artscapeレビュー

2018年08月01日号のレビュー/プレビュー

裸体像Tシャツ計画 20年の歩みとこれからのこと 北川純

会期:2018/06/12~2018/07/02

ARTnSHELTER[東京都]

街中の裸体像にTシャツを勝手に着せるというプロジェクトを20年近く続けている北川純の個展。といっても裸体彫刻は持ってこれないし、一時的にしか存在しない「作品」なので、写真や映像による記録展となった。「現場」はやはり作者本人が在住する横浜や東京近辺が多いが、「被害」は全国各地に広がっている。以前、新宿の都庁の中庭に女性のヌード像が並んだとき、フェミニストが彫刻にTシャツを被せて問題になったことがあるが、北川にはそんな思想的背景はなく、いたずら半分で始めたこと。ただそうして続けていくうちに、ホメられたり叱られたりさまざまな反応があり、そこに魅力を感じたという。彼の行為は、まさにそうした人々の多様な反応を引き出す装置であり、公共と芸術について考えるひとつのきっかけになるのかもしれない。いや、それよりも、彼のより大きな関心は「エロ」にあるのだから、白いTシャツを着せることによって裸身を隠しつつビーチクを浮かび上がらせ、よりエロ度を増すという効果も狙っているに違いない。北川と企画者の太湯雅晴とぼくの3人による鼎談で、そんなことを話した。

2018/07/01(村田真)

im/pulse: 脈動する映像

会期:2018/06/02~2018/07/08

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

文化人類学を従来の「書かれた」民族誌に限定せず、映像、写真、サウンド、アートなどの表現領域と交差する複合的実践として行なう「映像人類学」に焦点を当てたグループ展。映画監督のヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモン、野外での遊戯的かつ即興的なパフォーマンスの記録映像や装置を展示したcontact Gonzo、映像人類学者の川瀬慈が率いる研究会「Anthro-film Laboratory」が参加し、同研究会のメンバーである若手映像人類学者らの作品上映やセミナーなどが行なわれた。

とりわけ本展で圧倒的なのは、ヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモンによる映像インスタレーション《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》である。4年間にわたってブラジル各地のさまざまな儀礼やスピリチュアルな儀式を記録した映像が、3面のマルチスクリーンに投影される。どの地方のどの部族でどういった意味合いを持つか、といった説明的な要素は一切なく、臨場感あふれる映像と音響のめくるめく渦のなかに巻き込まれるような体験だ。半裸の体躯に装飾品をまとい、大地を踏みしめ、リズミカルな掛け声を続ける男たち。薄暗い小屋の中で目を閉じ、呪文のような短いフレーズを唱えるシャーマンらしき人物。そうした先住民族の儀礼の映像の隣に、現代的な服装の人々による宗教的な集いやセレモニーが並置される。ハグし合い、痙攣的な身振りで集団的なトランス状態に至る人々。飾り立てられた女神像をみこしのように担ぎ、海へ入っていく男たち。花火が彩るカーニバルの都市的祝祭。黒人も白人も先住民族もいて、ブラジルという国家を構成する多様な民族、人種、宗教、文化を映し出す。

それらの記録映像を複数並置+ループという構造で見せる本作において、特に重要なのは音響的操作である。マルチスクリーンは、ある時はくっきりと浮上したひとつの音響によって主旋律のように貫かれ、ある時はそれぞれの音響の輪郭が溶け合い、遠くから響くざわめきのように感じられる。男たちが刻むリズミカルな掛け声は、ある瞬間、隣のスクリーンでたゆたうように踊る女性の身体と同調する。かと思うと、潮が引くようにすべての音響はカオティックに混じり合う。速度や抑揚こそ違えど、それぞれが刻むリズムは、神、自然、祖先の霊、世界とつながり交感するための媒介である。共鳴と混淆を通して、儀礼や宗教儀式に宿る根源的なものを探ろうとしていることが、体感的に理解された経験だった。



ヴィンセント・ムーン&プリシラ・テルモン《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》2014–17
「im/pulse: 脈動する映像」(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018)での展示風景
[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学]

2018/07/01(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00044569.json s 10148070

山田弘幸個展「写真になった男」

会期:2018/06/16~2018/07/16

ARTZONE[京都府]

「TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 2016」でグランプリを受賞し、副賞として翌年にG/P galleryで個展を開催した直後、作品を同ギャラリーに譲渡して失踪した写真家、山田弘幸。山田の失踪後、初の展覧会となる本展は、姿を消す直前に山田が発言した「写真のなかに入りたい」という言葉を導きの糸に、近作の複数のシリーズから抜粋した写真作品で構成されている。

「作家の不在」という状況、しかも没後の回顧展ではなく、「作家は存命であるにもかかわらず、作家不在を前提条件として成立する個展」というポイントは、「キュレーション」という問題機制を自ずと前景化させる。これは、同じARTZONEでひとつ前に開催された「ゴットを、信じる方法。」展とも共通する(ちなみに両展とも、京都造形芸術大学アートプロデュース学科4回生による企画である)。「ゴットを、信じる方法。」展では、エキソニモによるメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-)を対象とし、アーカイバルな検証を加えつつ、約10年間のメディア環境の変化を踏まえて「再演」し、オリジナルとの「物理的な/コンセプト上のズレや隔たり」を提示することで、メディア・アートと技術的更新、ネット感覚に対する世代間の差異、「オリジナル」の物理的復元/(再)解釈行為の振幅で揺れる「再制作」、キュレーションにおける作家性の代行といった問題群を浮かび上がらせていた。

一方、本展では、キュレーターと作家はより確信犯的な共犯関係を結ぶことになる。本展の中核に据えられるのは、スペイン語で「父」を意味する《Padre》シリーズだ(上述のG/P galleryでの個展の展示形態が再現されている)。山田は、幼い頃に亡くした父の生前のポートレートをプロジェクターで投影し、その光を全身に浴びながら、父の服装やポーズを真似て重なり合うようにセルフ・ポートレートを撮影した。「既にこの世を去った/写真のなかにイメージとして残存する」父、その不在と存在の二重性は、「失踪」という行為を契機に山田自身へと折り重ねられる。本展のキュレーションは、「写真のなかに入りたい」という彼の願望を代行的に引き受けることで成就させようと目論むのだ。ここには、デュシャンの通称《遺作》──公には美術界から身を引きながら、死後の公開を条件として20年間秘密裡に制作されていた──のような、表現行為と制度との共犯関係に加え、存在論的な移行を可能にしてしまう写真というメディアの本質的な恐ろしさがある。

だが、《Padre》シリーズの持つ不穏さは、それだけだろうか。《Padre》は、額装プリントや制作プロセスの映像記録とともに、古びた「アルバム」にプリントを収めた形態でも発表されている。額装と異なり、アルバムは家庭の私的領域に属すものであり、それをめくりながら鑑賞する行為は、「父と私」というプライベートな関係に加え、「記念写真」性をより強調する。正装して写真に収まる若き日の父。同じく正装し、父のポーズをなぞり、ともに横に並んでカメラを見つめ、あるいは父の像を飲み込むように体内に宿す山田。「父親との同一化の願望」はさまざまに変奏して示される。写真に写った父と自分の頭部を切り取ってすげ替えた1枚では、デジタル合成でシームレスにつなげるのではなく、あえて切断面の不整合さを残すことで、父と自身の交換可能性が示される。あるいは、父のみが写った写真を執拗にトリミングを変えて反復し、輪郭や目のぼやけたアップになるまで引き伸ばしたシークエンスでは、「写真のなかの父」に接近しようとすればするほど触れられないジレンマが露わになり、欲望だけが加速する。《Padre》は、時空を超えて会する「父親との擬似的な記念写真」であり、そこには近親相姦的な一体化の願望すら透けて見える。

写真という装置を介して存在と不在が反転することに加え、そうした欲望がもうひとつの境界侵犯として書き込まれていることが、《Padre》の根底に漂う不穏さではないか。



[撮影:守屋友樹]

関連レビュー

ゴットを、信じる方法。|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/07/01(日)(高嶋慈)

庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」

会期:2018/06/28~2018/07/01

森下スタジオ[東京都]

森下スタジオにて、庭劇団ペニノの『蛸入道 忘却ノ儀』を観劇する。『地獄谷温泉 無明ノ宿』の全体がぐるぐると回転する2階建ての温泉宿の舞台もすごかったが、今回も期待をまったく裏切らない大胆な空間が出迎える。もはや舞台上のセットと観客席の境界が曖昧になり、両者を含む全体が統一されたデザインだった。すなわち、鞘堂形式によって寺院風の空間を挿入しており、観客の座る場所の背後もお堂の内部という見立てなのである。また蛸風に変形した花頭窓が並ぶのだが、観客が手伝うことによって、その開閉を行なう。蛸にちなむことから、当然、イメージ・カラーは赤である。道内のインテリアや照明、また観客が寄進(?)して俳優が着用する衣装も同じ色だ。中央の檀が、2間×2間なのが、やや不自然だと思っていたら、なるほど、合計で8本の柱である。言うまでもなく、蛸の足の数から間取りが決定されたものだ。

おそらく、消防への配慮と熱の対策のために、天井の一部をあけていることを除けば、劇場ではなく、完全にお堂の内部である。細かく細部を観察すると、曲線的な肘木なども通常のものとは意匠が違っており、芸が細かい。ここで観客が目撃するのは、セリフや筋立てのあるドラマではない。「蛸教」とでもいうべき、擬似宗教の儀式に同席するような異様な体験に否応なく巻き込まれる。観客も手で音を出しながら、儀式の一部となるのだ。同じ経文を反復しながら、音楽や身体の動きが変わることによって、差異をうみだし、やがて熱が堂内に広がり、本当に温度が上昇していく。実際、仏教の声明やキリスト教の聖歌など、宗教は音楽性を帯びていくのだが、それを追体験するような場だった。これを限りなくリアルなものとするために、拡大された舞台美術が、劇場の空間を書き換えている。なお、個人的に興味深いのは、奥に聖なる場があるのではなく、天理教の甘露台のように、信者が中心を囲む形式が採用されていることだった。

2018/07/01(日)(五十嵐太郎)

特別展「縄文─1万年の美の鼓動」

会期:2018/07/03~2018/09/02

東京国立博物館 平成館[東京都]

とにかく迫力いっぱいであった。かの岡本太郎が「縄文の美の発見」として、縄文土器に「いやったらしい美しさ」を見出したことは有名だ。それ以前にも柳宗悦、芹沢銈介、濱田庄司といった民藝運動の人らが縄文土偶を愛玩したことが本展で紹介されている。彼らをはじめ、縄文土器や土偶に惹かれる美術家や作家、工芸家は案外と多い。いったい何が彼らを強く惹きつけるのだろう。それは日本人のDNAのなかにわずかに残っていると言われる、縄文人の血が騒ぐからではないか。弥生人の洗練された感性とはまったく異なる、縄文人の躍動的で神秘的な力に、日本のものづくりの“本当の”源流を見たような気がした。

本展を見るまで、正直言って、私は縄文時代にまったく疎かった。歴史の教科書でさらりと触れた程度ではっきりとはわかっていない。縄文時代とは「旧石器時代が終わったおよそ1万3000年前から約1万年間続いた時代」とあらためて教わり、その約1万年間という長さに圧倒された。西暦はまだ2000年を超えたばかりである。氷期が終わりを迎えたこの時代、日本列島は温暖で湿潤な気候に変わり、豊かな自然環境のもと、人々は狩猟や漁労、植物の採集で生計を立て、皆で協力し合いながら定住生活を行なっていたという。そこで生み出されたのが土器や石器、土偶や装身具などだ。

展示風景 東京国立博物館 平成館 特別展「縄文─1万年の美の鼓動」
「火焰型土器・王冠型土器」新潟・十日町市博物館蔵

縄文時代中期を代表する土器が、新潟県十日町市で出土された「火焰型土器・王冠型土器」である。すぼんだ胴部からワッと広がる口辺部。器面に粘土が紐状や筒状に貼り付けられ、うねるように、波立つように、これでもかこれでもかと全身が模様で覆われている。しかもこの模様が自由奔放に見えて、じつは規則的に配置されていることにも驚く。本展がすごいのは、この「火焰型土器・王冠型土器」の数々がガラスケースに覆われず、生身のまま展示されていたことだ。いまにも手に触れられそうな距離で眺めると、はるか昔の縄文人の息遣いまで聞こえてきそうである。同時代にユーラシア大陸でつくられた土器も併せて展示されていたが、これらを観ると、日本列島でつくられた土器がいかに独創的なものであったかがわかる。ほかに耳飾りや髪飾りなどの装身具の数々にも息を呑んだが、最大の見どころは国宝6件。これらが一堂に会すのは初めてで(ただし《土偶 縄文のビーナス》と《土偶 仮面の女神》は7月31日からの展示なので私は観られなかった)、この貴重な機会を見逃してはならないと思う。

国宝 土偶 縄文のビーナス
長野・茅野市蔵(茅野市尖石縄文考古館保管)展示期間:2018年7月31日(火)~9月2日(日)
長野県茅野市 棚畑遺跡出土(縄文時代中期/前3000~前2000)

公式ページ:http://jomon-kodo.jp

2018/07/02(杉江あこ)

artscapeレビュー /relation/e_00045042.json s 10148045

2018年08月01日号の
artscapeレビュー