artscapeレビュー

2019年08月01日号のレビュー/プレビュー

関田育子『浜梨』

会期:2019/06/07~2019/06/10

SCOOL[東京都]

関田育子は立教大学現代心理学部映像身体学科卒出身。2016年に同学科教授の松田正隆が主宰するマレビトの会のプロジェクト・メンバーとなって以降、マレビトの会での活動と並行して自身の名義での作品を継続して発表している。2017年にはフェスティバル/トーキョー'17の「実験と対話の劇場」に参加し『驟雨』を上演した。

『浜梨』ではある親子の物語と集団登校する小学生たちの様子がおおよそ交互に描かれる。親子の物語では父が再婚し、娘が昇進して上京するまでのそれぞれの葛藤が描かれ、つまりそこにはベタな物語がある一方、小学生たちについては作品の終盤に至っても逆上がりができるようになるという程度の変化しか描かれず、そこには物語らしき物語はない。5人の俳優はいずれの「物語」にも登場し、作品内でそれぞれが二つ以上の役を担うことになるのだが、面白いのは、二つの「物語」が完全に独立しているわけではなく、両者がときに交錯しながら作品が進んでいく点だ。場面間の「つなぎ」がときにグラデーションのように曖昧なかたちをとっていることもあり、観客はしばしば俳優がいまこの瞬間に演じている役を誤解し、あるいは決定不可能な状態に置かれることになる。このような観客の認識の混乱がもたらすダイナミズムが関田作品の面白さのひとつだろう。

[撮影:小島早貴]

役の混同や取り違えはさらに、単なる演劇的趣向を越えて物語、あるいはそこで描かれる感情の受容にも大きな影響を与えているように思われる。たとえば娘が亡き母の仏壇に手を合わせ涙を流す場面。極度に記号化された「涙を拭う」仕草と、嗚咽しているさまを表わすと思われる寸断された「お……かあ……さ……ん」という言葉は、その記号化ゆえに「泣く」という行為そのものをむき出しに提示してみせる。だがその涙の無防備さはむしろ、同じ俳優が演じる小学1年生の女の子の方にこそ似つかわしいものに思われる。あるいは、娘に潜在する子ども時代がふいに顔を出したような印象がそこにはあった。

親子の物語と小学生たちの様子はともに「現在」の、そして基本的には無関係なものとして描かれつつ、並置され交錯する両者はそれぞれの見方に影響を与え合う。設定上の整合性は取れずとも、小学生たちはときにまるで大人たちの子ども時代であるかのようにも見える。大人たちの向こうにふと透けて見える「子ども」の顔。それはホームドラマを補強し、生の感情を表出させるための回路だ。「大人」である娘は同時に父と母の「子ども」でもあり、そのことは彼女の土台となっている。父を置いて上京し、また、父の再婚相手として新たな母を迎え入れることに対して娘が抱く複雑な感情は、まさに「娘」としての立場から生じるものだ。彼女の向こうに二重写しとなる「子ども」の姿は、彼女の率直な思いを伝えることになる。そうして「子ども」の自分を認めることでようやく、新しい家族のかたちはその最初の一歩を踏み出すことになるだろう。

[撮影:小島早貴]

[撮影:小島早貴]


公式サイト:http://scool.jp/event/20190607/

2019/06/08(山﨑健太)

梶井照陰「DIVE TO BANGLADESH」

会期:2019/06/14~2019/08/04

Kanzan Gallery[東京都]

「DIVE TO BANGLADESH」というタイトルは、とても的確に写真展の内容を伝えている。梶井照陰は、2013年にダッカ郊外シャバール地区の縫製工場(ラナプラザ)で起きた大規模崩落事故の取材をきっかけにして、バングラデシュの現実に「飛び込んで」いった。

そこは、想像を超えた混沌と矛盾に満ちた場所だった。ラナプラザは世界中の有名アパレル・ブランドの下請工場だったのだが、そこで働く若者たちは、スラム街で、経済的にはぎりぎりの暮らしを強いられている。梶井は駅の構内や路上で暮らす人々、ヒジュラ(トランスジェンダー)のコミュニティ、炭坑夫などにもカメラを向け、彼らが生きる場所へと降りていこうとした。まずは先入観抜きで撮影し、写真を通じて認識を深め、誠実に彼らと関係を作り上げていこうとする梶井の姿勢は一貫しており、現代の日本人にとっては遠い世界であるはずのバングラデシュの現実が、強い手触り感を保って伝わってきた。

梶井は真言宗の僧侶として佐渡島に暮らしながら、2007年から全国各地の限界集落を撮影して写真集『限界集落──Marginal Village』(フォイル、2008)を刊行し、中国のハルビンも長期取材して『HARBIN 2009-2012』(フォイル、2012)にまとめている。そのような点と点をつないでいくような写真家としての活動が、今や面としての広がりと厚みを持ち始めている。異色のドキュメンタリー写真家として、ユニークな視点を確立しつつある彼の、今後の仕事にも注目していきたい。なお、展覧会にあわせてリトルモアから同名の写真集が刊行されている。

2019/06/27(木)(飯沢耕太郎)

木村悠介演出作品 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/27~2019/06/30

Lumen Gallery[京都府]

暗闇に浮かぶ「口」が「彼女」と呼ばれる者について断片的に語り続ける、サミュエル・ベケットの戯曲『わたしじゃない』を、独自の映像技術「Boxless Camera Obscura」を用いて演出した公演。木村演出の要はこの映像技術の使用にあり、『わたしじゃない』の上演史における革新性と映像メディアへの自己言及性、双方にまたがる射程を兼ね備えていた。異なる4人の俳優による4バージョンが上演され、(スタンダードな上演の)女優/男優、日本語/英語など、演出方法がそれぞれ異なる。私は伊藤彩里によるAバージョンを観劇した。

上演空間には、白いスクリーンが貼られた壁と相対して椅子が置かれ、口元の高さにはマイクとルーペ(凸レンズ)が、足元にはスポットライトが設置されている。黒いジェラバ(フード付きロングコート)で全身を覆われた俳優が椅子に座ると、暗転し、スポットライトが俳優の口元を照らす。その光はレンズを通して集められ、対面した壁に、倒立した「口」の映像が浮かび上がる。通常の「カメラ・オブスキュラ」の場合は、「暗い箱」の名の通り、ピンホールやレンズを通して、密閉された箱のなかに対象物の像が映し出される。一方、「Boxless Camera Obscura(箱なしカメラ・オブスキュラ)」では、対象物、レンズ、投影像が隔たりのない同一空間に存在し、「光源とレンズと焦点距離」という極めてシンプルな装置により、映像の原理的構造を体感することができる(凸レンズとロウソクを使った中学校の理科の実験を思い出してほしい)。木村は、映画前史の映像デバイスについてリサーチと実験を行なう過程で、この技術を発見したという。



SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]


スクリーンに映る「口」は、拡大された倒立像であることもあいまって、グロテスクに蠢く不可解な生き物であるかのように、自律性を帯びて見えてくる。唾で濡れた唇、その奇妙に生々しい肉感、間からのぞく白い歯、洞窟のような口腔。普段は凝視しない、「発声器官」としての「口」の即物的な動きが強烈に意識される。時折映る鼻の穴は、暗い眼窩のようにも見える。俳優の身体が少し動くだけで映像はボケて不鮮明になる。発話する俳優の身体と映像の「口」は、光を通して繋がってはいるのだが、同時に別個の独立した存在として知覚される。生身の身体から「分離」されつつ光の紐帯によって繋がっている―この繊細な感覚は、ビデオカメラによるライブ投影では得られないだろう。純粋な光学現象によって得られる映像の美しさ、魔術性、危うい繊細さが体感される。

そして、こうした即物的な物質性や分裂/同一性を揺れ動く曖昧さは、戯曲の構造とクリティカルに結びつく。「口」が語り続ける内容は断片的で整合性を欠き、しばしば中断や否定を含み、意味内容の正確な把握は困難だ。だが、一見破綻した言葉の羅列を聞き続けているうちに、「口」の語る「彼女」とは、「口」自身のことではないかという疑念が頭をもたげてくる(以下の引用は、木村自身の翻訳による)。例えば、「……彼女は自分が暗闇の中にいるんだって気付いた……」「……彼女が何を言ってるんだかさっぱり!……」「彼女は思い込もうとした……(中略)全然自分の声じゃない……」「……そしたら彼女突然感じた……(中略)自分の唇が動いてるって……」「……体全部がまるでなくなったみたい……口だけ……狂ったみたいに……」といった台詞群は、「口」の語る「彼女」=「口」自身の置かれた状況との一致を示唆する。だがその一致の可能性は、「…なに?‥だれ?‥ちがう!……彼女!……」という、「口」自身が繰り返す激しい否定によって決定不可能な領域に置かれる。

また、生身の身体から切り離され、非人称化された「口」の映像は、「……それに唇だけじゃなくて……ほっぺた……あご……顔中……(中略)口の中の舌……そういう全部のゆがみがないと……喋ることはできない……でも普通なら……感じることなんてない……気を取られていて……何を話してるかってことに……」といった台詞とリンクし、発声器官としての即物性を強調する。

さらに戯曲中には、「……気付いた……言葉が聞こえるって…」「じっと動かず……空(くう)を見つめて……」といった台詞が示唆するように、ト書きに書かれた「聴き手」=「彼女」の一致の可能性も書き込まれている。ここで、俳優の衣装に改めて目を向けると、もうひとつの仕掛けがあることに気づく。木村は、「聴き手」の衣装として指定された「黒いジェラバ」を俳優にまとわせることで、「発話主体であり、同時に聴き手でもある」二重性をクリアしてみせた。



SCOOLでの東京公演 [撮影:脇田友]


三人称で語ることへの固執、何かの役を演じること(代理表象)と俳優自身の身体の二重写しとズレ、発声器官としての即物性、「自らの声」の聴き手でもある二重性。「口」=「彼女」=「聴き手」の一致と分裂。ここから照射されるのは、語る主体の問題、「わたしじゃない」存在を演じる俳優という演劇の原理的構造である。木村は、「Boxless Camera Obscura」という装置を秀逸にもベケットの戯曲に適用することで、語る俳優の身体を複数のレイヤーへとラディカルに解体しつつ、多重化してみせる。それは、「親の愛情を受けずに育ち、コミュニケーションから疎外された人生を送ってきた、70歳の孤独な老婆の分裂的なモノローグ」という表層のレベルを超えて、メタ演劇論としての戯曲の深層を照らし出す。「俳優の『口』以外を黒い幕で覆う」「ビデオカメラで『口』だけを映像化する」といった従来の演出ではなしえなかった境地に到達した。

演劇の原理的構造への応答という点では、ある意味「最適解」である解像度の高い演出ではあるが、本作の試みには、まだ未踏査の領域が残されている。それは、カメラ・オブスキュラ(及びその延長上にある映像)と窃視的な欲望との共犯関係、そこに内包されるジェンダーの問題である。ピンホール=覗き穴から見た光景を(内/外を逆転させて)拡大投影したような「口」の蠢きは、女性器のメタファーとしても機能し、エロティックな含意を帯びている。本作の「彼女」同様、例えば『しあわせな日々』のウィニーのように、女性の身体が被る拘束や抑圧的状況とどう結びつくのか。本公演の到達点の先には、さらなるクリティカルな可能性が広がっている。

2019/06/29(土)(高嶋慈)

藤原更「Melting Petals」

会期:2019/06/14~2019/07/13

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

名古屋在住の藤原更は、これまでEMON PHOTO GALLERYで個展を2回開催してきた。「Neuma」(2012)では蓮を、「La vie en rose」(2015)では薔薇を題材とした作品を発表してきたが、今回は芥子の花を撮影している。個展のために滞在していたパリで、彫刻家の夫婦に「秘密の花園」に誘われたことが、本作「Melting Petals」制作のきっかけになった。手招きをしているように風に揺らぐ赤い花を見て、「花に促されるままにドアをあけ、踏み出した」のだという。

前作もそうなのだが、藤原は花をストレートに提示するのではなく、プリントに際して操作を加えている。今回は、ピグメントプリントの表面を剥離させ、紙やキャンバス地に画像を転写した。そのことにともなう、予測のつかない画像の色味やフォルムの変化を取り込んでいるところに、彼女の作品の特徴がある。しかも、最大約1.5m×1mの大きさに引き伸ばされることで、真っ赤な芥子の花は空中を浮遊する奇妙な生き物のように見えてくる。花々に内在する生命力を解き放つためにおこなわれるそのような操作は、ともすれば装飾的で小手先のものになりがちだ。だが藤原の場合、撮影の段階から最終的なプリントのイメージを明確に持っているので、画像の加工に必然性と説得力を感じる。

これで「花」のシリーズが3作品揃ったので、そろそろまとめて見る機会がほしい。より規模の大きな展覧会か、作品集の刊行を考えてもよいのではないか。

2019/06/29(土)(飯沢耕太郎)

佐藤信太郎 写真展「Geography」

会期:2019/06/25~2019/07/13

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

佐藤信太郎が今年2月〜4月にPGIで開催した個展「The Origin of Tokyo」に出品されていた6点組の「Geography」を見たとき、とても面白い可能性を秘めた作品だと感じた。佐藤自身も同じような思いを抱いていたようで、あまり間をおかずにコミュニケーションギャラリーふげん社での個展が決まり、同名の写真集も刊行された。

佐藤が大判の8×10判のカメラを使って1992年に撮影したのは、「東京湾岸の埋立て地にある舗装していない巨大な空き地」である。その鉱物質の地表を、「平面をそのまま平面的に撮る」というコンセプトで撮影したのが本作で、今回の展示ではそれらを125×100センチに大伸しして展示している。この大きさだと、佐藤が本作で何を目指していたのかがよく見えてくる。彼はその後、代表作となる『非常階段東京 TOKYO TWILIGHT ZONE』(青幻舎、2008)の写真を撮り進めていくのだが、「Geography」は、東京という都市を多面的に浮かび上がらせていく彼の撮影行為の原点であり、そのスタートラインを引く試みだったのだ。だがそれだけではなく、一見素っ気ない佇まいの画像には、実に豊穣な視覚的情報が含まれていることを、今回展示を見てあらためて確認することができた。細かな隆起、ひび、裂け目、染みなど、写真で撮影すること以外では捉えることのできない、無尽蔵の物質の小宇宙がそこにはある。

町口覚の造本設計による写真集『Geography』(ふげん社)の出来栄えも素晴らしい。6点の写真の画面の一部をさらにクローズアップした画像、2点を並置するという工夫が凝らされている。

2019/07/03(水)(飯沢耕太郎)

2019年08月01日号の
artscapeレビュー