artscapeレビュー

2020年02月01日号のレビュー/プレビュー

安楽寺えみ『Balloon Position』

発行所:赤々舎

発行日:2019年9月7日

何ともとらえどころがない本である。25.7×36.4センチメートル(B4変型)という、かなり横長の判型の208ページの作品集には、モノクロームの写真がぎっしりと詰め込まれている。タイトルにもなっている「Balloon」、あるいは黒と白のドット(球体)がたびたび登場するが、それ以外は身体の一部、風景、モノなど、とりとめがないとしか言いようがない内容だ。とはいえ、ページをめくっていくと奇妙な浮遊感、トリップ感が生じてくる。あらゆる事物が流動化し、溶解していく世界をあてもなくさまよっている気分というべきだろうか。どこに連れていかれるかはわからないが、不安感よりはむしろ陶酔の感覚が強まってくる。そしてその感覚は、どこか懐かしさをともなっている。

本書は、安楽寺えみが20年前に制作した「幻の手製本」をもとにしている。20年前といえば、安楽寺がデビュー写真集『HMMT?』(スタジオワープ、2005)を刊行する以前のことで、長い闘病生活から回復して、写真作品を本格的に制作し始めた頃である。安楽寺はその時期に、ザラ紙にプリントした写真を束ねた手製本をいくつか試作していて、この『Balloon Position』もその中の一冊である。つまり、彼女が写真というメディアを通じて、世界をどう見ていたのか、捕獲したイメージをどのように組織していこうとしていたのか、その初心がここにはくっきりとあらわれているということだ。

安楽寺は、その後アメリカのNazraeli Pressから『Emi Anrakuji』(2006)、『Ipy』(2008)など、性的なオブセッションをより強く打ち出した写真集を刊行し、より高度な構想力を発揮するようになっていく。この復刻された「幻の手製本」にうごめきつつかたちをとっている、彼女の作品世界の原型は、まだナイーブで荒々しいが、それはそれでとても魅力的だ。

2019/12/09(月)(飯沢耕太郎)

ホンマタカシ『Symphony その森の子供』

発行所:Case Publishing

発行日:2019年11月

ホンマタカシは2011年に福島の森のきのこを撮影した。2012年には東京・代々木のBlind Galleryで「その森の子供」と題する個展を開催し、同名の写真集も刊行している。同作品は2015年4月〜7月にボストン美術館で開催された「In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3/11」展にも出品された。今回、Case Publishingから出版された『Symphony その森の子供』は、その完成版といえる。同書には福島に加えて、スカンジナビア、チェルノブイリ、ストーニーポイントで撮影されたきのこの写真がおさめられていた。

スカンジナビア(スウェーデン、フィンランド)と、チェルノブイリ(旧ソ連、現在はウクライナ)で撮影されたきのこの写真は、福島のそれとつながっている。2011年の東日本大震災直後の津波による福島第一原子力発電所の大事故、1986年のチェルノブイリ原子力発電所4号機の爆発事故によって放出した放射性物質が、森のきのこたちに吸収・蓄積され、摂取規制が長く続いてきたからだ。チェルノブイリからかなり離れたスカンジナビアでも、爆発事故後に、風の影響によって放射性物質が集中してふりそそいだのだという。

写真集の最後のパートにおさめられた、アメリカ・ニューヨーク郊外のストーニーポイントのきのこたちは、やや違った意味を持っている。現代音楽家のジョン・ケージは、1954年にストーニーポイントに移り住んだ。ケージは同地の野生のきのこたちに魅せられて、その研究を開始する。ケージはのちにニューヨーク菌類学会の創設者のひとりとなり、「きのこ狂」として知られるようになる。きのこの持つ魔術性、偶有性、多様性はケージの音楽活動にも多大な影響をもたらした。ストーニーポイントは、それゆえ、世界中のきのこ愛好家(マイコフィリア)にとって、聖地というべき場所となった。

この4つの土地を巡礼のように彷徨うことで、『その森の子供』は、さらにふくらみを増し、きのこの世界の豊かさを、静かだが力強いメッセージで歌い上げる作品に成長した。森で採取したきのこたちを、その場で白い紙の上にそっと載せて撮影した写真と、それぞれの森のたたずまいを、やや引いたアングルで押さえた写真とを組み合わせる写真集の構成もとてもうまくいっている。ホンマタカシの写真家としての美点が、最大限に発揮された作品といえるだろう。

関連レビュー

ホンマタカシ「その森の子供 mushrooms from the forest 2011」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2012年02月15日号)

2019/12/10(火)(飯沢耕太郎)

小林紀晴 写真展 孵化する夜の啼き声

会期:2019/12/11~2019/12/24

銀座ニコンサロン[東京都]

小林紀晴は、このところ、日本各地の祭事や祭礼を撮り続けている。じつは、小林と同世代、あるいは彼よりやや若い写真家たちのなかで、同じような題材を選ぶ者がかなり多い。それらの写真を見るたびに、なぜ祭事や祭礼なのかという疑問を覚えることがよくある。民俗学をバックグラウンドとして祭事を撮り続けてきた芳賀日出男や須藤功の場合には、その動機ははっきりしている。日本人の宗教観や死生観が、最もよくあらわれてくるのがそれらの行事であり、撮影によって視覚的なデータを得ることができるからだ。だが、小林らが何を目的として撮影しているのかは、写真を見ている限りではうまく伝わってこない。

小林が会場に掲げていたコメントに以下のように記しているのを読んで、「なるほど」と思った。祭事や祭礼は夜通しおこなわれることが多いので、漆黒の闇に包まれてじっとしていると「奇妙な感覚」に襲われることがある。眼前の人の姿や光景が裏返って「千年前と千年後、現実と異界、ケとハレ、明と喑といったものがゆっくりと反転し、時間と空間が奥行きをもってねじ切れたとき、亀裂が生じ、やがて激しく割れる」。そこで「私はぷっくりと生まれ出でた“モノタチ”を目撃する」というのだ。これは、客観的な記録を基調とする従来の民俗学的な写真のあり方とはまるで違う、写真家の個人的な体験に根ざした撮影の動機といえる。祭事や祭礼は、その「時間と空間が奥行きをもってねじ切れ」るという感覚を引き出すための装置と見るべきだろう。

それはそれでよいが、それならば、その個人的な体験にもっと集中し、写真の選択、配置の仕方をより厳密におこなってほしい。展示されている写真には、祭礼の前後の日常を撮影したものがかなり多く含まれているが、それらは明らかに緊張感を欠いている。大小の写真をズラしながら、重ねていくような展示構成も、視点が拡散してしまうので一考の余地があるだろう。なお、本展にあわせて赤々舎から同名の写真集が刊行された。本展は2020年1月9日〜1月22日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2019/12/12(木)(飯沢耕太郎)

至近距離の宇宙 日本の新進作家 vol.16

会期:2019/11/30~2020/01/26

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

毎年、年末から年始にかけて東京都写真美術館で開催されている「日本の新進作家」展も16回目を迎えた。今回は「至近距離の宇宙」というテーマで、藤安淳、井上佐由紀、齋藤陽道、相川勝、濱田祐史、八木良太の6人が出品している。写真表現の歴史において、クローズアップで撮影された写真の登場は大きな意味を持っていた。肉眼で見る世界とは、まったく異なる世界の眺めを捕獲することができるからだ。そこに見えてくる現実世界の姿は、親密さと違和感とを同時に感じさせるのではないだろうか。今回の展示でも、6人の若手写真家たちは、作品制作を通じて、身近なはずの被写体を撮影したときに生じる驚きや不思議さを引き出そうとしていた。

とはいえ、展覧会の前半に並ぶ藤安、井上、齋藤と、後半の相川、濱田、八木の作品の印象はかなり違う。自身も双子の片割れである藤安は、さまざまな双子たちのポートレートを撮影し、井上は生まれたばかりの赤ん坊の瞳にカメラを向ける。聾唖の写真家である齋藤は、世界がみじろぎするその一瞬を捉えようとする。現実世界のあり方をストレートに描写し、「感動」とともに定着させようとする彼らに対して、プロジェクターやタブレット端末の液晶画面の光を光源として制作する相川、山や海のイメージを身近な素材で再構築する濱田、鏡や「驚き盤」などの装置を介した視覚的な変容を扱う八木の作品は、むしろ「近さ」という認識そのものをクールに見直そうとしている。この二つの対照的な作品世界を並置することは、試みとしては面白いが、やや混乱を招いていた。前半部分と後半部分の作品の違いを、もう少し丁寧に浮かび上がらせるべきだったのではないだろうか。

2019/12/18(水)(飯沢耕太郎)

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青木野枝 霧と鉄と山と

会期:2019/12/14~2020/03/01

府中市美術館[東京都]

青木はこれまで美術館で何度も個展を開いてきたが、これは並大抵のことではない。なんてったって美術館は広いから、展示室を埋めるだけの作品がなければいけない(もちろんそれ以前に、質の高い作品をつくって美術館に認めてもらわなければならない)。特に青木は鉄の彫刻で、しかも場所に応じてサイズも形態も変えるから、搬入・設置・撤去も大変な作業になる。ほんと、彫刻家はつらいよ。

でも今回の個展を見て、なるほどと思った。彫刻は全部で17点ほどあるが、インスタレーションとして見れば8点と数えることもできる。特に三つある企画展示室には各1点ずつ。たった1点でも「もつ」のは、作品自体がデカイこともあるが、なにより空間全体をひとつのインスタレーションとして成立させているからだ。まず展示室1では、溶断した鉄の環を二つ組み合わせ、一部にガラスをはめ込んだユニットを数百個つなぎ合わせて、直径7、8メートルほどの巨大ドームをつくる。大きすぎて搬入できないので、その場で組み立てたはず。これが彫刻作品《霧と鉄と山―I》だが、それだけでなく、周囲のガラスの陳列ケースに波形の板を掛け軸のように掛け、全体でひとつのインスタレーションとしているのだ。

展示室2には、石膏によるやはりドーム型をした《曇天I》《曇天2》の2点が置かれている。彫刻としては2点だが、この部屋も周囲をガラスの陳列ケースが囲んでおり、ひとつのインスタレーションとして捉えることができる。展示室3も同じく空のガラスケースに囲まれ、1にあった鉄の環のドームを少し扁平にして耳を生やしたような、どことなくユーモラスな形の《霧と鉄と山―II》が鎮座する。これでインスタレーションとしては3点。数は少ないが見応えはある。

ほかにも企画展示室の前室とロビーに、デビュー当時の作品や使い古しの石鹸を積み重ねた新作を展示している。驚くのは、版画やドローイングも含めて大半が2019年の制作であること。青木は制作時間の9割方を鉄板の溶断に割くとどこかで述べていたが、アトリエではひたすら溶断し、部分的に溶接もするが、作品の全体像が姿を現わすのは展示場所においてだという。美術館を新作で埋めることができるのも、こうしたユニークな制作方法を確立しているからだろう。

2019/12/20(金)(村田真)

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