artscapeレビュー

2010年03月01日号のレビュー/プレビュー

プレビュー:太田三郎 新作展「子供の時代」

会期:2010/03/19~2010/04/10

ARTCOUT Gallery[大阪府]

切手をモチーフにした作品で知られる太田三郎が新シリーズを発表。近年の作品は原爆や中国残留孤児など先の大戦にまつわるものが多かったが、新作では「子供」を巡る状況がテーマとなる。ひとつは、ダウン症児を持つ親たちが設立した団体「あひるの会」との交流から生まれた《あひるの子供たち》。もうひとつは児童虐待の新聞報道に基づいて制作された《石の小箱》だ。切実なメッセージが込められた作品になりそうなので、こちらもその心づもりで出かけたい。

2010/02/20(土)(小吹隆文)

ホテル・モダン『KAMP/収容所』

会期:2010/02/20~2010/02/21

スパイラルホール[東京都]

1997年より活動を始め、2000年に第一次世界大戦をモチーフにした作品で評価された彼らは、今作ではアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一日を描いた。舞台に敷き詰めけたジオラマ、そこを生きる人々。登場人物たちはすべて人形で、パフォーマーは黒子に徹する。主眼は再現可能性/不可能性にあるのかもしれない。けれど、ぼくの興味はアウシュヴィッツという「神話」の演劇的活用という点にあった。〈ホロコースト〉は、実際に起こった歴史的な出来事であると同時に、人間の冷酷さ非人間的な性格を語る人類の比較的新しい「神話」としてとらえられるものではないだろうか。現場でなにが起こっていたのか、その真相は永遠に再現しえない(すべての現場がまたそうである)としても、ぼくらはそれを「神話」としてならば大いに語ってきた。本作を見て、ジオラマや人形はこの「神話」を演劇として見るべきものにする有効な方法に思われた。生きつつもすでに死んでいる収容所の人々は人形(という役者)にとって適役だし、生々しさが希薄な人形の営みはそこで起きたことを冷静に想像するのにふさわしかった。ところで、アフタートークで何人かの観客がそんな虚ろな人形に感情移入したという話をして、メンバーたちと意見がかみ合わない場面があった。彼らにとって距離をとるための仕掛けが、アニメや人形に独特の関わり方をする日本人にとっては距離を縮める仕掛として機能したらしく、興味深い齟齬だった。

2010/02/21(日)(木村覚)

黒沢美香『薔薇の人』第13回:早起きの人

会期:2010/02/24~2010/02/26

テルプシコール[東京都]

唯一無二の存在、そんなあたりまえのことを再確認した。初演から10年の『薔薇の人』。ダンスを「花」に、なかでも「豪華で香しい魅惑に満ちた代表」である薔薇にたとえる本シリーズは、黒沢によれば「ダンスの人」とも翻訳できる。とはいえこのソロ「ダンス」は一筋縄ではない。これまでも、床全面を雑巾がけしたり、丸太をノコギリで切ったり、乳の張りぼてを回したりなど、一見するとダンスとはほど遠い荒唐無稽な行為が延々と続き、その光景に観客は翻弄されてきた。翻弄されながらの失笑の隙間に、思いも掛けない瞬間があって、その一瞬をわくわくしながら待つ、それが「薔薇の人」。本作はその9作目(上演としては第13回)。布を干す、手を洗う、ホットケーキを焼く、食べる、呆ける、あわてる、たたむ。こうした行為が突拍子もなく始められまた別のなにかへと交替するその最中にダンスの香る瞬間があって、とくに「あっ」とか「はっ」とか黒沢がなにかを思い出したりなにかに気づいて目を彼方にやったりする、その前後にそれはしばしば起こる。「白塗りの天才乙女」とでも形容したらいいのか、謎のキャラと同化した黒沢の内側でうごめくなにかを、見る者は追いかけたくなる。そこにスリルとサスペンスが発生する。ダンスそれ自体のユニークさと正確さはもとより、そうした観客との絶妙なコンタクトの内に黒沢ダンスの真骨頂はあり、これは彼女しかなしえない唯一無二のダンスであるとあらためて思わされた。

2010/02/25(木)(木村覚)

『エクス・ポ テン/ゼロ』

発行所:HEADZ

発行日:2009年12月

第二期の『エクス・ポ』第0号は、第一特集が「演劇」(455頁分)。平田オリザ以後であり、さらに岡田利規以後とも言うべき今日の演劇の怒濤の展開を、編集発行人である佐々木敦が独自の嗅覚でまとめあげている。取りあげられている作家(脚本家、演出家)は以下のとおり。前田司郎、松井周、岩井秀人、平田オリザ、中野成樹、多田淳之介、タニノクロウ、飴屋法水、下西啓正、岡田利規、宮沢章夫。また、昨年の春に話題となったイベント「キレなかった14才♥リターンズ」に参加した作家たちも、彼らの座談会が掲載されフォローされている。もしあなたがまだ彼ら若い演劇作家の作品に触れていないならば、ここに名前のあがった作家たちの上演をチェックしてゆくことで、日本の演劇の現在と未来を知ることにきっとなるだろう。筆者も前田愛実、九龍ジョー、佐々木敦との座談会に参加しており、そこでは岡田利規的演劇とは別の可能性を示す存在として快快が話題になっている。ぜひご一読いただきたい。

2010/02/28(日)(木村覚)

三浦基『おもしろければOKか?』

発行所:五柳書院

発行日:2010年1月

京都を拠点に活動する三浦基(劇団「地点」主宰)の演劇論。表題の問いは、物語の奴隷状態から演劇を解放し、空間芸術・時間芸術としてとらえようとする三浦の思いが反映されている。議論は必然的に戯曲に演出がどう対峙するかに集中する。けっしてわかりやすい本ではない。しかし、演出家というものはここまで演劇を考えているものなのかと、読んでいて〈演劇なるもの〉の深淵を不意に覗き込ませられた気持ちになる。この体験はなかなか得難い。三浦本人も難渋するさまを隠さない。「どうだろうか。私だって意味がわからない。このでたらめさには、自分でも嫌気がさすが、しかし、これだけのことを思ってしまったことは本当であり……」。この正直さはチャーミングだ。演出家は演劇がわかって演出しているわけではない。手探りで自分の実感を頼りに闇を進む。その振る舞いがトレースされている。「私は今、きっと無理を言い出している。本当に自由な『時間』を求めているのだから」。三浦の望みは演劇がどんな主体性も関与しない「時間」そのものとなること。それを語る寄り道にムンクが不意に現われる。唐突さに笑い、引き込まれる。現代演劇論としてのみならず読み物としても魅力的な本である。

2010/02/28(日)(木村覚)

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