artscapeレビュー

2017年08月01日号のレビュー/プレビュー

書だ! 石川九楊展

会期:2017/07/05~2017/07/30

上野の森美術館[東京都]

書には興味ないが、以前作者の著書を読んで染みる部分があったので見に行く。70年代から40年以上にわたる書を展示。書といっても初期のころは、文字を線として書くというより、面として描いている感じ。それが後半になると、線の運動になり、波動になる。こうなると文字として読もうとしてもほとんど、あるいはまったく読めないし、かといって絵として見てもモノクロームの変わった絵でしかない(変わった絵ならいくらでもあるから)。じゃあつまらないかといえば、そんなことはない。むしろとてもおもしろかった。まさに文字でもなく絵でもない、線であり印であり記号であり地図であり、染みであり、にじみであり、かすれであり、ほとばしりであり、ノイズであり、宇宙であり……じつに豊かな視覚体験であった。
そういえば最近これに近い体験をしたなと思ったら、アドルフ・ヴェルフリをはじめとするアウトサイダー・アートだ。もちろん石川はアウトサイダーではない。アウトサイダーが作品に無自覚的なのに対して、石川は自覚的にアウトサイダーたらんとしているからだ。アウトサイダーはワンパターンだが、彼はどれだけ多くのパターンを紡ぎ出せるかに挑戦しているようにも思える。またアウトサイダーは画面の枠にそれほどこだわらないが、彼は画面にきっちり収める(そのための下絵や下書きはするのだろうか)。彼は計算ずくでアウトサイダーしようとしている。彼が書の世界でどのような立場にいるのか知らないけれど、書とか華とか茶とか伝統的な「道」の内圧が強ければ強いほど、弾ける力もハンパないのかもしれない。

2017/07/05(水)(村田真)

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澤崎賢一『動いている庭』

会期:2017/06/24~2017/07/07

第七藝術劇場[大阪府]

フランスの庭師、ジル・クレマンの「動いている庭」という思想を、彼の原点となった自宅の庭とともに紹介するドキュメンタリー映画。クレマンの庭師としての基本的姿勢は、植物や動物との共生、自然の変化、生物多様性を尊重することにある。例えば、生育の早い植物が道を塞ぎそうになったら、植物を引き抜く代わりに自分の歩く道を変える。大木が倒れた後の地面に一斉に種子が芽吹いたら、雑草として抜くのではなく、自然に生えた草をそのままにしておく。生物多様性を守るため、昆虫を殺虫剤で殺さない。自身の仕事は「引き算の手入れ」であり、「できるだけ合わせて、なるべく逆らわない」と語るクレマン。その結果、「庭」は毎年、姿もかたちも変え、年によって違う色の花が咲くと言う。「谷の庭」や「野原」と名付けられた広大な庭は、管理された「庭」というより、雑木林や草原のようだ。映画は主に、自宅の庭を案内しながら語る姿、日本での講演の様子、そして日本での滞在時のシーンが交互に展開して構成されている。
ただし、監督自身が記しているように、クレマンの「庭」を訪れて撮影したのは、8月中旬のわずか1日半ほどの滞在だった。映画タイトルからは、「季節ごと、数年のスパンで『動いていく』庭の動態的な姿」を定点観測的に記録したのかと期待したが、そうではなかったのが惜しまれる。むしろカメラが捉えるのは、自身の庭で、日本での講演で、「動いている庭」という哲学を言葉で語るクレマンの姿だ。また、日本での滞在では、庭園史研究者や京都の寺院の庭師らとも交流するが、どちらかと言えばオフショット的な扱いに寄りがちで、互いの自然観や「庭」の文化史の相違や共通点について、もっと突っ込んだ議論があれば、とも思う。
それでも、冒頭と終盤近くに長回しで撮影された、庭で淡々と手入れを行なうクレマンの、身体に染み込んだ一連の所作は流れるようで美しい。小雨が降る中、空気に漂う湿り気やみずみずしい植物の匂いも感じられるようだ。なお、クレマンの思想をより知るためには、映画にも登場した庭師・庭園史研究者である山内朋樹の訳による『動いている庭』がみすず書房から出版されている。
公式サイト:http://garden-in-movement.com

2017/07/06(木)(高嶋慈)

沖潤子 月と蛹

会期:2017/06/30~2017/07/23

資生堂ギャラリー[東京都]

古布に微細な刺繍を施す作品で知られる沖潤子の個展。ステッチの間隔を見出すことができないほど細かい刺繍は、「接合」や「装飾」という意味を超えて、独特の造形物を生んでいる。本展では、それらの造形物を白いフレームで囲ったうえで天井から吊るして見せた。ほかに、刺繍に用いた針や映像作品なども展示された。
丸みを帯びた形体と床に落ちた影。タイトルに示されているように、そこから月と蛹のイメージを連想することはたやすい。だが、沖の刺繍作品は月や蛹を具象的に再現したわけではあるまい。具象的に見るならば、それらは日の丸のようにも見えるし、機能形態的に見れば、帽子のような作品も含まれているからだ。月と蛹は、再現的なイメージの起源ではなく、おそらく何かの暗喩なのだろう。
空中をたゆたうような刺繍を見ていると、独特の時間感覚を感じずにはいられない。その浮遊感が浮き世離れした時間性を垣間見せるだけではない。刺繍という身ぶりが、それに費やされた果てしない時間の厚みを見る者の脳裏に刻みつけるのだ。狂気と言えば、そうなのかもしれない。だが、会場で実感するのは、むしろ何物にも取り乱されることのない、じつに静謐な時間の流れである。
透明度の高い時間──。それこそが再生ないしは変身の比喩である月と蛹が暗喩するイメージではなかったか。眩しい太陽や華々しい蝶を見せたがるアーティストや、それらを見たがる鑑賞者が多勢を占める姦しい時代にあって、純度の高い時間とともに、その原型を静かに想像させるところに沖潤子の真骨頂がある。

2017/07/06(木)(福住廉)

ロジェ×束芋

会期:2017/07/05~2017/07/06

浜離宮朝日ホール[東京都]

フランスの印象主義音楽+吉松隆を弾く背景で、束芋らしいアニメーションが投影される。手描きをベースにしたややおどろおどろしい映像ゆえに、2人の世界の相性がよいというよりも、むしろ不思議な東西の組み合わせと言うべきか。またプロジェクションされた大きな映像の効果を際立たせるために、クラシックの演奏会ではありえない暗闇に近い状態で音楽を体験したのが印象的だった。

2017/07/06(木)(五十嵐太郎)

千光士誠 母展

会期:2017/07/04~2017/07/09

ワイアートギャラリー[大阪府]

老齢の着物姿の母を、ハイライトを強調して描いた具象の肖像画。そのストレートさ、光と闇が交錯する劇的な構成が印象的だった。千光士の作品は2006年から2012年頃にかけて個展やグループ展で見ていたが、当時は墨を用いたダイナミックなドローイングで、本展の作品とは全然違っていた。また近年の彼は、一対一で対象と向き合う肖像画のプロジェクトを行なっており、ギャラリーで見る機会がなかったため、動向を掴めていなかった。久しぶりに再会した千光士は相変わらず精力的で、確信をもって自分が成すべきことに邁進していた。画風が変化したと言っても、彼のテーマは最初から「人間」であり、その意味では一貫した活動を続けているのだ。今後の活動予定については聞かなかったが、一対一のプロジェクトをまとめて発表する機会があれば面白いのではないか。もちろんほかの作品でも良いので、今後も展覧会活動を続けてほしい。

2017/07/06(木)(小吹隆文)

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