artscapeレビュー

2019年04月15日号のレビュー/プレビュー

《ソウル都市建築展示館》

ソウル都市建築展示館[韓国・ソウル]

市長の肝いりで完成した《ソウル都市建築展示館》のオープニング・シンポジウムに出席した。日本統治時代の建物の跡地を敷地とし、景福宮にも近い抜群のロケーションである。コンペで選ばれたターミナル7・アーキテクツが設計した。背後の古い教会が大通りからよく見えるように、ほとんどの施設を地下に埋め、屋上は柱の痕迹だけを残しつつ、公園のようなオープンスペースとして開放している。1階にカフェがあり、大階段に誘われて、降りていくと、途中でソウルの歴史や都市を紹介するギャラリーが視界に入り、一番下に到着すると、大きな展示空間が広がる。ここは屋根の下とはいえ、完全な室内ではなく、屋外の延長になっているのは興味深い。また市庁舎がある向かいの道路側には、地下の通路からアクセスでき、ここにも街の紹介を展示している。

この施設を「ソウル都市建築展示館」と呼ぶと簡単なのだが、英語の表記では「ミュージアム」ではなく、「ホール」であり(ちなみに、英語の名称は「Seoul Hall of Urbanism & Architecture」で、略称は「Seoul Hour」)、やはり正確にいうと、建築「博物館」ではない。それはオープニングの午前のセッションにおいて、モントリオールのカナダ建築センター(CCA)のジョヴァンナ・ボラシに加え、巨大な都市模型を置くシンガポール・シティ・ギャラリーのサブリナ・コーが発表したことからもうかがえる。都市計画を市民に提示する後者の性格が強いからだ。なお、オープニングの企画展示は、ウィーンの集合住宅の歴史と建築家の社会的な役割がテーマとなっており、筆者は後者の展示協力を行なった。その展示では、かつてゲスト・キュレーターとして参加した金沢21世紀美術館の「3.11以後の建築」展と同様、伊東豊雄らによる「みんなの家」、はりゅうウッドスタジオの木造仮設住宅群、被災地における坂茂の試みが紹介された。したがって、それぞれの展示内容は、午後のシンポジウムのセッションのテーマとなり、筆者と芳賀沼整が発表した。

《ソウル都市建築展示館》外観


《ソウル都市建築展示館》屋上から市庁舎を望む。柱跡も見える


《ソウル都市建築展示館》大階段


《ソウル都市建築展示館》都市インフラの展示


《ソウル都市建築展示館》ウィーンの集合住宅についての展示


《ソウル都市建築展示館》「みんなの家」の展示


《ソウル都市建築展示館》被災地における坂茂の試みと、はりゅうウッドスタジオの木造仮設住宅群の展示

2019/03/29(金)(五十嵐太郎)

入船 19

会期:2019/03/28~2019/03/29

本町橋船着場~大阪ドーム前千代崎港[大阪府]

2015年より、アーティストやミュージシャンなどさまざまなゲストと共に、大阪市内の水路を夜間に船で巡るパフォーマンス・ツアーを行なってきた梅田哲也。夜間、それも船の上という非日常空間で、大阪の街並みを裏側から眺めつつ、乗船したアーティストらが船中で行なう、あるいは道中に仕掛けられたパフォーマンスを体験するというものだ。5年目となる今回は、これまでの公演やリサーチを踏まえて梅田が一人で行なう「夜のパフォーマンス・クルーズ」、中高校生とのワークショップを元に行なう「夕方のパフォーマンス・クルーズ」、誰も登場せず、何も起こらない「パフォーマンスしないクルーズ」の3本立てで開催された。

私が今回体験したのは、「夕方のパフォーマンス・クルーズ」。大阪市内の中高生と共に、「言葉を川に沈める」という構想の元、上演された。市内中心部の本町橋船着場から船に乗り、道頓堀や京セラドーム大阪の前を通って、水門を抜け、大阪港までクルーズする。観客はヘッドホンと受信機を渡され、ラジオから流れてくるさまざまな音声──女性の詩的なナレーション、中高生たちが語る「川」「湖」「水」にまつわる記憶、梅田の実況など──に耳を傾けながら、対岸の景色や移りゆく空を眺める。高速道路の高架が頭上を覆い、閉塞感を感じながらの序盤。高架がなくなり、空が抜ける開放感とともに、いくつもの橋をくぐりながら船はにぎやかな道頓堀へと向かう。筏に乗った中高生たちが、もう一隻の小さな船に引かれて併走する。ヘッドホンから流れる断片的な物語や中高生たちの語りは、誰かの記憶が混ざり合った川のなかに身を沈めるような感覚をもたらすが、道頓堀の看板の文字を掛け声のようにリズミカルに読む若い声が響き、目の前の光景に連れ戻す。あるいは、「この辺りは普段、鳥がたくさんいる」という梅田の声とともに、海鳥や(いるはずのない)アシカの声がヘッドホンから流れる。記憶の浮き沈みと、現実の光景とのズレ/二重化を繰り返すような体験だ。



[撮影:西光祐輔]

行き交う遊覧船や対岸の観光客が手を振るにぎやかなゾーンを抜けると、近未来的なドームが現れ、さらにその先の巨大な水門へ。対岸に船や倉庫が続き、「港」らしくなってきた風景のなか、「日本で唯一現存するアーチ型水門」について解説する梅田。水門を抜けると広い川面が広がり、夕陽が穏やかな水面を照らす。ボーッと鳴り響く太い汽笛。その音は、金管楽器が美しくも不協和に重なり合う和音に変わっていく。ヘッドホンを外し、冷たくなってきた風に晒されながら身を乗り出すと、その音は対岸の橋のたもと辺りから聴こえるようだ。「音」の演出を巧みに用いて虚実曖昧な領域に連れ出す、本作の個人的なハイライトであり、茫洋とした水面の広がりのなか、方向感覚も現実感も一瞬喪失するような感覚を味わった。



[撮影:著者]

「入船」はいわゆる「ツアー・パフォーマンス」の一種だが、「船の上から鑑賞する」形式も相まって、どこか揺らぎを伴っている。誰かの断片的な記憶、見えているものの実況、汽笛や鳥の声、あるいはそのフェイク。複数の「声」「音」によって目の前の光景が多層化され、虚実の皮膜が混じり合い、(見逃しや聞き逃しも含め)それぞれの観客が受け取るものはおそらく異なり、パーソナルな体験に近づく。実は私の受信機は調子が悪く、序盤のナレーションは雑音でほとんど聴き取れなかったのだが、「流れてくる音声に没入する」あるいは「音声を無視して対岸に手を振ったり、夢中で写真を撮る」他の観客たちの振る舞いを外側から観察するのも興味深かった。「ヘッドホン」は強制的な装置ではあるが、外してもいい(意志的な選択によって、あるいは機械の不調という不可抗力によって)。「同じ船にいながら、体験を完全には共有できない」という本作の性質は、経験の同質性を前提とする舞台芸術(とりわけ、古代ギリシャ以来、共同体の成立基盤でもあった演劇)への批評でもありうる。TPAM2018で上演された『インターンシップ』でも強く感じたが、「音」を通して日常/非日常が混淆するあわいを出現させ、身体的な揺さぶりをもたらす梅田作品の根底には、上演批判、劇場批判がある。



[撮影:西光祐輔]

公式サイト:https://newfune.com/

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TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/03/29(金)(高嶋慈)

絵画展...なのか?

会期:2019/03/21~2019/05/12

川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]

絵画とは、なんらかのかたちを平面に描いたもの。なんらかのかたちは具象でも抽象でもかまわないし、「かたち」と認識できなくてもいい。重要なのは「平面」に「描く」ことだが、「平面」は平らな面でなくても凹凸があってもいいし、「描く」のは手でなくて足でも口でもいいし、吹きつけても滴らしてもかまわない。絵画とはずいぶん自由度が高い表現なのだ。同展の出品者は、「画家ではない」といいながら水面を撮った写真に彩色したり、石をつなげて面にしている山本修司、どう見ても彫刻だが、その表面に色彩を施す原田要、キャンバスに絵具を流すだけでなく、ギャラリー内外の壁や椅子にも彩色する中島麦の3人。確かにこれを「絵画展」というのかどうかためらうところだが、別に絵画であろうがなかろうが楽しめる展覧会だから許そう。

2019/03/29(金)(村田真)

《国立現代美術館ソウル館》《ソウル市立美術館》《アモーレパシフィック美術館》

国立現代美術館ソウル館、ソウル市立美術館、アモーレパシフィック美術館[韓国・ソウル]

ソウルの展覧会をいくつかまわった。国立現代美術館ソウル館は、現代的な情報環境がもたらす社会状況をテーマにすえた企画展「Vertiginous Data」が興味深い内容だった。監視カメラなどで顔認証されることに抗議する仮面の作品ほか、フォレンジック・アーキテクチャーも参加している。これまで彼らは遠隔地から調査することが多かったように思うが、テロリストと間違えられ、殺害された民間人の理不尽な事件を扱う作品では、現地で検証する作品が紹介されていた。同館では、フィラデルフィア美術館のコレクションを用い、上野の東京国立博物館で開催した「マルセル・デュシャンと日本美術(The Essential Duchamp)」展が巡回しており、やはり蛇足となった最後の部屋(日本美術の紹介)はなく、逆に違う作品も入っていた。ただし、《大ガラス》は映像のみの紹介である。また足を運ぶ時間はなかったが、東京国立近代美術館の「アジアにめざめたら」展も、国立現代美術館別館に巡回している。

ソウル市立美術館の「デイヴィッド・ホックニー」展は、多くの若い来場者で賑わっていたことが印象的だった。初期の謎めいたポエティックな作品、ロンドンとはまったく異なる環境に刺激されたロサンゼルスでの展開、群像をいかに描くかという試行錯誤、ピカソが亡くなったことを受けて、ギターの絵をモチーフとしたオマージュの連作、ホテルの中庭を独特の手法で描くなど、透視図法の解体、写真やデジタル技術への関心、近年の複数キャンバスによる巨大絵画など、彼のさまざまな実験の軌跡をたどる充実の内容だった。また、最近オープンした化粧品メーカーの《アモーレ・パシフィック新社屋》は、建築もなかなか優れたデザインだったが(設計はデイヴィッド・チッパーフィールド)、地下の美術館も気合が入っている。ビル・ヴィオラ、ジョセフ・コスース、ロバート・インディアナ、韓国のアーティストのナム・ジュン・パイクやイ・ブルなど、コレクション展では、力のある現代美術の作品を紹介していた。

「Vertiginous Data」展、会場の様子


「Vertiginous Data」展、フォレンジック・アーキテクチャーの作品(左)


「The Essential Duchamp」展、会場の様子


「デイヴィッド・ホックニー」展、会場の様子


《アモーレ・パシフィック新社屋》外観


《アモーレ・パシフィック新社屋》コレクション展示、ナム・ジュン・パイク(左)とロバート・インディアナ(右)の作品


《アモーレ・パシフィック新社屋》コレクション展示、イ・ブルの作品

2019/03/30(土)(五十嵐太郎)

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宮本隆司「首くくり栲象」出版記念展覧会

会期:2019/03/18~2019/03/31

BankART SILK[神奈川県]

吊り下げられたヒモの輪を前に、思い詰めた表情でたたずむ老人。ヒモに近づき、輪に首を通して、身体をゆだねる……。首くくり栲象(たくぞう)が20年ものあいだ日課にしていた首吊りパフォーマンスを捉えた写真だ。もちろん実際に首を吊るわけではなく、ヒモを顎に引っかけて身体を宙に浮かすのだが、ヘタすれば本当に首を吊ってしまいかねない(でも、昔「ぶら下がり健康法」なんてあったから意外と健康にいいかも、って真似すんなよ)。栲象は20年ほど前から、国立にある自宅の「庭劇場」で首吊りパフォーマンスを公開していたが、1年前に肺ガンで他界。同展は、近所に住む宮本隆司が撮りためた写真を展示するもので、栲象の1周忌と写真集の発売記念を兼ねた展覧会。建築や廃墟を撮り続けてきた宮本にとっては初の人物写真集となる。なんというか、おもしろい写真ではあるけれど、あまり欲しいとは思わないなあ。

2019/03/30(土)(村田真)

2019年04月15日号の
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