artscapeレビュー

2022年03月01日号のレビュー/プレビュー

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』

会期:2022/02/11~2022/02/27

こまばアゴラ劇場[東京都]

世界が大きな問題に覆われるとき、個々人が抱える個別の問題は存在しないことにされてしまう。大事の前の小事? だがそうまでして守られるべき世界とは何なのだろうか。お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』(作・演出:得地弘基)は個人と世界の対立を、あるいは「世界」と「世界」の対立を描き出す。そうして描き出される世界のあり方は、あまりに現実に似ている。

2021年11月にワーク・イン・プログレスが上演された本作。今回の本公演では上演台本をブラッシュアップしたうえで配役を一新、一部の登場人物はダブルキャストで演じられ、基本の筋は同一ながらワーク・イン・プログレスとは大きく異なる印象の作品に仕上がっていた。私が観劇したのはBキャストだが、以下では演じた俳優の名前を「役名(Aキャスト/Bキャスト)」のかたちで記載していく。


[撮影:三浦雨林]


作品の冒頭、『ハムレット』をベースに「《吸血鬼》、《人狼》、《幽霊》、《人造人間》、そして《人間》」という「五つの病を寓意化した種族」が生きる世界を描いたこの物語は「一つの架空の症例」であり「一つの箱庭」であること、そして「『現実』もまた箱庭の一つ」であることが宣言される。美術家・中谷優希による舞台美術はこの宣言に呼応するものだ。舞台の左右と奥の三方を囲む半透明のカーテン。その外側は俳優や小道具の待機場所になっていて、俳優はカーテンの間を通って舞台中央の演技空間へと出入りする。舞台正面上部にも同じ半透明の布が文字幕のように吊るされ、プロセニアムアーチのような正面を形成している。そこは病室であり診察室であり、そして同時に劇場でもある。舞台中央には点滴が吊るされているが、その先につながれているはずの患者の姿はなく、チューブの先からは液体が滴っているのみ。患者は回復したのか、あるいは、つながれているのはこの世界だということだろうか。


[撮影:三浦雨林]


物語の前半では王子ハムレット(高橋ルネ)が叔父であり自らの主治医でもあるクローディアス(永瀬安美/黒木龍世)を疑い、彼が犯した犯罪を暴こうとする。大まかには原作に沿った筋立てだが、本作では亡くなっているのは父王ではなく母ガートルード(宇都有里紗/緒沢麻友)であり、クローディアスは彼女の主治医でもあった。城には幽霊(当然ガートルードの幽霊である)の噂が流れ、街では吸血鬼の城と呼ばれているらしい。近辺には人狼の森なる場所もある。

やがて、レアティーズ(海津忠/橋本清)が実は人狼であること、ホレイショー(大関愛)がクローディアスによって造られた人造人間であることなどが明らかになり、ホレイショーとクローディアスは国王に遣わされた国家警察特任捜査官フォーティンブラス(宇都/緒沢)によって罪人として捕らえられてしまう。このとき、さらに衝撃の事実として、父王とガートルードが吸血鬼であり、血のつながらない叔父であるクローディアスは彼らの治療をしていたのだということが明かされる。つまり、ハムレットその人もまた吸血鬼だったのだ。そうして世界は転覆する。

疫病が蔓延した街はフォーティンブラスらによって南北に分断され、境界には壁が建設される。健康でないものは南側へ送られ、観客はカーテンの向こう側へとひとりずつ消えていく登場人物たちを見送ることになる。だが、カーテンの向こうは現実だったはずでは? 見送る観客のいる「こちら側」はいったいどこにあるのだろうか。


[撮影:三浦雨林]


こうして、物語の後半では吸血鬼、人狼、人造人間、そして幽霊は健やかでない者として一緒くたにまとめられ、それぞれが抱えていたはずの問題は後景に退いてしまう。それどころか、吸血鬼は存在しないということが国によって「決定」され、国にとって都合の悪いその存在は隠蔽されることになる。物語の冒頭には、例えば「ひとつは、吸血鬼。太陽を憎み、人の生き血を吸う、夜の王さまです」といった具合で、それぞれの種族の紹介が置かれていた。五つの種族の紹介は「そして、人間。わたしたち、あなたたち、のような、普通の人々です」と締め括られる。ところが物語の終盤では、すべての種族が「わたしたち、あなたたち、のような、普通の人々です」と紹介されるのだ。この言葉が持つ意味は両義的だ。性質によってむやみ人を分かつことは差別につながりかねないが、違いに目を向けないことで問題自体がないことにされることもままあることだからだ。

すべてが済んだ最後の場面。原作とは異なり、この作品においては唯一の健やかなる者だったオフィーリア(新田佑梨)が診察を受けている。彼女はカーテンの向こうに誰かの叫びを聞いた気がするが、飲み忘れていた薬を飲むと叫び声はもう聞こえない。だが、遠く響く声に耳を塞ぐことが果たして治療の名に値するだろうか。しかしそうして彼女の世界の平穏は保たれているのだ。


[撮影:三浦雨林]


これまで、演劇を使って思考実験を突き詰めるような作品を上演してきたお布団/得地だが、本作では確固たる物語の力を示してみせた。だがその分、本作では思考実験的な側面がやや控えめだった点は物足りなくもある。次作ではさらなる進化を見たい。


お布団:https://offton.wixsite.com/offton
お布団Twitter:https://twitter.com/engeki_offton


関連レビュー

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月15日号)

2022/02/12(土)(山﨑健太)

Chim↑Pom展:ハッピースプリング

会期:2022/02/18~2022/05/29

森美術館[東京都]

Chim↑Pomが森美術館で回顧展を開く、と聞いたときの違和感はなんだろう。「美術館」と「回顧展」はすぐに結びつくが、「Chim↑Pom」と「美術館」、「Chim↑Pom」と「回顧展」が接続しづらいのだ。Chim↑Pomといえば、渋谷に徘徊するネズミを捕まえてピカチュウみたいな剥製にしたり、広島の空に飛行機雲で「ピカッ」と書いたり、岡本太郎の壁画《明日の神話》に福島原発事故の絵を無断で付け加えたりと、お騒がせの芸術確信犯との印象が強い。もっともいま挙げた3つは、17年に及ぶ彼らの活動のなかでは初期の「作品」にすぎないが、しかしその後も、新宿歌舞伎町のビル全体を作品化したり、福島の原発事故による帰還困難区域内での国際展を立ち上げたり、とても美術館には収まらない「ストリート」な活動を続けている。それがいまさら美術館でなにを、とも思うが、まあ新しいもの好きの森美術館だからうなずけないでもない。

Chim↑Pom自身も違和感は承知のうえで、「芸術実行犯を自称するChim↑Pom17年間の全活動を振りかえろうだなんて正気の沙汰とは思えませんが、さすが森美術館というか、それでこそ東京イチの美術館というもの。(中略)とにかく森美術館と共に、歴史的な展覧会を作り上げていければと考えている所存でございます。お楽しみに」と前口上を述べている。しかし最近は「公」について積極的に問いかけるアーティストだけに、私設の森美術館より国公立美術館でやってほしかったという思いもある。確かに新作だとなにをしでかすかわからないから、どこも腰が引けるだろうけど、回顧展だったらできるんじゃないか。もう遅いけどね。 などと考えながら会場に入ると、いきなり天井高6メートルの展示室が上下2層に分けられ、下層は鉄パイプで支えられている。おお、すばらしい導入部。下層では、前述の渋谷のネズミを剥製にした「スーパーラット」や、新宿のビルの床を貫通させた「また明日も観てくれるかな?」、台湾の美術館の内から外までアスファルトで舗装した《道(Street)》など、主に都市や公共空間をテーマにしたプロジェクトを写真、映像、マケットなどで紹介。雑然としたディスプレイが路地裏の空気を醸し出している。階段を上ると、上層は床にアスファルトが敷かれ、ところどころマンホールや通気口があり、下をのぞける仕組み。つまり下層でうごめくわれわれは、地下を這いずり回るネズミかゴキブリみたいな存在だってことに気づくのだ。これは見事。回顧展でありながら、展示構成自体が新作インスタレーションとして成立しているのだ。やっぱりただの回顧展ではない。

実はこの上下2層のインスタレーションは展示全体の序盤で、10あるセクションのうち「都市と公共性」「道」の2つを占めるにすぎない。その後も「Don’t Follow the Wind」「ヒロシマ」「東日本大震災」と興味深いプロジェクトが続くのだが、ここでは割愛。それより、あとで知ったのだが、虎ノ門でも「ミュージアム+アーティスト共同プロジェクトスペース」として、森美術館では展示できなかった作品をいくつか公開しているらしい。「本スペースは、本展実現までのプロセスにおいて、作家と美術館のあいだでさまざまに生じた立場や見解の相違をきっかけとし、多様な観点からの議論を発展的に深めることを目的とした場所です」とのこと。まだ見ていないが、やはり「美術館」や「回顧展」にはすんなりと収まらなかったようで、かなりの攻防が繰り広げられたことが想像される。それで空中分解も妥協もせず、第3の道を探り、発展的に議論を深めていこうとするところが、さすがChim↑Pom。


「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」展 会場風景[筆者撮影]


2022/02/17(木)(村田真)

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宝石 地球がうみだすキセキ

会期:2022/02/19~2022/06/19

国立科学博物館[東京都]

宝石は美術品か、工芸品か、それとも自然物か? もし宝石が美術品か工芸品なら美術館で扱うべきだし、自然物なら博物館の管轄だ。そもそも宝石というのは、美しい鉱石を加工して装飾などに使用するものなので、元は自然物であり、そこに手を加えて製品化した美術・工芸品でもある。言い換えれば、加工される前の原石はいくら美しくても芸術でもなんでもないし、逆に、宝石として加工されたものは石彫や木彫と同じく自然物とは言えない。だから、もし博物館で扱うなら宝石の成り立ちや種類の多様性を伝えるべきだし、美術館で見せるなら見た目の美しさや装飾技術の見事さを強調すべきだろう。だとするなら、科博で見せる今回の展覧会は外観の華やかさや美しさより、質実剛健でストイックな展示になるのではないか……。そんな余計な心配をしながら見に行った。

展示は、「原石の誕生」「原石から宝石へ」「宝石の特性と多様性」「ジュエリーの技巧」「宝石の極み」の5章立て。予想どおり、前半は宝石の成り立ちや種類にスペースが割かれていたが、けっして退屈なものではない。岩の塊にへばりついたガーネットやアマゾナイトの原石は、まるで癌のようで鳥肌が立ちそうだし、円柱の上に球体がついているマラカイトは、まさに名前どおりの男根状でつい見入ってしまった。また、原石が削られ磨かれて宝石になる技術は見事なもので、とりわけダイヤモンドに目を奪われる。同じサイズ、同じカットのダイヤモンドとクリスタル(水晶)を並べているのだが、輝きがぜんぜん違う。これまで、ダイヤモンドも水晶もガラスも大して変わらないじゃないか、を口実に妻に宝石を買ったことがなかったが、ここまで違いを目の当たりにすると、女性が(いや人類が、というべきか)ダイヤモンドに惹かれる理由が少しはわかった気がする。

後半は宝石の美しさに焦点を当てた展示で、いかにも高価そうな指輪、ネックレス、ブローチなどを並べて、もはや美術展というか宝飾店のノリ。値札をつけたらより興味が湧くんじゃないかと思うが、そんなことしたら招かざる客までおびき寄せることになってしまいかねない。展示品にはレプリカもあるが、大半は本物の宝石なので、めちゃくちゃ金がかかっているはず。いったい保険評価額はいくらくらいなんだろう。そういえば今回はいつもより会場にスタッフが多く配置されていたような気がするのは、警備も兼ねているからだろうか。

蛇足ながら同展には、古代から現代までの指輪を集めた国立西洋美術館の橋本コレクションも出ているが、考えてみたらなぜ橋本氏は西洋美術館に寄贈したのか。西美は周知のように、ルネサンスから近代までの絵画、彫刻、版画をコレクションの軸とする。橋本コレクションは西洋の指輪が中心なので、東博でもなければ科博でも東近でもないのは納得できるが、西美も少し違うような気がする。おそらく、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館のような、宝飾品も含めた広い意味でのデザイン専門の国立美術館が日本にないことが問題なのだ。


公式サイト:https://hoseki-ten.jp

2022/02/18(金)(村田真)

第一回ふげん社写真賞グランプリ受賞記念 木原千裕写真展「いくつかある光の」

会期:2022/02/11~2022/03/06

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

1985年、福岡県出身の木原千裕は、昨年公募された第1回ふげん社写真賞でグランプリを受賞した。同年開催の第23回写真「1_WALL」でもグランプリを受賞しており、将来を大きく嘱望される写真家の登場といえるだろう。町口覚がデザインする作品集が刊行されたことを受けた本展は、ふげん社写真賞グランプリ受賞記念展である。

木原は「1_WALL」のグランプリ受賞作「circuit」では、同性の恋人との濃密な関係における葛藤を、写真を通じて昇華することをめざした。この「いくつかある光の」では、逆に「家族でもない、友人でもない、関係性に名前のない」人物にカメラを向けている。自宅から1,383キロも離れた東北の海辺の街に住むその人を4度訪ねて撮影した写真が、連続写真(シークエンス)の視覚的な効果を生かしながら淡々と並んでいた。たしかに「circuit」の写真と比較すれば、やや緊張感を欠いた穏やかな写真群だが、これはこれで見る者を引き込む魅力が備わっているように感じる。「何者でもない他者」の写真には違いないのだが、撮影を重ねるうちにふとした仕草や表情から、関係の深まりが伝わってくるのだ。木原の人間観察力の細やかさ、微妙な気配を感じとり、定着する、写真家としての能力の高さがよく伝わってきた。

上々の出来栄えといえそうだが、彼女の潜在能力と器の大きさは、こんなものではないと思う。次作がどうなっていくのかがとても楽しみだ。

2022/02/19(土)(飯沢耕太郎)

ほろびて『苗をうえる』

会期:2022/02/16~2022/02/23

下北沢OFF・OFFシアター[東京都]

なるべくならば人を傷つけずに生きていきたい。だがそんなことは不可能だ。それでも「生きていく以上、人を傷つけてしまうことは仕方がない」と開き直ることはしたくない。自分が人を傷つける可能性に誠実に向き合い生きていくことは、どのように可能だろうか。

家を分断する境界線に人を操るコントローラー。ほろびての作品は現実世界にひとつだけSF的な設定を導入するところから始まることが多い。だがそれは決して非現実的な物語を意味するものではなく、むしろ、現実のある側面に具体的なかたちが与えられ可視化されたものとしてある。

『苗をうえる』(作・演出:細川洋平)は卒業を間近に控えた高校生・鞘子(辻凪子)の左手がある朝、刃物になってしまうところから物語が始まる。それでも何事もなかったかのように高校に行こうとする鞘子に母・間々(和田瑠子)は絶対に家から出ないよう言い置いて介護の仕事へと出かけていく。仕方なく鞘子がひとり留守番をしていると母の恋人である青伊知(阿部輝)が金の無心にやってくるが、鞘子は左手の刃物で誤って青伊知を傷つけてしまう。一方、間々が介護に通う家には認知症のまどか(三森麻美)とその孫・宇L(藤代太一)が暮らしている。平均的な大人よりも大きいくらいの体を持つ宇Lはまだ小学5年生なのだが、どうやら学校には行っておらず、まどかとともに日々を過ごしているらしい。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


さて、鞘子は青伊知やコンビニの店員、そして宇Lをうっかり傷つけてはしまうものの、この物語のなかではそれ以上の大事には至らない。事件を起こすのは青伊知であり宇Lの方だ。金に困った青伊知はたまたま出会ったまどかから金のありかを聞き出し、家に忍び込む。だが、金を盗み出そうとしたところを宇Lに見つかった青伊知はそれでも金を返そうとせず、激昂した宇Lは青伊知の腕の骨を折ってしまう。ところが、青伊知を自分の夫だと思い込んでいるまどかは宇Lを「悪魔!」と罵り、平手打ちをくらわせるのだった。鞘子は偶然その場に居合わせ一連の出来事を目撃する。


[撮影:渡邊綾人]


この物語において「悪」はどこにあるのだろうか。もちろん、金を盗もうとした青伊知は「悪」いのだが、青伊知はまどかの前で半ば独白のように「俺、、、まともに働けない」「俺、健康に見える?」とこぼしていた。青伊知が働くことに何らかの困難を抱える人間なのであれば、鞘子の「働いてください」という言葉も青伊知には辛く響いただろう。鞘子は知らず知らず青伊知を傷つけていたことになる。しかし、金をせびる青伊知の存在が間々と鞘子の生活を脅かすこともまた事実なのだ。

一方、間々は鞘子が生まれたことをきっかけに更生したと語るが、母子家庭の生活は厳しく、鞘子は大学の費用を自分で工面しなければならない。宇Lもまた、かつては庇護者だったはずのまどかの存在に縛りつけられているといえるだろう。では誰が「悪」いのか。「悪」が存在するとすればそれは社会的な支援の不十分さのはずだが、家族として結びついた人々が悪意なく互いを損なってしまう現状がここにはある。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


登場人物のなかでは鞘子と宇Lだけが自分が他人を傷つける力を持っているのだということを自覚している。左手が刃物になってしまった鞘子は言うまでもないが、宇Lもまた、容易に他人を傷つけてしまう恵まれすぎた体格の持ち主だ。しかも、宇Lのなかには生まれてくるときに死んでしまった双子の兄弟・宇Rがいて、極度の乱暴者だという彼が表に出てこないように努力をしているらしい。一方、大人たちもまた、誰もが誰かを傷つけているが、それは鞘子と宇Lのように身体的な力によるものではない。社会に組み込まれた大人たちはより複雑な、ときに自覚のないかたちで他人を損なっている。

この物語は、鞘子が刃物となった左手とともに、それでも社会に出て生きていくことを間々に宣言する場面で終わる。一連の出来事を経て、鞘子は刃物の左手を持つことの意味を受け入れる。冒頭の場面で鞘子は、間々に指摘されながらも自身の左手が刃物になっていることになかなか気づけなかった。自分の存在が他人を傷つける可能性を直視することは難しい。だからこそ、自身の左手に宿る刃物を、自らの手が無垢ではないことを受け入れ前を向こうとする鞘子の強さは胸を打つ。


[撮影:渡邊綾人]


芸術の道を志す鞘子の姿には、『苗をうえる』のつくり手である細川たちの姿も反映されているだろう。宇Rの名前がウランに由来するものだということを考えれば、この物語で描かれている「他人を傷つける可能性」が人間に限定されたものでないことも明らかだ。芸術やあらゆる技術もまた、つねに誰かを傷つける可能性を孕んでいる。それは避けられない、一回一回誠実に向き合っていくことしかない問題なのだ。苗を育てるという鞘子の宣言には、それでもその手で未来を紡ぐのだという意志が込められている。舞台の手前に目を向ければ、そこに植えられたいくつもの植物は、白い紙を切ることでかたちづくられたものだった。刃物の使い道は人を傷つけることだけではない。


ほろびて:https://horobite.com/


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2022/02/19(土)(山﨑健太)

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