2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

2020年04月15日号のレビュー/プレビュー

高橋宗正「糸をつむぐ」

会期:2020/02/12~2020/03/23

PGI[東京都]

写真家にとって、撮影の機材を変えるということがとてもいい方向に働くことがある。高橋宗正の場合がまさにそうだった。高橋は、3年ほど前から8×10インチ判の大判カメラを使い始めた。友人から「水に浮くもの」を撮ったらいいのではないかと言われて、その言葉がずっと引っかかり、大判カメラを使えばいいのではないかと思いついたのだ。そんな矢先、たまたま8×10インチ判カメラを売りたいと思っていた人に出会い、話がつながった。何かが動くときは、偶然のように見えて、それを超えた力が働くのだろう。

今回の「糸をつむぐ」展には30点のモノクローム作品が出品されている。テーマはさまざまで、風景、オブジェ、「結婚、出産、子育て」など、かなり多様な写真が含まれている。「水」のイメージも多い。その「水」も流れる水、止まる水、震える水、染み出す水などいろいろだ。「何か」を撮ろうとしているのではなく、その「何か」に向かう心の動き、繊細なセンサーの反応に、むしろ素直に呼応してシャッターを切っているように見える。元々、高橋は撮り手としての能力が抜群に高い写真家だったが、そのセンスに頼り切らずに、慣れない機材のメカニズムをあいだに挟むことで、逆に写真の説得力が増した。それでいて持ち前の軽やかさは失われていない。彼にとっても、手応えのあるシリーズに仕上がったのではないだろうか。

「水に浮くもの」の探求は、もう少し続けてほしい。つむいだ糸が、何か大事な絵模様を織り上げていきそうな予感がする。

関連レビュー

高橋宗正「石をつむ」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年04月15日号)

高橋宗正『津波、写真、それから──LOST&FOUND PROJECT』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)

2020/03/11(水)(飯沢耕太郎)

アバロス村野敦子「Fossa Magna—彼らの露頭と堆積」

会期:2020/03/06~2020/04/19(延長)

POST[東京都]

アバロス村野敦子の「Fossa Magna—彼らの露頭と堆積」は、「見えるもの」と「見えないもの」、「大きなもの」と「小さなもの」のあいだを想像力でつなぐ、とても興味深いプロジェクトである。フォッサマグナとは、ドイツの地質学者エドムント・ナウマンが1880〜90年代に発表した本州中央部の大地溝帯のことである。西端は新潟県糸魚川と静岡県大井川を結ぶ線上に、東端は新潟から千葉にかけての線上にあるフォッサマグナには東京も含まれている。村野は、ナウマンのフォッサマグナ発見のエピソードに強く惹かれ、同地溝帯の地表に露出した岩盤を中心に撮影し始めた。やがて、彼女は自分が暮らす東京の日常にも目を向けるようになる。そこにも、さまざまな「地殻変動」が生じており、日々の出来事が「堆積」し、それが「露頭」として目に見えるかたちで出現してくるからだ。

今回のPOSTの展示では、フォッサマグナの「露頭」を撮影した写真群(実物の岩の破片も含む)、日常生活を撮影したスナップ写真、夫のアバロス・カルロが書いた漢字練習帳やナウマンの論文などを複写した写真などで構成されていた。会場のスペースに限界があるので、インスタレーションがうまくいっていたとはいえない。特に日常生活のパートは、もう少し拡充してもいいだろう。だが、さらにこのプロジェクトを展開していけば、より広がりと深みのある展開が期待できそうだ。

なお、このシリーズは、2017年度の写真家オーディション「SHINES」(キヤノンマーケティングジャパン主催)で町口覚が選出し、彼の造本で30部限定の写真集を刊行している。その「Drifting across the sea, Searching for a place to belong, Finding a new home, And calling in their own. Just like the Fossa Magna, Years gone by, Layer by layer, Unseen, but to be known」という長いタイトルの写真集の増刷版も刊行され、会場で販売されていた。写真集には、アバロス・カルロの詩的なテキストが、写真と写真のあいだを縫うようにレイアウトされている。写真とテキストとの絡み合いが、重層的、多次元的な内容とうまくマッチしていた。

2020/03/11(水)(飯沢耕太郎)

竹山団地

[神奈川県]

群建築研究所を率いた緒形昭義(1927-2006)が設計した横浜の竹山団地を見学した。緒形は東京大学を卒業後、横浜国立大学で教鞭をとり、寿町総合労働福祉センター(1974)や藤沢市労働会館(1975)などを手がけたモダニズムの建築家である。また卒業設計は、敗戦直後の日本らしいテーマの「皇居前広場に建つ文化会館」だった。竹山団地は、直方体の住宅棟をただ並行配置したものではなく、千里ニュータウンと同様、初期ニュータウンの理想を追求した建築群となっており、かなり個性的である。



俯瞰で見た竹山団地のセンターゾーン

特に1972年に完成したセンターゾーンは、大きな人工池を設け、ほかの団地にはない独特な環境を形成することに成功した。設計を依頼され、現地を視察したとき、ちょうど谷あいだったので池を提案したという。人工池の維持管理はそれなりに大変だったようだが、その周辺に店舗群、スーパーマーケット、郵便局、集会所、学校、幼稚園、病院、公園などの各種施設を配し、いずれも現役なので、全体として良好な雰囲気が保たれている。



スーパーマーケットの天井



郵便局の外観

いわばモダニズムが輝いていた時代の建築である。ロンドンの集合住宅群《バービカン・エステート》なども想起させる。またデザインをよく観察すると、ル・コルビュジエ など、モダニズムの影響が随所に散りばめられている。例えば、ピロティや屋上庭園。とりわけ前者は人工池に対し、足を突っ込んだような柱群もあって、忘れがたい風景を生みだした。駐車場からスーパーマーケットに降りる階段に設けられたランダムな開口は、後期のル・コルビュジエ風である。



竹山団地のピロティ



人工池に浮かぶスロープが絡まりあう構築物



駐車場からスーパーマーケットに降りる階段

また巨大建築を見慣れたわれわれから見ると、ヒューマンなスケールがかわいらしくも感じられる。2つのスロープが互いに絡みあう丸味を帯びた彫塑的な構築物、店舗エリアの円窓やグリッド状の天井、高さをズラした窓、住棟へのアーチ状の入口、眺めを切りとる階段室の開口、台形のトイレなど、様々な細部の意匠が目を楽しませる。決して均質な団地ではない。改修によって色が塗られたり、バルコニーが室内化しているところもあるが、おおむね当初の状態が保たれているのも嬉しい。



竹山団地案内図

2020/03/13(金)(五十嵐太郎)

小田尚稔の演劇『是でいいのだ』/小田尚稔「是でいいのだ」

会期:2020/03/11~2020/03/15

SCOOL[東京都]

「小田尚稔の演劇」名義で演劇作品を発表してきた劇作家・演出家・俳優の小田尚稔による初小説「是でいいのだ」が『悲劇喜劇』2020年3月号に掲載された。同タイトルの演劇作品を小説化した本作で語られるのは「三月のあの日」に東京にいた5人の男女のそれからの歩みだ。

なにか劇的なことが起きるわけではない。新宿で被災し、震源地に近い実家の両親と犬の安否を気づかいつつ国分寺の自宅へ歩いて帰宅しようとする就活生(小川葉、以下2020年演劇版の配役)。夫に家を追い出された挙句に送りつけられた離婚届に署名しようとしているところで被災した女性(濱野ゆき子)。新宿西口公園で休憩していた彼女に声をかけ、その後もちょくちょく遊ぶようになる大学5年生の男(加賀田玲)。自ら離婚届を送りつけたにもかかわらず、被災後の不安からか「淋しい」と妻に電話をかけてしまう夫(橋本清)。悩んだ末に仕事を辞め、教員採用試験を受けることを決める女(澤田千尋)。彼女たちはそれぞれに自らの体験を淡々と、ときに自虐的なユーモアを交えて語る。

就活生の彼女はエントリーシートを書きながら自分の履歴を「カスみたい」だと思い「他人と比較して自分の越し方を思うと、少しだけ情けなくなる」という。三鷹まで歩いたところで中央線が動き出しているらしいことを彼女は知るが、それでも「今日は歩いて帰りたい」と彼女が思うのは「もし歩いて帰ることが出来たら、自分を自分で褒めてあげよう。失敗だらけの自分の生き方を少しは受け入れてあげよう。『これでいい』って、自分にそう言ってあげよう」と思ったからだった。

©︎Naotoshi Oda

「是でいいのだ」というタイトルにはいくつかの由来がある。小田作品の多くは哲学者の著作をモチーフとしていて、本作ではイマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』とV・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』がそれにあたる。小説版ではさらに赤塚不二夫の(あるいは『天才バカボン』の)影響が冒頭のエピグラフによって示唆される。

「あなたの考えは全ての出来事存在を、あるがままに前向きに肯定し受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ち放たれて、そのときその場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、『これでいいのだ』と。」(樋口毅宏『タモリ論』)

©︎Naotoshi Oda

©︎Naotoshi Oda

ところで、読者にとってこの小説の(ある部分の)語り手が誰であるか、何人の語り手がいるのかを判断することは実はなかなかに難しい。それぞれの語りの質感が似通っていることに加え、小説版では(当たり前だが)俳優もおらず、登場人物の名前も語られないからだ。しかも、語られる固有名詞やエピソードに重なる部分が多くあるため、しばしば彼女ら彼らは同一人物であるかのようにさえ思える。学生か就職しているか、未婚か結婚しているかという属性の違いだけが彼女ら彼らを見分ける手がかりとなるのだが、語りは一貫した時系列の下に進むわけではないため、同じ人物の異なる時間軸の語りが混在している可能性は排除できない。基準点となる「三月のあの日」におけるそれぞれの姿や行動だけが、彼女ら彼らが「別人」であることを示している。

彼女ら彼らに設定された共通点は、共感のための、自分ではない誰かに想像を広げるための糸口として用意されたものなのかもしれない。登場人物がそれぞれにつぶやく「大丈夫かな……」という言葉はその場そのときにいないひとへの想像力の発露にほかならない。本作は再演のたびに橋本以外の俳優を入れ替えてきていて、私の脳裏には「同一人物」を通して「別人」たちの姿も浮かぶ。

©︎Naotoshi Oda

小説版は演劇版と語りの「感じ」も内容もほとんど同じなのだが、一箇所だけ大きな変更が加えられている。演劇版で重要な場面に登場する「もえあず」が別の人物に置き換わっているのだ。私も友人の指摘で知ったのだが、演劇版では細井くんと呼ばれる大学生の男の「推しメン」である大食いアイドル「もえあず」こともえのあずきが活動を開始したのは2012年3月13日、大食いキャラとして認知される最初のきっかけとなった番組の放送は同年10月のことらしい(Wikipediaによる)。となると、細井くんが被災時にもえあずのファンだったというのは現実的にはあり得ない設定だということになる。小説版の発表のあとに上演された演劇版でも「もえあず」が同じように登場していたことを考えると、これはわざとそのように描かれているのだろう。

©︎Naotoshi Oda

実は、作中では「三月のあの日」が2011年のことだとは(観客にわかる形では)明言されず、東日本大震災という言葉も登場しない。つまり、「三月のあの日」はいつだってあり得るのだ。それはそのまま「三月のあの日」に私が思い知ったことだ。「その日」がいつ来るかは誰にもわからない。

だからこそ「是でいいのだ」という言葉は重い意味を持つ。それは素朴な現状肯定などではない。起きてしまった、変えられない過去を受け入れ、そこから再び歩みをはじめるための最初の小さな一歩。人生のいつだって、それを踏み出すことはできるはずだ。実は、仕事を辞め教員採用試験を受ける決意する彼女の語りだけは、震災のことに一切触れることがない。「あの日」がいつだってあり得ることの意味は反転する。いや、それはいつだって裏腹なのだ。過去は変えられず、未来はわからない。だから人はその一歩を踏み出す。

2016年10月に新宿眼科画廊スペース地下で初演された演劇版は、その後、三鷹にあるSCOOLに会場を移し、2018年以降、少しずつ改訂を重ねながら毎年3月に上演されている。新宿はこの作品の冒頭で「帰宅困難者」となった就活生が自宅のある国分寺への歩みをはじめた場所であり、三鷹は歩き続けた彼女が作品の最後で立っている「現在地」だ。SCOOLでの観劇を終えた観客は彼女の歩みを引き継ぐようにして帰途への一歩を踏み出す。


公式サイト:http://odanaotoshi.blogspot.com/

2020/03/14(土)(山﨑健太)

福井裕孝『インテリア』

会期:2020/03/12~2020/03/15

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「部屋」という空間単位において、ものとそれが置かれた環境と人(俳優)との相互作用として演劇の上演を捉え直す試み「#部屋と演劇」を行なっている、福井裕孝。「#部屋と演劇」には同世代の演出家、中村大地と野村眞人も参加し、1年間コンセプトを共有しながら各自の作品を上演した。

福井裕孝『インテリア』では、観客は自分の部屋にある「インテリア」をひとつ会場に持ち込み、「部屋」に見立てられた上演空間に配置し、上演を「ものと観る」ことができる。会場に入ると、舞台中央にサイドテーブルと円形ラグ、ティッシュボックスなどの小物が置かれ、ここが「リビング」であるらしいことがわかる。だがその手前の床には色鮮やかなパプリカ、マグカップ数個、ポット、ティーバッグが几帳面に一列に並べられ、黄色い靴下が丁寧に広げて3組並べられている。その光景は「何らかの一定の秩序」に従って几帳面に幾何学的な配置を施されていることがわかるが、「普段の生活空間における配置」の完全な再現ではなく、どこかズレている。また、家具や雑貨、日用品たちはいずれも量販店で買えるような没個性的なもので、「持ち主の強い個性や愛着」を声高に主張するわけでもない。この「リビング」の奥には、大きなビーズクッション、収納シェルフ、加湿器、トイレットペーパーのパックなどが置かれ、壁にハンガーと時計の架けられた空間があり、手前/奥で緩やかに二つの空間が境界画定されている。また、上手側には手前と奥に二つのドアがあり(実際に劇場の「外」に出られる)、ドア付近にはアルコール消毒液や傘が置かれていることから、ここが「玄関」であり、「隣接した二つのワンルーム」の設定が見てとれる。



[撮影:中谷利明]

手前のドアが開き、「ただいま」の声とともにビニール袋を下げた男が入ってくる。鍵を玄関脇に置き、靴と上着を脱ぎ、サイドテーブルの上にある(はずの)電球の紐を引っ張り、リモコンでTVをつけ(るフリをし)、手洗いとトイレを同様にマイムで行ない、ポットで湯を沸かし、マグカップを1個取ってティーバッグのお茶を(実際に)淹れる。ビニール袋からペットボトルを出し、丁寧に折りたたんだ袋の上に置き、脱いだ靴下や淹れたあとのティーバッグも丁寧にティッシュペーパーの上に置く。一連の動作は、毎日の帰宅後の彼のルーティンなのだろう。

男性が部屋を出ていくと、奥のドアからリュックを背負った女性が「帰宅」する。上着をハンガーにかけ、加湿器をセットし、ビーズクッションに座ってスチームを顔にあて、ヘッドホンで音楽を聴いてくつろぐ。同様に帰宅後のルーティンが再現されるが、彼女は手前の空間に侵入し、サイドテーブルのガラス天板を外して奥へ運び、ビーズクッションの横に置き直してしまう。彼女が出ていくと、3人目の女性が客席の通路を通って登場する。この女性(美術作家の西原彩香)は、開演前にロビーに展示してあった自身の作品を舞台=部屋に持ち込み、配置のバランスを考えながら壁や床に「展示」していく。彼女にとってここは「生活空間」ではなく「作品の展示空間」であり、「部屋を構成するさまざまな物体」は存在していないかのようだ。彼女が退場すると、再び手前のドアから男が「帰宅」し、同じルーティンを繰り返す。男、女1、女2の順で、「部屋での行動の再現」が3セット繰り返されるのが本作の基本構造である。



[撮影:中谷利明]

本作の面白さは、女1による「サイドテーブルの移動」、すなわち「もの」の再配置が、同じ動作を反復しようとする男の行動に作用を及ぼす点だ。男の動作は「もの」に規定されるため、基準点となる「サイドテーブル」の位置変更に伴い、電球のあるべき場所もTVをつけるリモコン操作の向きもトイレの位置も変化し、鍵は置かれる場所を喪失して床に落下する。一方、脱いだ靴下やペットボトル、ティーバッグを「並べる秩序」もまた「サイドテーブルを起点とする座標的な位置関係」を順守して遂行されるため、「1セット目」で並べて放置された痕跡を残したまま、新たな場所に「同じ空間秩序」がインストールされ、秩序の(再)構築と痕跡の同時進行が、「生活空間の疑似的再現の場」をカオティックに崩壊させていく。



[撮影:中谷利明]

ここで三者の様態を整理すると、男=「秩序の順守」および「もの」の空間配置による動作の規定、女1=「もの」の移動による空間秩序の再配置、女2=外部から新たな「もの」を持ち込み、別レイヤーの重なり合いの形成と規定することができる。また、この「レイヤーの多重化」は空間だけではなく、時間の圧縮と考えることも可能だ。例えば、「ワンルームの2室の壁が取り払われ、ホワイトキューブのギャラリーに改装された」、その「かつての生活空間」と「現在の展示スペース」が交錯する時空を私たちは見ているのだ、というように。


このように、「ルールの読み解き」や生態観察的な面白さとして楽しめる本作だが、それだけにとどまらない。例えばチェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』(2019)など近年の「ものの演劇」の潮流、代理表象の制度、脱人間・俳優中心的な演劇観に位置づけられるとともに、「ものの配置と秩序の(再)構築による、私的領域の主張(と排除)」という政治性についても考えることができる。「手前と奥の2部屋」に分かれていた空間が、「もの」の移動によって境界線が融解し始め、「私的領域」「テリトリー」が流動化し、「もの」が移動した新たな場所に「元の秩序」を持ち込む男は、「もの」を介した空間の私有地化・再領土化を行なう存在でもある。「室内の私的なインテリア」という「穏当な見かけの物体」はそのとき、インフラや制度のインストールによって地図を書き換え、奪取していく植民地的暴力、あるいは新たな移動先に自身の生活秩序を持ち込んで私有地化の権利を主張する移民的生、その双方のメタファーとして屹立するのである。ここに、演劇論的な実験を超えた本作の射程がある。

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