artscapeレビュー

2019年08月01日号のレビュー/プレビュー

フィーバー・ルーム、プラータナー:憑依のポートレート

会期:2019/06/30~2019/07/03

東京芸術劇場[東京都]

東京芸術劇場において、「響きあうアジア2019」のプログラムを通じ、現代のタイに関わる舞台芸術を2つ体験した。ひとつは2年前、開始時間を間違える痛恨のミスで見逃したアピチャッポン・ウィーラセタクンの《フィーバー・ルーム》(2015)である。普通に客席で座るのではなく、舞台側を使う演出は、ほかにも体験したことがあるけど、これほど効果的な作品は初めてだった。というのは、これまでは基本的に客と演者の両方が舞台側にいるという設定だったが、本作は舞台と客席の関係を反転し、しかもプロジェクターが投影する映像の一方向性を逆に利用していたからである。

(以下の内容は、少しネタバレ的な部分を含むが、たとえそれを知っていたとしても、予想を超える体験になるはずだ)。

前半は舞台側で完結しており、正面と左右に吊り下げられたスクリーンに囲まれ、病院から川や洞窟をさまよう映像を鑑賞する。が、観客席と隔てる幕が開けると、夜の豪雨と雷鳴の風景が出現し、そこからはプロジェクターが放つ光の粒子を全身に浴びる体験に移行するのだ。これはスクリーンの彼方、いや夢の中に没入する奇跡の映像体験である。そしてCGや3Dを駆使した大予算のハリウッド映画にもできない世界だ。どんなにお金をかけようとも、結局は旧来の劇場のシステムをなぞっているからである。


もうひとつの作品は、タイの小説家ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也《プラータナー:憑依のポートレート》(2018)である。なんと休憩を一回挟み、4時間超えの長丁場だった。若いアーティストという個人、サブカルチャーの受容、国家の社会的な激動が絡みあう、四半世紀にわたる性と政治をめぐる物語である。特に俳優らがもみくちゃになる激しい身体運動は、演劇ならではの見せ場だった。日本人にとっては、あまりタイの歴史はなじみがないが、同時代の出来事を想像しながら、共感して鑑賞することができる。考えてみると、岡田の《三月の5日間》(2004)も、大きな歴史的事件(=アメリカのイラク攻撃)と渋谷の一角の若者の性愛をパラレルに描いた演劇であり、《プラータナー》の演出に向いていたのではないか。

公式サイト:https://asia2019.jfac.jp/

2019/07/03(金)(五十嵐太郎)

ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』

会期:2019/07/05~2019/07/06

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

2004年アテネオリンピック開閉会式の演出を手がけたことでも知られる、ギリシャの演出家、振付家のディミトリス・パパイオアヌーの初来日公演。

舞台上には、黒く塗ったベニヤ板を重ねて敷き詰めたスロープが闇を背に設えられ、客入れの段階から、スーツ姿の男性パフォーマーがひとり、佇んでいる。幕が上がると男性は服を脱いで全裸になり、揃えた両脚を観客に向けて横たわる。別の男性パフォーマーが登場し、遺骸を覆うように白い布をかけて立ち去る。しばらくすると、もうひとりの男性パフォーマーが登場し、床から一枚のベニヤ板を剥がすと、手から離してパタンと落下させる。その風圧で、布は軽やかに宙を舞い、覆われていた裸体の全身が露わになる。すると再び、布をかけた最初の男性が登場し、床に落ちた布を拾って横たわる裸体を覆うが、2番目の男性が戻ってきて同じ行為を繰り返し、風で煽られた布はあっけなく「全裸の死体」をさらけ出してしまう。このシュールなやり取りが、無言のまま、次第に間隔を狭めて執拗に繰り返される。「足の裏をこちらに向けて横たわる、白布をかけられた男の裸体」は、短縮法を駆使してキリストの遺骸を描いたマンテーニャの《死せるキリスト》を想起させる。西洋古典絵画への参照、「死(体)」を超越しようとする欲望が駆動させる芸術という営み、露わにすることと隠すこと、行為の執拗な反復が生み出す時間感覚の変調やナンセンス、宙に浮遊する布が示唆する「重力との戯れ」など、本作のテーマが凝縮したシーンだ。

上述したマンテーニャのように、本作には、西洋美術史から抽出・引用した身体イメージが、次々と舞台上に召喚されていく。例えば、墓から復活したキリストの身体と、それを見守る3人のマリア。レンブラントの描いた《テュルプ博士の解剖学講義》。だが、キリストの輝かしい身体は、マリアたちが代わるがわる吹きかける「息」を受けてグニャリと歪み、解剖台の上の「死体」からは内臓が次々と取り出され、解剖台はカニバリズムさながらの狂乱の食卓へと変貌する。完璧にコントロールされた美とナンセンス、グロテスクと脱力したユーモアの共存。また、しばしば登場するのが、「頭部、上半身、左右の腕、脚」をそれぞれ異なるパフォーマーが担当し、露出以外の部分は黒子のように隠すことで、バラバラのパーツが接続されたキメラ的身体である。裸体を組み合わせてだまし絵的にドクロを形作るダリの写真作品を連想させるとともに、女性の身体に男性の身体が接合されたイメージは、錬金術やギリシャ神話における雌雄同体や両性具有を想起させる。あるいは、頭部、胴体、手足がバラバラに切断された遺体や双頭のシャム双生児を思わせるシーンは、ゴヤの版画「戦争の惨禍」の凄惨な戦場や、「フリークス」を見世物にしてきたサーカスやショーの歴史への言及を匂わせ、連想の輪は広がっていく。

地球儀のボールを抱えて虚空に浮遊させる男は、死の静寂で満たされた宇宙空間や重力への示唆とともに、アトラスを体現する。アダムとイヴ、キリストの磔刑、ピエタなどの図像群を経て、ラストシーンでは開かれた書物の上に頭蓋骨が置かれ、この世の儚さを説く「ヴァニタス画」が完成するなど、キリスト教美術や神話に基づく「死や(再)生」をめぐるイメージ群が散りばめられる。



[photograph by Julian Mommert]


パフォーマーの卓越した身体を使って、西洋美術やSF映画などから引用した「身体イメージ」を3次元化し、緻密な計算による構築と解体が次々に展開する──ワンアイデアだが、レファランスの多彩さ、次々と繰り出される小道具や衣装の仕掛け、スピーディーな展開により、約90分間、緊張感に満ちたテンションを維持し、飽きさせない。

パフォーマーたちはしばしば、サーカスの曲芸のように重力と戯れ、イリュージョニスティックな運動を繰り広げる。支えが無いかのように宙に浮く身体、無重力状態で浮遊するかのような石ころ、根の生えた靴底を天に向けて逆立ちで歩き、上下感覚や重力を失効させる男。ラストシーンでは、男が薄い紙に息を吹きかけ、宙に浮遊させ続ける。パフォーマーたちが戯れる「重力」は、物理的重力であると同時に、(ギリシャが起源のひとつである)西洋文化の重みというもうひとつの重力圏でもある。そこから逃れることはできず、優美に戯れ続けるしかないのだ。

なだらかな丘を形成する「積み重なった板」という舞台装置はまた、堆積した歴史的地層のメタファーでもある。パフォーマーたちは、その地盤に自在に空けられる「穴」や「開口部」から出入りし、落下し、あるいは巨大な子宮の割れ目から生命が誕生し、穴から死体の手足が掘り出される。だが、その地盤の下にある「抑圧された下部」は、観客の目には見えず、隠されており、時折、バラバラ死体のような悪夢的なイメージが噴き上がるのみだ。

「創世から死までの、時空を超えた人類の歴史」をコラージュ的に紡ぐ本作だが、それは西洋文化中心主義や偏重であり、その重力圏の重みと地層的厚み、そして抑圧構造を示唆しつつも、内実には深く踏み込まない。台詞が一切なく、レファランスは多いが広く流布したイメージであり、「既視感」に安心して寄りかかれること。その「わかりやすさ」からは、本作が世界ツアーの巡業を前提にしていることが明白である。



[photograph by Julian Mommert]


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/lp/thegreattamer_saitama_kyoto/

2019/07/06(土)(高嶋慈)

PGI Summer Show 2019 “monoとtone”

会期:2019/07/10~2019/08/24

PGI[東京都]

PGIではほぼ毎年、夏のこの時期に若手写真家たちのグループ展を開催してきた。今年は小島康敬、嶋田篤人、田山湖雪、西岡広聡、平本成海の5人が、それぞれのモノクローム作品を発表している。たしかに、デジタル化が完全に行きわたった現在でも、銀塩プリントのモノクローム写真にこだわる写真家は意外に多い。デジタルカメラ、デジタルプリンタを使っていても、あえてモノクロームで出力することもある。それだけの根強い魅力があるということだろう。

今回発表された5人の作品を見ると、やはり白から黒までの精妙で豊かなトーンコントロールができるという点が大きいのではないだろうか。カラープリントだと、どうしても作家の思惑を超えたノイズが写り込んでくるが、モノクロームなら画面の隅々にまで意識を働かせることができるからだ。ベルリンの都市風景を切り取る小島、風景を断片化して再構築する嶋田、祭りなど日常と非日常の境界に目を向ける田山、夜の建物の微妙な気配を探索する西岡、謎めいたパフォーマンスを披露する平本と、作風の幅はかなり広いが、画面を破綻なく構築していく能力の高さは共通していた。

逆にいえば、小さくまとまってしまいがちだということで、今回の展示に関しても、思考と実践のダイナミズムを感じる作品はほとんどなかった。作品としてのまとまりやクオリティを追求するだけではまだ物足らない。なぜモノクロームなのかという問いかけが、あらためて必要になってきそうだ。グループ展なので、各自に割り当てられたスペースが小さかったということは割り引いても、「暴れる」写真をもっと見たかった。モノクロームでも、それは充分に可能なはずだ。

2019/07/10(水)(飯沢耕太郎)

原三溪の美術 伝説の大コレクション

会期:2019/07/13~2019/09/01

横浜美術館[神奈川県]

開館30年を迎えた横浜美術館では今年、コレクションを巡る3本の企画展を並べた。1発目は6月まで開かれていた「Meet the Collection」で、自館の収集作品を紹介するもの。2発目が、今回の原三溪(1868-1939)が集めた「伝説のコレクション」の全貌に迫ろうという展覧会。そして3発目が秋の「オランジュリー美術館コレクション」展だ。人が入りそうなのはルノワールを目玉にした「オランジュリー」だが、展覧会としてはなんといっても「原三渓」がおもしろそう。たまたま同時期に国立西洋美術館で開かれている「松方コレクション展」と同じく、大コレクションを築きながら歴史の波に飲まれて大半を失ってしまうという波乱のドラマが秘められているからだ。


原三溪こと青木富太郎は、横浜で生糸業を営む原家に婿入りし、生糸の貿易や銀行業にも事業を拡大する一方、社会貢献として古美術品の収集と公開、美術家への支援にも熱心に取り組んだ実業家。もともと美濃の豪農の家に生まれた青木は、南画家だった母方の祖父や伯父に幼少期から絵画や詩文を学んだというから、彼自身も美術家(のはしくれ)だった。だから彼のコレクションは、ありがちなようにだれかの入れ知恵で集めたものではなく、みずからの趣味と審美眼で選んだものなのだ。また、同世代の岡倉天心(1863-1913)とも親交を結び、日本美術院を支援。さらに、当時の成功した実業家の常として茶の湯に親しみ、茶道具を集め、茶会を催し、茶人としても名を成していく。

こうしたことから同展では、三渓の全貌を「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」という4つの側面に分けて紹介する構成となっている。ちなみに「アーティスト三溪」の章には50歳をすぎてからの書画が何点か出ているが、彼が集めた鉄斎などに比べれば児戯に等しい。まあ比べるのも酷だけど、まだ16歳時の手習いの水墨画のほうが一途に描いていて好感が持てる。

ともあれ、三溪のこうした文化活動も関東大震災により自粛せざるをえなくなり、復興事業に専念することになる。こうして彼の集めた5千点以上ともいわれるコレクションは、ひとつの美術館に収まることなく散逸し、現在は東博や京博をはじめ根津美術館、大和文華館、ミホミュージアムなど各地の美術館に収まっている。これを見ながら、やはり同世代の松方幸次郎(1866-1950)を思い出してしまった。松方も社会貢献として西洋絵画を集めたものの、不況と大震災によってコレクションを散逸させてしまったところは同じ。大きな違いは、松方がおもに西洋の近代美術を集めたのに対し、三溪は日本の古美術に特化していたこと。しかし、西洋美術を日本人に見せようと美術館の建設を計画した松方の野望も、廃仏毀釈から古美術を守り、近代日本画を後押しした三溪の信念も、明治・大正期の実業家が共通して持っていたフィランソロピー精神に根ざしたものに違いない。いや、もっと砕いていえば、旦那の心意気ってやつか。

2019/07/12(金)(村田真)

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宮本隆司 いまだ見えざるところ

会期:2019/05/14~2019/07/15

東京都写真美術館[東京都]

展示はシリーズごとに5つに分かれている。まずネパール北部の農村ロー・マンタンを撮ったシリーズ。高地で乾燥しているせいか白黒のコントラストが強く、土壁の建物や路地ばかりで人がほとんど写っていない。次が、香港やバンコクやホーチミンなどアジアの都市風景。こちらは人や物があふれていて濃密な空気が漂っている。次に、最初の写真集『建築の黙示録』から、サッポロビール恵比寿工場の解体現場。これは写真美術館のある恵比寿ガーデンプレイスの開発前の姿。このころ宮本は、すぐ近くの再開発を見下ろすマンションに住んでいた。その次が東京スカイツリーを撮ったピンホールカメラのシリーズ。縦長の画面の上半分にスカイツリーを電信柱とともに写した奇妙な写真だ。あれ? 1点だけ電信柱のみでスカイツリーが写っていない写真があるが、これは徳之島の電信柱。


ここまでが前半で、後半はすべて徳之島を撮った《シマというところ》。宮本の両親は徳之島の出身で、彼自身も生後4カ月から2歳までこの島で暮らしたそうだ。もちろん記憶はないが、だからこそある程度年がいってから気になり始めたのだろう。近年はしばしば島を訪れるという。その写真には、海岸や田畑、ソテツ、じいさんばあさん、お祭り、ウミガメの産卵などが写されていて、明らかに前半の写真とは違う。「廃墟の宮本」像が崩れてしまいかねないほど違う。なにが違うかというと、たぶん温度だ。シマとは島ではなく、小さな共同体のこと。だからぬるい。写真がぬるいのではなく、ぬるさを写している。そのぬるさは幼少期の身体を包んでいた空気のような、あるいはひょっとして、羊水のようなぬるさかもしれない。

2019/07/14(日)(村田真)

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2019年08月01日号の
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