artscapeレビュー
2016年04月15日号のレビュー/プレビュー
PATinKyoto 第2回京都版画トリエンナーレ2016
会期:2016/03/06~2016/04/01
京都市美術館[京都府]
2回目を迎える「京都版画トリエンナーレ」。本展の特徴は、コミッショナー20名の推薦方式による若手~中堅作家の積極的な紹介と、「版」概念の拡張にある。
また、狭義の「版画」の枠組みにおいて制作する作家においても、メディウムそのものを問い直す実験性が見られる。例えば、小野耕石は、インクの色を変えて100層以上もシルクスクリーンの版を刷り重ねることで、極小の突起に覆われた表面が、見る角度により玉虫色に生成変化する作品をつくり出す。《Hundred Layers of Colors》と題されたそれは、「インクの物質的な層の堆積」というメディウムの原理を露呈しつつ、光の反射や視点の移動によって、物理的には単一の表面を、現象的な現れの空間として、複数性へと開いていく。また、金光男は、白く不透明な蝋を支持体として、その上に写真を転写し、熱を加えることで、溶けた蝋の上でインクが流動化し、波打つように崩壊したイメージをつくり出す。凝固と流動性のはざまを漂う不穏な緊張感とともに、インクの物質的な層が剥離し、ただれた表面が浮き上がったような錯視を生み出している。そうした錯視効果を出現させるため、「金網のフェンス」「波」「カーペット」など、単位の反復性から構成される被写体を用いているのが特徴だ。さらに、手描きのモチーフではなく写真画像を用いる金の作品は、写真という複製物・「版」性とシルクスクリーンという「版画」技法を組み合わせたハイブリッドな表現でもある。
一方、写真や映像を用いて、間接性と反復性(複製性)という点から、「版」概念へと言及しているのが、山下拓也と林勇気である。山下拓也は、野球チームやオリンピック、万国博のマスコットとして、かつては人気者だったが今は忘れ去られたキャラクターたちを大量に複製し、過剰に増殖させたインスタレーションをつくり出す。どぎつくポップな色彩で彩られ、ペラペラの紙で複製されて「薄さ」を強調されたそれらは、二頭身のキャラクターに内在する「不気味さ」を剥き出しにし、イメージの大量生産と消費が夥しい「亡霊」を生み出していることを突きつける。また、林勇気は、パソコンのハードディスクやネット上に大量に蓄積された写真画像を用いて、1コマずつ切り貼りして緻密に合成し、アニメーションを制作している映像作家である。出品作《すべての終りに》は、これまでにない暴力性を感じさせるものであった。食べ物、車、植物、ペットボトル、家電製品などの夥しい画像が、視認不可能なほどの高速で接合され、伸縮自在に変形し、輪郭が溶解し、暴力的なまでに切り刻まれ、遂には渦まく砂嵐となって画面を覆う。そして、画像の断片が星くずのように瞬きながら暗闇に散らばって集合離散を繰り返すラストは、消滅か、新たな再生の予兆か。夥しい量の画像が、ネットの共有空間上でコピー・複製され、共有され、拡散するとともに撹拌・かき混ぜられてキメラ化し、瞬く間に消費されて消滅していく。その美しくも暴力的な様相を、宇宙の生成と消滅を思わせる映像として可視化していた。
2016/03/19(土)(高嶋慈)
有元伸也「チベット草原 東京路上」
会期:2016/02/06~2016/03/27
入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]
昨年、写真家の百々俊二が館長に就任した奈良市高畑町の入江泰吉記念奈良市写真美術館では、入江の作品だけでなく若手写真家の意欲的な展覧会を積極的に開催するようになってきている。今回は1971年大阪生まれで、奈良市で育った有元伸也を取り上げた(同時に入江泰吉「冬の東大寺とお水取り」展を開催)。
有元は1994年にビジュアルアーツ専門学校・大阪を卒業後、96年からチベットに長期滞在して撮影を続け、その「西藏(チベット)より肖像」で、99年に第35回太陽賞を受賞した。今回の展示では、代表作である「西藏より肖像」のシリーズだけでなく、専門学校の卒業制作として発表された「我国より肖像」、2008年に仲間とともに設立したTotem Pole Photo Galleryで展示され、写真集としても6冊刊行された「ARIPHOTO」のシリーズなど、約220点の作品で20年以上に及ぶ彼の写真家としての歩みを辿ることができた。
有元の6×6判のカメラによるモノクロームの写真は、きわめて正統的なポートレート、スナップとして制作されている。被写体とカメラを介して向き合い、そのたたずまいを精確に、揺るぎのない描写で定着していくスタイルは、とても安定感がある。とはいえ、あらためてプリントを見直していると、彼が時代状況と鋭敏に呼応しつつ、その時点での個人的な思いをかたちにしようともがき続けてきたことが伝わってきた。2011年の東日本大震災以後、新宿の路上スナップを、「より情報量の多い」広角レンズによるノーファインダー撮影にシフトしたのもそのあらわれだろう。
とはいえ、人間という不思議な存在に対する好奇心、それをむしろ「生命体=生きもの」として捉え返そうという視点は見事に一貫している。「ARIPHOTO」のシリーズも、かなりの厚みと奥行きを備えてきた。そろそろ一冊の写真集にまとめる時期に来ているのではないだろうか。
2016/03/19(土)(飯沢耕太郎)
歌劇「さまよえるオランダ人」全3幕
会期:2016/03/19~2016/03/20
神奈川県民ホール 大ホール[神奈川県]
この大作にどうして舞台転換の途中休憩がないのかと訝しがったが、船の外形に沿って湾曲した巨大なスクリーンに、CG映像で荒れる海、呪われた船、家の広間を表現していることで納得した。照明を暗くしたおかげもあり、ここまでリアルに見えるのかと感心する。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のような場面もあるのだが、ワーグナーのスペクタクル性をハリウッド的な感覚で提示したものと言える。
2016/03/19(土)(五十嵐太郎)
台湾カルチャーミーティング 台湾文化センター主催トークイベント 第1回「台湾建築散歩──戦後台湾建築史と都市景観の今」
会期:2016/03/19
台湾文化センター[東京都]
台湾文化センターにおいて、通訳と司会を担当した天野健太郎の仕切りで、建築史家の李清志とともに、戦後台湾建築史を振り返るトークを行なう。しばらく政府によってモダニズムよりも中華イデオロギーのデザインが優先されていたが、戒厳令が解かれた後、1990年代にアメリカ型のポストモダンが開花する。この頃、初めて台湾を訪れたのだが、足を踏み入れた恐竜をテーマにしたインディアン・レストランが、当時の開放的な雰囲気をよく示したデザインだったことを知る。また近代建築の保存運動も開始したという。そしてゼロ年代以降の日本建築ブームなどの流れをおさらいした。
2016/03/19(土)(五十嵐太郎)
チェルフィッチュ「部屋に流れる時間の旅」
会期:2016/03/17~2016/03/21
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇5本目。
花瓶ののったテーブルと2脚の椅子、奥にはカーテン。どこにでもあるリビングを思わせる簡素な空間。だが舞台上手には、水の入ったコップとホース、電球や石を組み合わせた奇妙な装置や、バケツ、プロペラ、丸い金属板のような物体が置かれている。日常的な室内を非日常が静かに侵食していくような舞台空間の中で、「震災直後」と「現在」と「近未来」をめぐる死者と生者の語りが交錯する。
「ねぇ、おぼえてる?」と執拗に夫に語りかける妻。「あの日を境に、私たちは生まれ変わったの。すばらしいと思わない?」と言う妻は、目に映るものすべてが美しく見えること、地震後に世の中が変わると確信した幸福感、隣人への思いやりや助け合いの気持ちが湧いたこと、赤ん坊に未来への希望を感じたことなどを延々と語り続ける。実は、彼女は地震の4日後に喘息の発作で死亡しているのだが、「災害ユートピア」の出現と社会の変化への希望を抱いたまま、円環的に閉じた時間の中に留まり続けている。死者の時間は安定しているが、もはや変化は訪れない。止まったままの死者の時間、その中で繰り返し語られる「希望」や「明るさ」、「幸せ」。「未来」を断たれた死者が「希望」を語り、過去の中にしか「未来への希望」がないという反転は、生者にとっては耐えがたい重荷となり、「ねぇ、おぼえてるでしょ?」という執拗な反復が負荷をかけ続け、生者の身体を硬直させていく。
呪いのような祝福の言葉から逃れるように、夫は新しい恋人を部屋へ迎え入れようとする。「わたしの乗ったバスは渋滞に巻きこまれていて、この部屋への到着が遅れています」「わたしは少しずつ、この人と親密になっていきます」と観客に向かって語りかける新しい恋人。死んだ妻=過去、夫=現在であるならば、この新しい彼女=来るべき未来の擬人化と考えられる。3つの時制の擬人化像を、元妻・夫・新しい彼女という3人の恋愛劇として重ね合わせた本作。死んだ妻は夫にだけ語りかけ、夫はぶっきらぼうな返事を返しつつ、新しい彼女とぎこちない会話を交わし、新しい彼女だけが観客に語りかけるメタな位置にある。あえて一幕の構成にすることで、限定された空間の中に、異なる話者と複数の時制が共存する構造が際立つ。現在において「今」を語ること、「現在時にはいない者」として「これから起こる未来」を語ること、「過去」を忘却しようとすることがかえって「過去」の存在を強く思い出せること。それは、「現在時には定住しえない、不在の者」としての「幽霊」を召喚する。「ねぇ、おぼえてるでしょ?」の執拗な繰り返しと、媚態とも苛立ちともつかない身体の微細な揺らぎ。現在時から疎外された「幽霊」は、絶えず想起されなければ存在できないのだ。
時間の圧縮、並置と共存。過去─現在─未来へと流れる単線的な時間ではなく、むしろ複数の時間軸の混線。伸縮自在に複数の時間を行き来するこの「部屋」とは、劇場空間に他ならない。「たくさんの、ここには聞こえてこない音があります」という新しい恋人の台詞には、社会的現実から切断された非日常的な「劇場空間」への自己批判が込められており、「ねぇ、おぼえてるでしょ?」という執拗な反復の居心地悪い響きは、倫理的要請と矛盾した希望のあり方、それが叶わなかった絶望、その諦めさえ忘却しつつある2016年の現在の後ろめたさを照射する。震災後の日本社会の矛盾を、死者と生者の交錯・対立を通して描き出す点で、本作は、前作の「地面と床」の延長線上に位置づけられる(「地面と床」では、国外への避難を企てる「嫁」を演じた青柳いづみと、ネイティブの土地や国語への愛を語る死者の「母」を演じた安藤真理という2人の女優が、本作では生者と死者の役柄を交換して演じている点も興味深い)。
また、時空の伸縮装置としての劇場空間への言及は、現代美術作家の久門剛史による音響と舞台美術によって増幅されていた。バケツ、ホース、小石、カーテン、電灯……一つひとつは見慣れたものだが、心地よい生活音や水の滴り、不穏なノイズを背景に、反復的な運動と光の明滅が与えられることで、自律的な領域をひとりでに生き始める。あるいは、揺らいだカーテン越しに差し込む光が、僥倖のような一瞬をつかの間出現させる。3人の話者による3つの時制の並置に加えて、もうひとつの時空間を到来させていた。
チェルフィッチュ「部屋に流れる時間の旅」
Photo: Misako Shimizu
2016/03/20(日)(高嶋慈)