artscapeレビュー
2020年02月01日号のレビュー/プレビュー
安村崇「態態」
会期:2019/12/01~2020/01/19
MISAKO & ROSEN[東京都]
安村崇は「その事物が写真としてどう現われるのか」、つまり写真の画面上での「見え方」にこだわって作品を制作し続けてきた。その禁欲的ともいうべき営みは、今回のMISAKO & ROSENでの個展「態態」で、ひとつの結節点を迎えたようだ。
彼のデビュー作である『日常らしさ』(オシリス、2005)を知る者は、今回の展示を見て懐かしさを覚えるのではないだろうか。革靴や靴下や酒の徳利などをクローズアップで撮影した何枚かは、日常の事物がどこか偽物っぽく見えてくるあり方を追求した『日常らしさ』に通じるものがあるからだ。出品作には、公共施設の建造物の一部を切り取って、画面上に等身大に再現した『1/1』(オシリス、2017)と共通性を感じるものもある。つまり、安村は旧作の2作品の「間」に狙いを定めているということだろう。とはいえ、中途半端な折衷ではなく、そこには新たな「見え方」を意欲的に模索していこうという姿勢がはっきりとあらわれていた。
はじめて挑戦したという映像作品もとても興味深い。映像作品でも被写体はほぼ同じで、見慣れた日常の事物を縦、あるいは横にスクロールして捉えている。つまり観客は、対象物の一部しか見ることができないわけで、スクロールしていくと、次第にその眺めが変わり、違う「見え方」があらわれてくる。その画角、構図、スクロールの速度の選択が的確かつ絶妙で、見慣れた被写体が、奇妙な異物に見えてくることに驚かされた。今後は静止画像と動画をより複雑に組み合わせた、インスタレーション的な展示も考えられるのではないだろうか。次の展開が楽しみだ。
2019/12/21(土)(飯沢耕太郎)
笹岡啓子「PARK CITY」
会期:2019/12/06~2019/12/26
笹岡啓子が「PARK CITY」のシリーズを撮影しはじめたのは2001年、photographers’ galleryで最初に同シリーズを展示したのが2004年だから、すでにかなりの時間が経過している。そのあいだに東日本大震災の被災地を撮影した「Difference 3.11」(2012〜)や海岸線をモチーフに「地続きの海」の景観を探る「SHORELINE」(2015〜)など、いくつかのシリーズを発表しているので、この作品だけに集中してきたわけではない。だが、これだけ長く続くと、その時間の厚みをどのように新作に組み込んでいくかが、大きな課題として浮上してくるのは当然だろう。
笹岡は2009年に写真集『PARK CITY』(インスクリプト)を刊行している。そのときは、6×6判のモノクロームフィルムで撮影した写真を集成していた。それと比較すると、今回の展示ではよりヴァリエーションが増えてきている。カラー写真が中心になり、ネガの状態に色を反転してプリントした作品もあった。笹岡の出身地でもある広島の平和記念公園を中心とした地域を、傍観者的な距離感で撮影していく、被写体の選択の方向性に大きな変化はない。だが、以前の冷静なアプローチとは異質な、どこか感情的な要素を強調した写真が目につくようにも感じた。
このシリーズが、今後どのように展開していくのかはまだよくわからない。笹岡自身にも迷いがあるのではないだろうか。この時期を抜けることで、これまで撮影してきた広島平和記念資料館の展示物の観客たちや、慰霊のために川の周辺に群れ集う人々などの諸要素が、よりくっきりと構造化されてくることを期待したい。なお本作品の一部は、同時期に刊行された『photographers’ gallery press no.14』にも掲載されている。
関連レビュー
笹岡啓子「PARK CITY」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年07月15日号)
笹岡啓子「PARK CITY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)
笹岡啓子「PARK CITY」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)
笹岡啓子『PARK CITY』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2010年03月15日号)
2019/12/25(水)(飯沢耕太郎)
心ある機械たち again
会期:2019/12/28~2020/02/02
BankART Station+BankART SILK[神奈川県]
2008年に開かれた「心ある機械たち」の続編。機械といってもハイスペックなITやAIとは無縁の、どちらかといえばローテクで、思わず笑ってしまうユーモラスな動きを見せ、突拍子もない音を奏でる、なんの役にも立たない愛すべき機械たちだ。
役に立たない機械といえば、やっぱり牛島達治だ。今回も役立たずの意味不明な作品をいくつか出している。《まっすぐなキュウリたちの午後(競争)》というタイトルからして意味不明の作品は、細長いサーキット上をモニター搭載の2台の貨車が追いかけっこをする装置。なにが目的なのかさっぱりわからないが、そのモニターに映し出されるのは、隣にある《まっすぐなキュウリたちの午後(砂の街)》という対作品に仕掛けたカメラの映像だ。こちらの作品は、西洋風の街のミニチュアを回転させ、その上からレール上を往復する貨車が砂をかけるという、これまたワケのわからない機械。考えるだけ無駄なようだ。
西原尚もレールを敷いて2台の車を往復させる《まじめなキカイ》を出している。こちらは太鼓代わりのドラム缶とノイズを発するスピーカを載せて、調子はずれのアジテーションを奏でながらゆっくり進む。レトロな味わいのあるポンコツ機械だ。武藤勇の《不測の事態》は、台座の上に小さなベルトコンベアを載せた作品で、ボタンを押すと作動する仕掛け。手前には壷や皿やハニワなどが台座の上に置かれ、床には陶器の破片が散らばっているので、誰かが陶器を載せてボタンを押したに違いない。
器といえば、今村源の《まわってアルコト・ウツワ》は、パッと見お椀が置いてあるだけ。でもよく見ると高速回転していることに気づく、後日もういちど見に行ったらお椀がブレて、回転しているのがバレバレだった。機械はメンテナンスが必要だから大変だ。回転といえば、タムラサトルも《回転する3頭のシカ(前)》と《回転する3頭のシカ(後)》を出品。シカの上半身3頭分と下半身3頭分を型どって青く塗り、それぞれ放射状につなげて回転させるのだが、なぜシカが3頭なのか、なぜ前後で分かれているのか、ナゾだ。例えば、上半身が馬で下半身が鹿なら「3馬鹿大将」でわかりやすいが、アーティストはそんな安易な発想はしない。
もう1人、回すのが好きなのが片岡純也だ。カフェのカウンターに置かれた《Coffee cup》は、一見ただのコーヒーカップだが、中をのぞくと、なんとコーヒーが渦を巻いているではないか! カウンターの下から機械で回しているのだが、思わずミルクを注ぎたくなる。《ソファーの足を回る電球》は、文字どおりソファの脚の周囲を電球がクルクル回転しているし、《回る時計・進まない秒針》は、掛け時計の秒針だけ天を指したまま止まり、時計本体を回転させている。時計・秒針といえば、三浦かおりの《秒の音》は、秒針だけの時計を60個ずらりと並べたもの。針の先に小さな鈴をつけているのでシャラシャラかまびすしい。このように同展は、作者を超えて作品同士が共鳴し合っているのが特徴だ。
三浦はほかにも、本を細かく刻んで箱に入れ、文字(の書かれた紙片)を撹拌する二つの作品、《うごめく》と《機微―百科事典13巻/subtleties-encyclopedia vol.13》を出品。たしか、夜中に本の文字が混ざり合い、意味を失ってしまうんじゃないかと心配した文学者がいたが、この作品は文字を分子に見立ててシャッフルし、意味のない混沌スープに仕立て上げた優れものだ。
2019/12/27(金)(村田真)
坂田一男 捲土重来
会期:2019/12/7~2020/01/26
東京ステーションギャラリー[東京都]
坂田一男というと、たしか日本のキュビスムの第一人者で、作品もその文脈で何点か見たことがあるだけだった。そんな画家の回顧展なのでスルーしかけたが、監修に岡﨑乾二郎の名前があるので見に行くことにした。たぶんそういう人は多いと思う。はっきり言って坂田一男の名前だけじゃ入らないでしょ。そして展覧会も坂田の作品を見るというより、岡﨑の解説を読みに行ったようなもんだった。
坂田一男は1921年に渡仏。レジェに師事し、オザンファンらキュビスム周辺の画家たちと交流し、1933年に帰国。以後、第2次大戦を挟んで、地元岡山でキュビスムを発展させた抽象絵画を追求し続けた。作品を見る限り、レジェやコルビュジエらの影響に始まり、抽象的な画面構成のなかに壷や鯉のぼり、シリンダーみたいなものを描いたりしているのが目を引くが、特に色彩が美しいわけでもないし、仕上げも粗く、けっしておもしろいものではない。だが、岡﨑に言わせれば、坂田は帰国後もブレることなくキュビスム以降の西洋絵画の核心に迫ることができた、日本では例外的存在ということになる。
例えば、師匠のレジェが対象を図として描き、背景を余白として残したのに対し、坂田は地(背景)も図(対象)も等価に描こうとしたとか。あるいは、画面に好んで描いた壷や鯉のぼりやシリンダーは、内部に別の空間を宿しており、それを描くことによって画面を重層化し、絵画に厚みをもたせることができたとか。さらには、洪水により作品の一部がダメージを受けたとき、絵具の剥落やその修復も創作行為に採り込んで、絵画における時間性を攪乱しようとしたとか……。なるほど、そういわれれば納得するし、大いに共感もするのだが、しかしそういわれて作品を見直したところで、多少よく見えるようになったとしても、やっぱり感激するほどの絵ではないよなあ。
タイトルの「捲土重来」とは、忘れられた画家の作品を読み直して再評価するといった意味だろうが、果たして坂田が生きていたら、岡﨑の解説をどのように読んだだろう。よくぞ読み解いてくれたと感激するか、誰の絵の話? と訝しむか。余談だが、友人の画家は展覧会を見て、自分の作品も50年後、100年後に新たな視点で再評価してくれる人がいるだろうか、いや、いることを信じて描いている。なぜなら絵画は時空を超えた人たちと対話できるメディアだから、と述べていた。岡﨑は迷える画家に希望をもたらす伝道師かもしれない。
2020/01/05(日)(村田真)
ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター
会期:2020/01/09~2020/03/08
Bunkamura ザ・ミュージアム[東京都]
2017年にBunkamura ザ・ミュージアムで開催された「ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター」展は、観客数が8万人を超えるという、写真展としては異例の大ヒットとなった。それまで日本ではほぼ知られていなかった彼の名前が、大きくクローズアップされるとともに、その写真の魅力が多くの人たちに伝わったのではないかと思う。それから3年、ソール・ライターの展覧会がふたたび同会場で開催された。今回の展示でも、彼の代表作といえる、ニューヨークの日常的な場面を撮影したスナップショットが中心となっている。だが、出品点数が増えただけでなく、初期のモノクローム作品、セルフポートレートや近親者を撮影したポートレートがまとめて展示されるなど、さらにスケールアップした展覧会になっていた。遺された8万点以上というカラーポジから選んだ作品によるスライド・ショーも見応えがあった。
特に注目したのは、妹のデボラと、後半生をともに過ごしたソームズ・バントリーのポートレートのパートである。2歳違いの妹のデボラは、兄のよき理解者だったが、20代で精神を病み、2007年に亡くなるまで施設で過ごすことになる。ライターは彼女の繊細な表情と身振りを、愛情を込めて、壊れ物を扱うように注意深く撮影している。ファッションモデルとして彼の前に登場したソームズは、最高のミューズだった。ライターは彼女の姿を、ときには少女のように、ときには妖艶に、さまざまな視点から撮影した。そこには彼の人間観察力と、写真撮影への飽くなき情熱が見事に発揮されている。
この二つのシリーズが加わることで、やや距離を置いてかすめとるように撮影したニューヨークの情景と、身近な他者に向けた親密な眼差しという、ソール・ライターの二面的な写真の世界が浮かび上がってきた。ソール・ライター財団の献身的な調査にもかかわらず、まだ数万点以上にのぼる未整理作品が残っているのだという。また違った角度から、彼の写真展を見る機会もあるのではないだろうか。
関連レビュー
ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年05月15日号)
2020/01/08(水)(飯沢耕太郎)