」の技術革新に挑んだ磁器もあれば、目の錯覚を起こすようなガラス製品もある。柳原は本展を「平面と空間の境界線を探る旅」と言う。二次元と三次元を混濁させ、人と物と空間までも混濁させる。そうして既成概念をいったんゼロに戻したときに初めて見える、または起こる何かを、柳原はデザインの手がかりとしているのかもしれない。

展示風景 クリエイションギャラリーG8

公式ページ:http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/201807/201807.html

2018/07/04(杉江あこ)

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試写「ペギー・グッゲンハイム」

ヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム・コレクションを築いたグッゲンハイム家の令嬢、針生一郎氏いわく「じゃじゃ馬娘」の生前のインタビューや映像に基づくドキュメンタリー映画。そのコレクションは、デュシャンからエルンスト、ダリ、ジャコメッティ、ポロックまで、モダンアートの歴史そのもの。第2次大戦中ヨーロッパのシュルレアリストらが戦火を逃れて渡米し、アメリカで抽象表現主義が花開く触媒となったことはよく知られているが、彼らの渡米を助けたのがペギーだった。つまりペギーが抽象表現主義の形成に一役買っていたのであり、芸術の中心が戦前のパリから戦後のニューヨークに移ったのもペギーのおかげだといえなくもない。彼女いわく、いちばんの功績はたくさんのコレクションを残したことより、ポロックを発見したことだと。そこまでポロックに入れ込んでいたのであり、アメリカの美術を応援していたのだ。

彼女は「1日1点」を目標に作品を買い続けたが、同じようなペースで男と寝ていたらしい。もちろん相手には有名アーティストが多数含まれているわけで。たくさんの男と寝たが、23歳まで処女だったとか、容姿に恵まれず、とくに大きな鼻を整形手術で直そうとして痛みに耐えかね断念したとか、しゃべるとき舌をペロッと出すクセがあるとか(ローラと違ってかわいくない)、知られざるエピソードも満載。そういえば、ヴェネツィアのグラン・カナルに面したグッゲンハイム・コレクションは、周囲のレンガ色の建物とは違って白い低層の建築なので周囲から浮いているため、てっきりペギーが建てたのだと思っていたら、18世紀後半に建てられた邸宅を購入したものだそうだ。この邸宅にしろ、膨大なコレクションにしろ、20世紀前半の戦争の時代に購入したから、まだ安く手に入れることができたのだ。

本人の映像やインタビューのほか、画商のラリー・ガゴシアン、美術評論家のクレメント・グリンバーグ、アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチ、ライターのカルヴィン・トムキンズ、画家だった母親の絵がペギーのコレクションに入っているというロバート・デ・ニーロ、ペギー・コレクションの館長に就任した孫娘カロール・ヴェイルらの証言もあって、この希代のパトロンの公私の生活、表裏の顔が浮き彫りにされる。監督はリサ・インモルディーノ・ヴリーランド。ファッション界でキャリアを積み、ダイアナ・ヴリーランドの孫と結婚したのを機に、初の映画「ダイアナ・ヴリーランド 伝説のファッショニスタ」を監督。ダイアナは1903年パリの裕福な家庭に生まれ、ファッション界で活躍した女性で、1898年生まれのペギーと重なる部分も多い。ペギーに関心を抱いたのもうなずける。

2018/07/06(村田真)

2018年08月01日号の
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