2019年10月01日号
次回10月15日更新予定

artscapeレビュー

2011年12月01日号のレビュー/プレビュー

荒木経惟─人・街─

会期:2011/10/02~2012/01/09、2012/01/14〜2012/03/20

世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館[東京都]

荒木経惟の写真展。《さっちんとマー坊》や《東京ラッキーホール》、《TOKYO NUDE》など、小規模ながら手堅い構成で荒木の写真を見せた。特に見どころなのが、初期の写真を収めたスクラップ・ブック。全紙サイズの巨大で厚みのあるスクラップ・ブックが、壁に貼り出された写真以上に、凄まじい迫力を放っている。さすがに直接触れることはできなかったものの、そこに収められたプリントはデジタル画像に変換されてモニターで流されていた。もちろんオリジナル・プリントのアウラがないわけではない。ただそれ以上に濃厚に感じ取れたのは、みずからの作品をあくまでもこのサイズで見せようとする写真家としての意気込みだ。ページをめくることが煩わしくなろうが、重たくて持ち運びにくくなろうが、関係ない。なんならすぐにでも搬入できると言わんばかりの強い意志がまざまざと感じられる。小ぶりで手ごろなサイズにまとめがちな昨今の写真家にとって、荒木の重厚なファイルはそれ自体がひとつの作品として映るのではないだろうか。

2011/10/28(金)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00014831.json s 10016674

アンリ・サラ

会期:2011/10/14~2011/11/10

KaiKaiKiKiGallery[東京都]

アルバニア生まれのアーティスト、アンリ・サラの個展。スネアドラムをモチーフとした立体作品と、3本の映像作品などが発表された。映像には、ビルの屋上でサックスを吹く黒人男性やさまざまな人たちが手回しのオルガンを弾いていく様子が映し出され、それぞれ無関係に進行していくものの、次第に映像と音楽が共振してゆき、やがて穴の開いたオルガンの楽譜と灯りのついた高層マンションの窓が重なり合うシーンで完全に一致する。音楽と映像の奇跡的な同期。サッカーボールを頭の上に乗せてバランスを取る最後のシーンが象徴していたように、アンリ・サラが見せようとしていたのは、その危うくも魅力的な瞬間なのだろう。

2011/10/28(金)(福住廉)

戸井田雄《時を紡ぐ(Marks)》(神戸ビエンナーレ 2011・高架下アートプロジェクト)

会期:2011/010/01~2011/11/23

元町高架下(JR神戸駅~元町駅間の指定する場所:13箇所)[兵庫県]

本年の神戸ビエンナーレでは、初の試みとして元町高架通商店街の空き店舗を用いたインスタレーションが行なわれた。13組の作家による展示は、サイトに対する各人各様の解釈を反映していてじつに興味深かったが、とりわけ、多くの人を驚かせたのが、戸井田雄のインスタレーション《時を紡ぐ》だったろう。
 入口にはカーテンが掛かっており、中に入ると、がらんとした空き店舗の空間が広がっている。什器はおろか、電灯以外、物らしい物はまったくない。あるのは、過去の住人たちの手垢と滲みが残る壁、床、天井だけである。途方に暮れて立っていると、突然明かりが消えた。その瞬間、暗闇の中に無数の青紫色の線刻が浮かび上がって、身体を取り巻かれる。あたかも宇宙の果てにいるかのような夢心地の気分に浸っていたら、再び明かりが付いた。殺伐とした空き店舗が再び目の前に広がった。
 展示のからくりが、室内の傷や滲みにすり込まれた蛍光塗料にあることは誰でも容易に想像がつく。また、その主旨が、戸井田が述べるように、「空き店舗に積層していた、その場所の思い出や街の記憶を光として表す作品」であることにも素直に頷ける(『神戸ビエンナーレ2011公式ガイドブック』より)。まさに本作品は、コンセプトと造形が見事に合致し、しかもサイトの性格を完全に活用した優れたものなのだ。
 とはいえ、雑然とした現実世界から突然、異次元の世界へと放たれた瞬間にわれわれが感ずるのは、そうしたコンセプトの存在ではなく、漆黒と青紫の光が生み出す非日常の「美」には違いない。ゆえに、今回の戸井田の作品は、きわめて辛口にいうなら、多くのコンセプチュアル・アートが抱えるコンセプトと造形の乖離という難題をやはり解決しきれなかったとも言えるかもしれない。たとえば、フェリックス・ゴンザレス=トレスのキャンディーを敷き詰めたインスタレーションは、この難題に対するひとつの答えを示している。加えて、ゴンザレス=トレスのインスタレーションはどこでも設置可能でありながら、サイトの性格を反映させる仕掛けも有している。そういう意味では、今後、戸井田が他のサイトやホワイトキューブの展示でどのような展開をみせるのかが楽しみだ。余談ではあるが、蛍光塗料のアイディアをもしデザインに応用するなら、たとえば、夜、就寝する前にリビングの明かりを消した瞬間のみ立ち現れるプロダクト・デザインというのは面白いかもしれないと思った。[橋本啓子]

2011/10/29(土)(SYNK)

日常/ワケあり

会期:2011/10/18~2011/11/19

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

ニューヨークを拠点に活動する江口悟、田口一枝、播磨みどりによるグループ展。いずれもインスタレーションで、日常品を紙で構成したり(江口)、構築物にプロジェクターで映像を重ね合わせたり(播磨)、ある種の日常性を共通分母としているようだ。なかでも、圧倒的な展示を見せたのが、田口一枝。同ギャラリーの最も大きな空間に、光沢のあるシルバー・フィルムを連ねたラインを天上から何本も吊り下げ、LEDライトによって反射した光の輪が幾重にも重なり合いながら揺れ動く光景をつくり出した。暗闇の中でゆっくりと回転する冷たい光輪に包まれる経験が、静かな感動を呼ぶ。

2011/10/30(日)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00015290.json s 10016676

バナナ学園純情乙女組『バナ学☆★バトル熱血スポ魂秋の大運動会』

会期:2011/010/26~2011/11/01

グリーンシアター BIG TREE THEATER[東京都]

秋葉原的なもののみならず、モー娘。やらAKB48やらZONEやらオザケンまでもがみじん切りにされ、数十名の出演者たちは歌い踊りながら観客に噛みつき、キスし、ポンポンを投げ、ヤジを飛ばし飛ばされながら、舞台という鍋のなかでぐつぐつ煮込まれる。観客は、爆音のなか、本物の水や豆腐やわかめ(!)が飛ぶなか、出演者たちにおびえ、ヤジを飛ばされ飛ばし返しながら、ひたすらそのカオティックな煮物を鑑賞するというより浴びるのだ。若さという武器が、無意味な、たんなるカロリー消費としてしか使えない現実にいらだちつつも、なりふりかまわず振り回してみる。アゲかサゲしかない青春という名の地獄がここにある。「カオス」という意味では、この「鍋」状態は「カオス*イグザイル」を何十倍か凌駕し、観客にヲタ芸をやらせる巻き込み力は、観客に旗を振らせたロメオ・カステルッチのうながしを何十倍か凌駕する。雨合羽を着た観客が瞬間瞬間の出来事におびえ爆笑するその60分の地獄めぐりは、劇団OM-2を微かに彷彿とさせるものの、圧倒的なへたれ感はあまりに現代的であまりに日本的で「パフォーマンス」なるものの枠から激しく逸脱している。なにも記憶に残らず、ただ体の火照りだけがいつまでも消えない。この感覚こそ彼らが観客の内に刻みつけようとしているものなのだろう。これが演劇なのかダンスなのかアートなのかなんなのかは、さしあたりどうでもいいことだ。すべての価値がフラット化し、ゆえにすべてが限りなく無価値になってゆく焦土と化した世界。そこで灰に火をつけるかのような表現が若い女性作家の手によって遂行されているという事実。そこに未来を感じたい。

★バナナ学園★×F/T=フェスティバナナ!!!!

2011/10/31(月)(木村覚)

2011年12月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ