artscapeレビュー
2020年02月01日号のレビュー/プレビュー
ダ・ヴィンチ没後500年 「夢の実現」展
会期:2020/01/05~2020/01/26
代官山ヒルサイドフォーラム[東京都]
昨年はレオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年。パリのルーヴル美術館では史上最大規模の回顧展が開催中だが、ストの影響で見られない日もあったそうで、それがニュースになるくらい話題の展覧会なのだ。パリとは比ぶべくもないものの、東京でも「没後500年展」が開かれた。主催は東京造形大学。絵画、彫刻、デザイン、映像など各専攻の先生と生徒たちが協力して、1人の万能の天才に迫ろうというのだ。
同展の見どころは、未完成を含めてレオナルドの絵画作品全16点が展示されること。しかも劣化したり後に修復された作品はオリジナルに近づけ、未完成作品はちゃんと完成させて見せるというから、親切というか余計なお世話というか。もちろんホンモノは1点もないばかりか、絵の具と筆による複製もなく、すべてヴァーチュアル復元。フェルメールの「リ・クリエイト」といい、大塚国際美術館といい、日本人はオリジナルより「復元」のほうが得意かもしれない。
展示は、ほぼ原寸大に復元した図の隣に小さな原図も並べているのでわかりやすい。例えば初期の《受胎告知》や晩年の《聖アンナと聖母子》などは、もともとオリジナルの姿をとどめているので問題ないが、《ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)》の復元図になると、空はあくまで青く、お肌はつるつるに若返って、なんだか薄っぺらく感じられる。下描き段階で終わった《聖ヒエロニムス》や《東方三博士(マギ)の礼拝》にいたっては、「ウソだろ!」「レオナルドってこんなにヘタだったか?」とツッコミたくなるほど違和感満載なのだ。
なぜこんなに違和感を覚えるのか。未完成作品を見慣れてしまっているせいもあるかもしれないが、やっぱり復元する側の知識と技術が追いつかなかったからではないか。いくら専門家が集まっても、一人の超絶的天才にはかなわないということだ。いやむしろ寄ってたかってイジるほど芸術作品としては陳腐で凡庸なものになっていく。もうひとつは、ヴァーチュアル技術の限界だ。いくら忠実に復元したところで、紙にインクを載せて出力されるので、どうしても浮いた感じになってしまう。これを油彩画やテンペラ画で再現すればもう少し違っていたはずだが、そのためにはまた相当な技術が必要とされるだろう。正確に復元しようとすればするほど違和感が増し、レオナルドに近づこうと思えば思うほど遠ざかる感じ……。
ほかにも、絵具の剥落の激しい壁画《最後の晩餐》を修復して壁に投影したり、計画だけで終わった伝説の《スフォルツァ騎馬像》を縮小復元したり、スケッチが残されていた「集中式聖堂」や「大墳墓計画」を立体化したり。無謀な試みに挑戦したことはホメてあげたい。
公式サイト:http://leonardo500.jp/
2020/01/08(水)(村田真)
保科豊巳退任記念展「萃点」SUI-TEN
会期:2020/01/07~2020/01/19
東京藝術大学大学美術館[東京都]
母校の東京藝大で4半世紀にわたって後進の指導に当たり、美術学部長まで務めた保科豊巳の退任記念展。タイトルの「萃点」とは南方熊楠の造語らしく、さまざまな物事が集まる地点、交差点といった意味だそうだ。遠くからパッと見たら「笑点」かと思った(笑)。
作家としての保科は、1980年代初頭、湾曲させた数本の細い角材を交差させて壁と床に止め、上から覆うように和紙を貼った緊張感のあるインスタレーションでデビュー。展覧会でもメディアでも藝大で同級だった川俣正としばしばライバル視され(ぼく自身よく一緒にメディアで紹介した)、1982年には川俣がヴェネツィア・ビエンナーレに選ばれたのに対し、保科はパリ・ビエンナーレに出品するなど、競い合っていた。ぼくの見るところ、作品も言動も「剛」の川俣に対し、保科はよくも悪くも「柔」という印象があリ、どこかつかみどころがなかった。ま、そこがおもしろかったんだけど。
しかし80年代後半から川俣が海外に活動の場を広げていくのと対照的に、保科の活動は減速。カタログの展覧会歴(抜粋)を見ると、80年代には毎年4本くらい発表していたのに、90年代には年に1本程度に減っている。その原因のひとつが教員生活だ。日本では制作活動だけでは食えないから、大半の作家は教職を兼ねる。でも、いちど教育現場に携わると、雑務に追われて制作どころでなくなり、作家活動を止めざるをえなくなる。特に根がマジメな人間ほど教職にのめり込みがちだ。その点、保科は「柔」だからうまいこと乗り切るんじゃないかと思っていたが、後輩の齋藤芽生がカタログに書いた「ご挨拶に代えて」を読む限り、意外とマジメに仕事していたらしい。本当かなあ? でも学部長まで上りつめたんだから本当だろう。
横道にそれた。展示は最初期のパフォーマンスの記録写真から、パリ・ビエンナーレの出品作の再現、屋外インスタレーションの記録写真、スケッチやドローイング、最近の井戸や家型の作品までバリエーションに富んでいる。が、なんか物足りない。それは彼の作品の大半がインスタレーションなので現物が残っておらず、おまけに近年は地方や韓国、中国など海外での発表が多いため、ぼく自身が見ていないせいかもしれないが、それにしても物足りないなあ。ようやく宮仕えを終えて自由の身になったんだから、これからに期待したい。
2020/01/11(土)(村田真)
シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢
幻想建築の系譜で語られ、シュルレアリスムの文脈で賞賛され、アウトサイダー・アートの先駆にも位置づけられる、郵便配達夫シュヴァルの理想宮。たった1人で、33年の歳月をかけて完成させた奇想の宮殿の誕生秘話をドラマチックに描いた映画。
南仏の小村で郵便配達をしていた寡黙な偏屈親父シュヴァルが、途方もない宮殿建設を始めたのは、後妻のあいだに娘が生まれて間もない40歳を過ぎたころ。配達の途中で石につまづいて倒れたのがきっかけで、石を集め始めた。以後、毎日30キロ以上を歩く配達の仕事が終わってから、さらに数キロ歩いて石を拾っては積み上げ、奇想天外、前代未聞の建物を営々と築いていく。もちろん建築の知識などあろうはずもなく、雑誌や絵葉書で見た世界中の建築を想像でつなぎ合わせ、野山を歩くなかで培った自然の力にゆだねてつくり上げていったのだ。村人には変人扱いされたが意に介さず、憑かれたように没頭した。ここらへんがアウトサイダー・アートたるゆえんだ。
溺愛していた娘が若くして亡くなり深く悲しむが、代わりに前妻とのあいだにもうけた息子が大人になって訪ねてきて、一家で近くに住み始める。このころから“宮殿”は徐々に知られるようになり、シュヴァルを変人扱いしていた村人の態度も軟化。しかし、宮殿が完成するころ息子が亡くなり、やがて後妻にも先立たれてしまう。シュヴァルはさらに長生きして家族の墓廟をつくり、88歳の長寿をまっとうした。
映画は事実に基づいているものの、脚色も多い。例えば、シュヴァルは愛娘のために「宮殿」を建てたように描かれているが、果たしてそうだろうか。また、前半ではシュヴァルが奇人変人として描かれているのに、後半では家族に愛され、村人に尊敬される好々爺に収まってしまったことにも違和感を覚える。シュヴァルはそんな小さなコミュニティに収まるような器ではないだろう。娘がどうなろうが、村民にどう思われようがどこ吹く風、ひたすらつくり続けただろうし、最後まで偏屈・変人だったと思いたい。そうでなければあんな夢(悪夢?)のような宮殿はつくれないはずだ。希代の偉業を陳腐な美談に仕立ててしまったのがちょっと残念。
公式サイト:https://cheval-movie.com/
2020/01/13(月)(村田真)
KAAT DANCE SERIES2019『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』
会期:2020/01/10~2020/01/19
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]
如月小春の戯曲『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』が描くのは敗戦からおよそ20年、東京オリンピックを直前に控えた日本。初演されたのは五輪から24年後の1988年、バブル崩壊前夜のことだった。周囲の期待を背負いマラソン日本代表への道をひた走るカズオ。だが、代表選考がかかったレースの直前に足を捻ってしまう。それを隠したままトレーニングを続けた結果、足は悪化。ついにコーチにも気づかれてしまうが、カズオはそれでもレースに出ると言うのだった。そしてレース当日──。
戦争、オリンピック、バブル、そして再びのオリンピック。歴史は繰り返すという言葉があるが、「戯曲を上演する」という演劇の形式のひとつの意義はここにあるだろう。込められたアイロニーは痛烈だ。
ヨシダ、キシ、タナカ、ミキ。登場人物の名前は歴代総理大臣からとられている。周囲の期待に応えようとして果たせず、そして消えてしまったカズオは犠牲者だったのだろうか。カズオはこう言っていた。「皆、お膳を囲みながら思ってるんだ。もっと大きなお膳が欲しい、もっと大きなお皿が欲しい、大きな冷蔵庫が、洗濯機が、風呂が、(略)そんな皆の熱い想いが、電波に乗って俺の中に入り込むのがわかる。(略)皆が俺に望んでいるんだよ」。あるいは「僕は皆の夢なんだ。夢は無理矢理さまされるまで、見続けなくちゃいけない。(略)僕は日本だ。日本そのものなんだ」と。レースの対抗馬はニクソン、シュミット、カストロ、モウ、シュウたちだ。国を背負って立とうとしたカズオは、同時に擬人化された国そのものの姿でもある。小さな個人と国とに分裂した登場人物たちは歌う。
「なーんでもない どーうでもいい そーんな気分になっちゃうよ(略)ぼくら けなげな 小市民 胸のここには せつない願い 消費生活 楽しくやろうぜ 小さな脳ミソ キリキリ絞って そのうちいいこと 何かあるだろ(略)NIPPON・CHA! CHA! CHA!」
同じくKAATの企画で2019年6月に昭和・平成ver.、令和ver.とふたつのバージョンが上演された多田淳之介演出『ゴドーを待ちながら』(作:サミュエル・ベケット)を思い出す。キャッチコピーは「男たちはいつから待っていたのか。そして、これからも待ち続けるのか」。二幕構成の『ゴドー』は一幕二幕とほとんど同じことを繰り返す。その繰り返しをさらに昭和・平成/令和へと拡張すること。そこには変化は待つものではなくもたらすものではないかという問いかけがあった。「そのうちいいこと 何かあるだろ」。
結局、カズオはレースの最中、失踪してしまう。夢想として挿入される未来において、カズオの存在はほとんど忘れられ、しかし人々は豊かな暮らしを送っているようだ。回顧されるべき過去は忘れられ、ときに捏造される。それは同時にまぎれもない「現在」のことでもある。加害者としても被害者としても無自覚な、能天気な人々。我が身の情けなさに涙が出た。
今回の山田うん演出版では、演劇版に続いてダンス版が上演された。演劇版の途中に10分の休憩はあったものの、それは文字通りに続けて上演される。演劇版のラスト、カズオがひとり亡霊のように立ち尽くす場面は、彼がふらりと動き出すことによってそのままダンス版のオープニングとなる。歴史は繰り返す。
ダンス版に言葉はなく、構成も戯曲をそのまま「再現」しているわけではなさそうだ。ところどころに見覚えのある場面がある気がするものの、意味内容を正確に汲み取るのは難しい。それでも、演劇版をすでに見ている私は、目の前の動きを物語と結びつけようとする。ダンサーの存在は、その運動は否応なく物語に巻き込まれていく。カズオという存在が、オリンピックにおけるスポーツがそうであるように。
しかし同時に、ダンスは純粋な運動の喜びでもある。演劇版から引き続き主役を演じ舞台上を伸び伸びと動き回る前田旺志郎からは開放感にも似た心地よさを感じた。そこに物語からの解放を重ねて見るのは、それこそひとつの物語に過ぎないだろうか。だがそれこそが、如月のアイロニーに対する山田からのド直球の返答のように思えたのだった。
公式サイト:https://www.kaat.jp/d/chachacha
2020/01/19(日)(山﨑健太)
百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」
会期:2019/12/07~2020/01/18
EFAG East Factory Art Gallery[東京都]
百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」は三つの映像作品で構成されていた。《Jokanaan》は二面スクリーンの作品で、一面にはシュトラウスのオペラ「サロメ」の一場面を踊る男性ダンサー(武本拓也)が、もう一面にはモーションキャプチャーで男性ダンサーと同じように踊るCGの(陶器像のようなテクスチャーの)少女が映し出される。だが、両者の動きは次第に乖離していき、サロメというモチーフも相まって、虚構の存在であるはずの少女が場を支配していくかのようである。
興味深かったのは、両者の体の動きが次第に乖離していくのに対して、顔の表情は最初から一致していなかった点だ。顔の表情をトレースしてCGに反映する技術も存在するが、今回のモーションキャプチャーは体の動きだけを対象としていて、顔の表情はその範囲外だった。するとあの場を支配していたのは男でも少女でもなく振付だったのだと言ってみたくなる。外部からの指示によって動かされる体と、その動きが呼び起こす情動。顔は唯一許された自由の場だ。曲が終わりに近づくと少女は操り人形のように奇妙に捻れながら崩れ落ち、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てた男もまた床に横たわる。振付が尽きたとき、二人には動くためのモチーベーションは残されていない。
《Social Dance》はろうの女性とその恋人である男性の手話による対話を映した作品。彼女は恋人の過去の言動を責め、男は彼女をなだめようとしながらもときに強い調子で反論する。激昂する彼女の手を男が取るとき、「愛」と暴力は一体のものとなる。親密な接触が言葉を奪う。
ところで、残念ながら私は手話を解さない。二人のやりとりの内容は画面中央に映し出される日本語と英語の字幕によってしか知ることができない。だが例えば「だって私が介入すると/You got angry」で彼女の言葉が遮られたとき、彼女の手話は日本語英語どちらの内容に対応していたのだろうか。言葉はすぐに再開され、文全体としては日本語と英語とで意味の違いはないことがわかる。しかし彼女は「私が介入すると」と「あなたは怒る」のどちらを先に伝えていたのか。日本語で示されていた「私が介入すると」の方だろうとなんとなく思ってしまうのだが(しかも日本語字幕は英語字幕の上に表示されている)、映像では彼女の頭部はフレームアウトしており、外見から話している言語を推測することはできない(いや、そんなことはそもそも不可能なのだが)。作品に英語タイトルが付されていることから考えれば、むしろ英語の方が主なのだと考えるのが妥当かもしれない。あるいは彼女はまったく別のことを話していて、そもそも二人は喧嘩などしていないという可能性もある。
《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》はカメラ=鑑賞者の方を向いた女性がひたすらにまばたきをし続ける作品。女性は初めのうちは落ち着いた様子でゆっくりとまばたきしているが、7分弱の映像のなかでだんだんと顔は歪み、その調子は激しい(あるいは苦痛に満ちた?)ものになっていく。まばたきはモールス信号でI can see youと発しているらしいのだが、手話と同じくモールス信号も解さない私がそれを知っているのは、会場で配布されていたハンドアウトにキュレーターによるそのような記述があったからでしかない。だが、I can see youというメッセージは誰から誰へと向けられたものなのか。それが作品のタイトルにもなっていることを考えれば、画面に映る彼女から鑑賞者へと向けられたメッセージだろうか。だが、彼女から鑑賞者が見えるわけもなく、すると「私にはあなたが見えます」という言葉は端的に嘘になってしまう。作品鑑賞の場において「私にはあなたが見えます」という言葉が正しく成立するのはそれが鑑賞者から彼女に向けられたときだけだ。だが、それは本当だろうか。彼女は確かに見えている。しかし「解説」を読んだ私は彼女の「モールス信号」を自ら解読する努力を放棄してしまった。いや、そもそもあれは本当にモールス信号だったのか。私は本当に彼女を見ていたか。タイトルの裏に潜んだDo you see me?という問いかけは展示全体へと敷衍される。
公式サイト:http://ayamomose.com/icanseeyou/?ja
2020/01/20(月)(山﨑健太)