artscapeレビュー
2016年04月15日号のレビュー/プレビュー
沢渡朔「Nadia」
会期:2016/03/18~2016/04/10
沢渡朔は『カメラ毎日』1971年11月号から1年にわたって「Nadia」のシリーズを連載する。1978年には写真集『Nadia 森の人形館』(毎日新聞社)が刊行された。このシリーズは、日本人写真家が外国人女性をモデルに撮影したヌード写真ということだけでなく、写真家とモデルとの関係のあり方をあらためて問い直す画期的な作品となった。沢渡とイタリア人女性のナディア・ガッリィは、撮影当時に恋愛関係にあり、そこには男女の心理の綾や、時にモデルに対して距離を置いたり、冷酷に突き放したりするような写真家の駆け引きのあり方が、なまなましく露呈していたからだ。1年のあいだに日本とイタリアを往復しながら撮影された写真群は、フィクションとノンフィクションが見境なく混じりあう、ある種の「私写真」として成立していたといってもよいだろう。
今回、AKIO NAGASAWA Galleryで展示された新編の「Nadia」は、「シリーズ全てのネガを見直し、現在の視線で今後に残したいと考えるものを新たにセレクト」したものだという。結果的に、そこには「未発表作品」が多数展示されることになった。このシリーズを現時点でどのように評価できるのか、愉しみと不安を両方抱えて見に行ったのだが、作品としての生命力がまったく衰えていないことがわかって安心した。沢渡自身の代表作であるとともに、このシリーズが、1970年代という日本写真の変革期が孕んでいたエネルギーに支えられて成立したものであることを、あらためて確認することができたのだ。なお、今回の展示にあわせて、モノクローム作品とカラー作品をそれぞれ収録した2冊組の写真集『Nadia b/w』(Akio Nagasawa Publishing)と『Nadia color』(同)が、各600部限定で刊行されている。
2016/03/24(木)(飯沢耕太郎)
さいたまトリエンナーレ2016 記者発表会
会期:2016/03/25
日本外国特派員協会[東京都]
この秋さいたま市で開かれる「さいたまトリエンナーレ」の概要発表。ディレクターは芹沢高志で、テーマは「未来の発見!」、おもなアーティストは、秋山さやか、チェ・ジョンファ、日比野克彦、磯辺行久、目、西尾美也、野口里佳、大友良英、小沢剛、ソ・ミンジョン、アピチャッポン・ウィーラセタクンら約40組。ま、要するに各地に乱立するトリエンナーレとかわりばえしないということだ。もちろん展覧会の外枠はかわりばえしなくても、場所が変われば作品も変わる。その意味で、各アーティストが「さいたま」でどれだけモチベーションを高められるかが見どころだ。会期は9月24日から12月11日まで。場所は与野本町駅から大宮駅周辺、武蔵浦和駅から中浦和駅周辺、岩槻駅周辺の3エリア。
2016/03/25(金)(村田真)
足立智美×contact Gonzo「てすらんばしり」
会期:2016/03/26~2016/03/27
京都府立府民ホール“アルティ”[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇7本目。
ヴォイスパフォーマー・作曲家の足立智美×contact Gonzo×ワークショップ参加者の子どもたち、という異色の組み合わせ。contact Gonzo×子どもたち、足立智美×子どもたち、そして足立智美×contact Gonzoという3項の組み合わせが、身体と音、ルールと即興、遊戯と真剣性、演出と逸脱、予定と不調和、軽やかさと過激さのあいだを行き来しながら繰り広げられた。また、「身体と音」をめぐるさまざまな位相─接触や衝突による身体そのものが出す音、声、それらの電気的な変換と増幅─が全編を通して主題化されていた。
会場の京都府立府民ホール“アルティ”は、通常は演劇やダンス、音楽コンサートの会場としてプロセニアム式の舞台を備えているが、舞台が取り払われ、剥き出しになった更地の空間が出現したことにまず驚く。観客は周囲を取り囲んで座り、闘技場のような楕円形の空間で起こる出来事を見つめる。足立智美が登場し、壁にプロジェクションされた、殴り書きのようなカラフルな図形や線描について説明する。これらは子どもたちとのワークショップでつくった図形楽譜であり、日用品や声を使って出したさまざまな音を図形化したものだという。説明を続ける足立に、contact Gonzoのメンバーが突然、体当たりをかまし、そのまま乱闘へ。演出なのか偶然なのか判然としない、先の読めない展開が続く。予測不可能な、即興的な身体のぶつかり合い。そのスリリングな応酬と身体のぶつかる鈍い音を、間近で見つめること。身の内に、不可解な衝動が熾火のようにうずき出す。さらに、パフォーマーの身体にはマイクが取り付けられており、拾った音が変調・加工されて発せられる。肉体の接触と同期して響く、鉄パイプで殴ったような金属音や電子音。それらの音は、肉体どうしがぶつかり合う衝撃の強さを、音響的に増幅する。
しかし、暴力すれすれの肉体の衝突と高まるスピード感を体感するカタルシスは、あっけなく崩壊する。偶然にも(?)、客席からもれた、怖がる赤ん坊の泣き声。観客の笑い。そして、一陣の風のように舞台上を駆けぬける子どもたち。10人ほどの子どもたちは、contact Gonzoのメンバーと身体の応酬を繰り広げた後、彼らだけで「子ども版」contact Gonzoをプレイする。無邪気で真剣なその遊戯は、信頼と承認と痛みの共有と他者への開かれという、contact Gonzoの(技法でなく)思考の核をつかみ出して見せていた。相手も肉体を備えた存在であることの承認、その承認を自らの肉体を差し出すことによって得ること、痛みも含めて相手との関係性の中で起きたことを無条件に受け入れること。
そして足立智美×contact Gonzoとなった終盤は、テスラコイルと台車という2つの装置を駆使した圧巻のパフォーマンスが繰り広げられた。テスラコイルとは、放電によって稲妻を発生させる共振型変圧器である。その真下に、ヘルメットを被って立つcontact Gonzoメンバーたちは、足立の乗った台車にロープを付けて引っ張り、大きな円を描いてぐるぐると回転させる。足立が変幻自在に操るヴォイスパフォーマンスは、不可解な言語を、目まぐるしく音程を変化させながら、狂った再生機のように超高速で繰り出してみせる。その声の高低に合わせて、テスラコイルの放電がコントロールされており、激しい放電音それ自体が、太く鋭い金管楽器のように轟音の音程を奏でる。一方、頭上で炸裂する放電の圧力と音の緊張感がcontact Gonzoメンバーの身体に負荷をかけ続け、足立の乗る台車の遠心力を加速させ、ヴォイスパフォーマンスをヒートアップさせていく。身体と声、それぞれのパフォーマンスが互いにフィードバックし合い、密度と緊張感を極限まで高めていく。一見、無意味でナンセンスな危険な「遊び」に、真剣に全力で身を投じるとき、拘束や負荷の中に浮上する、コントロールや表象の操作を離れた身体。それが何ものかへの抵抗として切実に感じられる限り、私たちは彼らのパフォーマンスに何度でも魅了されるだろう。
2016/03/26(土)(高嶋慈)
マヌエラ・インファンテ / テアトロ・デ・チレ「動物園」
会期:2016/03/25~2016/03/27
京都芸術センター 講堂[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇9本目。
1990年までピノチェト独裁が続いた南米チリで、「ポスト独裁主義世代」を代表する新鋭、マヌエラ・インファンテと、彼女が主宰する演劇グループ「テアトロ・デ・チレ」による演劇作品。ユーモアに富みながら、知的な批判性が冴えわたり、多岐にわたる問題群を提起する。支配的な言語と権力、科学とフィクションの境界、西洋近代的な知と帝国主義、文化の「保護」に内在する支配/被支配関係、「異民族の展示」という負の歴史、西欧/非西欧の非対称性、眼差す行為と倫理性、他者の「模倣」、ポスト植民地国のアイデンティティ、「演じること」とアイデンティティの決定不可能性、翻訳の(不)可能性……。
「動物園」は、「絶滅したと思われていた原住民の生き残り2名を発見した」文化人類学者によるレクチャーという形式で展開する。学者たちは、モニターで写真や映像、グラフなどを見せ、ダーウィンの『進化論』を引用しながら、スペインの入植以降、迫害と抑圧を受けて減少の一途をたどってきた原住民インディオの歴史について、観客に語りかける。スペイン語で語る学者の言葉は、日本語字幕で表示されるが、PCで字幕を操作する女性も舞台端に姿を現わしており、通常の外国語上演においては透明な媒体であるはずの「字幕」の存在感をアピールし、「話者はいったい誰か」という問いを提示するとともに、この「レクチャー」自体の虚構性を露呈させる。
どこまでが本当かフィクションか曖昧なレクチャーに続いて、「原住民の生き残り2名」が連れて来られる。彼らがフルフェイスのヘルメットを被せられているのも、「発見」後は秘密裏に研究室に隔離されていたのも、文化の純粋性の「保護」のためであると説明される。(異)文化の「保護」に潜む支配関係と、隔離や監視というかたちを取ったその発動。続けて、原住民との「ファーストコンタクト」の経緯、「トゥソイヨ」という彼らの名前、口頭伝承のみで文字言語を持たないこと、習慣的言動や身体的特徴などが、「証拠映像」を用いてレクチャーされていく。だが、「証拠映像」の存在は、逆説的にレクチャーの胡散臭さを強調し、モニターはたびたび「故障」する。接触不良を起こしたモニターに映るカラーバーに反応し、謎の踊りと歌を儀式めいた所作で行なう原住民たち。彼らは、大音響で流されるポップソングやノイズにパニック状態を起こし、舞台裏へ退場させられてしまう。そして、身体的にも非力で、技術的発展や防衛本能を持たないとされる彼らは、「他者を模倣する文化」によって今日まで生き延びてきたことが、生存の重要な秘密として告げられる……。
だがここで、「退場」した原住民が白衣を着て現われ、PCを無言で操作すると、字幕が次のように告げ始める。「「トゥソイヨ(Tu soy yo)」とは、スペイン語で「あなたは私」を意味します。私は本当は文化人類学部の教授です。ご覧の通り、彼らはほぼ完全に姿を消してしまいました」。つまり、「模倣の文化」によって生き延びてきた原住民たちは、自分たちを観察していた文化人類学者の言動を「コピー」することで、観察者と被観察者の立場を入れ替え、優位関係を逆転させてしまっていたのだ。「動物園」とは、観察者の振る舞いそれ自体を、研究室という彼らにとっての「自然環境」において「観察」する、という非肉な装置に他ならない。
この痛快などんでん返しは、真実を告げるというより、むしろ真偽の境界を曖昧な決定不可能性のうちに宙吊りにしてしまう。いかにも学者然としてレクチャーを行なっていたのが、実は原住民による「演技」なのであれば、その時「原住民」役を演じていたのは、「本物の」学者ということになる。「これは演劇である」と了解済みで見ていたことが、二重の意味で「演じられていた」という、虚構の二重性。そこでは、言語によって規定されるアイデンティティもまた、確固なものではなく、容易く溶解・反転してしまう。「トゥソイヨ」という固有名それ自体が、自/他の区別の溶解、アイデンティティの決定不可能性を名指しているのだ。このシンプルな一文にはまた、西欧と植民地をめぐる権力関係とその転倒、そして両者のいびつな鏡像関係が書き込まれている。「あなたは私」という文は、植民地に対して同化・馴化を要請する命法であるとともに、優位的文化のコピーによってアイデンティティを内部から撹乱し書き替える「擬態」の戦略(ホミ・K・バーバ)でもある。そしてこのトリックが、「スペイン語圏以外の観客」に対してのみ有効に発動することを考えるとき、そこにはまた、字幕という補助装置に頼らざるを得ない「外国語の上演」「国際演劇祭」における翻訳の(不)可能性についての問いも横たわっている。
上:マヌエラ・インファンテ / テアトロ・デ・チレ「動物園」2014
(c)
Valentino Zald var
下:マヌエラ・インファンテ/テアトロ・デ・チレ「動物園」
Photo: Yoshikazu Inoue
2016/03/26(土)(高嶋慈)
ボリス・シャルマッツ / ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス「喰う」
会期:2016/03/26~2016/03/27
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇8本目。
ほぼ剥き出しで何もない舞台空間上に、13人のダンサーたちが点在する。年齢、性別、肌の色、体型もさまざまなダンサーたち。舞台と客席の垣根はなく、観客はダンサーと共有した空間内を自由に移動しながら、鑑賞する。原題の「manger」は「食べる」を意味し、「美術館の中でダンサーの身体を見せる」というコンセプトで始まった「ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス」の名前がクレジットされているように、本作は「食べる行為に没頭する人間の身体を見る」体験を軸としながら、さまざまな連想や思索を喚起させ、荘厳な美しさと挑発性をたたえた作品だった。
A4ほどの大きさの白い紙を手にして立つダンサーたち。彼らはおもむろに、紙の端から食べ始めたり、小さくちぎって口にしたり、くしゃくしゃに丸めて飲み込み始める。無心に食べ続ける者、吐き出した白い塊を何度も飲み込もうとする者、床に横たわったり座り込んで咀嚼する者……。動物のような鳴き声がどこかから聴こえる。憑りつかれたように、食べる行為を止めないダンサーたち。自分の手足を舐めたり、まくり上げた服を噛み始める者もいる。やがて彼らはトランス状態に陥ったかのように、目を閉じたまま手足を軽く揺らし、ハミングのような音を口から漏らし始める。その音は離れたダンサーどうしの間に伝播し、音の共振を生み、やがてオーガニックな歌唱のハーモニーを形成していく。
「食べる」「舐める」「吐く」、「歌う」、「声を出す」。内部への摂取と外部への表出。「口」のさまざまな運動に従事するダンサーたちは、孤独な行為と集団的な共振のあいだを行き来する。静かな時間と全体が活性化する時間。観客もまた、ダンサーの動きの動/静や時間の活性化の度合いに応じて、一カ所に留まった注視を迫られ、あるいは運動体としてかき混ぜられる。そこで目撃するのは、「何かを食べる」というシンプルな動作が引き起こす、身体の変容だ。食べることへの欲望と、それが度を越したときの不快感。もはや立ち上がれず、地べたを這うような鈍い動き。痙攣したような身体。忘我のトランス。ぶつかった身体どうしが折り重なり、激しい愛撫なのか相手を力で支配しようとする欲望なのか定かでないコンタクトを繰り広げる。特権的な中心が無いなか、ひとつの声が全体に波及し、共鳴し、哀悼を捧げるような聖歌のハーモニー、楽しげなポップソング、クラブで踊っているようなノリのダンス、それぞれの言語で口々に語りかける行為を発生させる。床に身を横たえながらも何かを語りかけ、白紙の紙を掲げる人は、デモの痛ましい犠牲者の姿に重なる。また、複数の声部が重なり合って、レクイエムのような合唱を響かせるシーンでは、自らの身体をかき抱くようなダンサーの身振り、すすり泣きのような声、暗めに落とされた照明効果とあいまって、感情的な強度が極限まで高まり、激しく感情を揺さぶられた。
食べることの快楽と嫌悪。宗教的恍惚感と、ビートにノったダンスやドラッグ摂取によるトランス。政治的抗議と犠牲者への哀悼。個人と集団。拒食症や過食症といった病。ダンサーたちが口にする「白紙」が抽象的な存在であるからこそ、宗教的な恍惚感、クラブや祝祭などの非日常的な空間、ドラッグの摂取によるトランス、デモの一体感などの、むしろ同質性こそが浮上して見えてくる。とりわけ、聖歌のような歌唱や、「食べる」儀式で共同体が形成されることには、西欧社会の根底にあるキリスト教への含意が強く感じられた。「血と肉」の共有、ビート音楽、覚醒物質、イデオロギー。摂取するものこそ違えど、体内に取り込むことで「一体感」を醸成するさまざまなものへの示唆が、「白紙」に込められている。そして、共鳴するハーモニーの美しさと、共鳴体の一部に取り込まれてしまうこと。ダンサーとの身体的な近さもあいまって、感情的な共振作用が非常に強いと同時に、「入退場不可」という密閉された空間の中、エモーショナルな空気の集団的感染力に自身の身をさらし、「観客」であることを手放させる危うい危険性もはらんだ作品でもある。私たちの身体と感情はそれほど脆く、集団的な伝播作用を受けやすいものであり、そこでは宗教的な恍惚、ドラッグやクラブで踊ることの快楽、政治的抗議、といった「正しさ」の判断や倫理はもはや関係ないのだ。
ただし最後に、本作が提起する問題のうち、「拒食症や過食症」と女性の身体についての疑問を記しておく。「食べること」への脅迫的な衝動や吐いては食べる動作の反復は、明らかに拒食症や過食症の問題を示し、「ダンサーの身体」へ向けられる社会的期待を露わにする。それが感取されやすいように、ガリガリに痩せた女性と、豊満な体型の女性の出演者が登場し、体型的なコントラストを形成していた。だが、そうした「出演者の選別の意図」は、一様に引き締まった体型の男性出演者には見られなかった。ここには、女性の身体と「美」や「健康」の基準をめぐる問題が、なお根深く横たわっている。
2016/03/26(土)(高嶋慈)