artscapeレビュー

2020年04月15日号のレビュー/プレビュー

甲斐啓二郎『骨の髄』

発行所:新宿書房

発行日:2020年3月20日

写真家が写真を撮り始めるきっかけは大事なことだが、それが写真の出来栄えにそのまま反映するわけではない。むしろ実際に撮影してみてわかったこと、そんな「気づき」をどのように取り込んでいくのか、元あったプランをどれだけ大胆に変更していくことができるかが重要になる。

元々、ラグビーやサッカーなどスポーツ競技を中心に撮影していた甲斐啓二郎は、フットボールの歴史を記した本で、毎年2月の「Shrove Tuesday(告解の火曜日)」に、イングランド・ダービーシャー州のアッシュボーンでおこなわれる、「Shrovetide Football」と呼ばれる行事に興味を抱く。フットボールの原型とされるこの行事では、町の真ん中を流れるヘンモア川の両岸の住民たちが、1個のボールをゴールまで運ぶことを競い合う。「教会に入らない」、「人を殺さない」ということ以外には一切のルールがないこの競技を、甲斐はほとんど予備知識なしに撮影したのだが、できあがってきた写真は予想を超えたものだった。そこには、肝心のボールはほとんど見えず、男たちが揉み合い、ぶつかり合い、密集し、駆け回っているその姿だけが写っていたのだ。つまりスポーツ写真としては完全に失敗だったわけだが、甲斐は大きな手応えを感じた。その「気づき」から、スポーツ、あるいは宗教行事の原型というべき世界各地の「祭事」を追うプロジェクトが開始されることになる。

甲斐が「Shrove Tuesday」に続いて撮影したのは、「骨の髄」(秋田県美郷町の「竹打ち」の祭事)、「手負いの熊」(長野県野沢温泉村でおこなわれる、厄年の25歳の男衆が守る社殿に松明で火を付ける「火付け」の祭事)、「Opens and Stands Up」(ジョージア西部、シュフティのShrovetide Footballによく似たボールを奪い合う行事)、「Charanga」(南米・ボリビアのマチャでおこなわれる、男たちが素手で殴り合う「Tinku(出会い)」の行事)である。これらのイヴェントの写真は、すべて「Shrove Tuesday」と同じやり方で撮影され、本書『骨の髄』に収録された。それらを見ると、甲斐が撮影したかったのが、祭りそのものではなく、むしろそこに写り込んでいない「何ものか」だったことが見えてくる。彼が写真集の「あとがき」で「『祭事』を『自然』もしくは『神』と置き換えて、『向かってくるもの』と考えると、『格闘の祭事』は『自然の猛威』とみることも出来る」と書いているのは、そのことを言おうとしているのではないだろうか。「見えないボール」は「見えない神」のメタファーとして捉えることもできそうだ。

なお、本書の刊行に合わせて、同名の写真展が銀座ニコンサロンで開催される予定だったが、新型コロナウイルス感染症の広がりの影響で中止された。4月はじめの段階で、ほとんどの美術館、ギャラリーは休業を余儀なくされている。苦難の時期を乗り越えて、早く展覧会が自由に開催できるような状況になることを願いたい。

関連レビュー

甲斐啓二郎「Opens and Stands Up」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年06月15日号)

甲斐啓二郎「手負いの熊」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年11月15日号)

甲斐啓二郎「骨の髄」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年11月15日号)

甲斐啓二郎「Shrove Tuesday」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年10月15日号)

2020/04/03(金)(飯沢耕太郎)

井上雅人『ファッションの哲学』

発行所:ミネルヴァ書房

発行日:2019/12/30

ファッションの「哲学」というそのタイトルに違わず、全体を通して非常に大きな問いに貫かれた一冊である。デザイン史・ファッション史・物質生活史を専門とする著者が、これまで執筆してきた文章をもとに書き下ろしたという本書は、平易な語り口ながら、ファッションをめぐる諸問題にきわめて有益な視座をもたらしてくれる。

本書の序文である「ファッションという哲学」において、著者はのっけから「ファッションとは、衣服のことではない」と断言する。それは「ものの見方、あるいは、世界の捉え方」であり、さらに具体的に言いかえるならば、「身体」と「流行」との関わりによって、「私たち自身や、私たちを取り巻く世界が、日々変化していくという世界観である」という(i頁)。

力強い言葉である。続けて著者の言葉を借りると、「ファッションの哲学」とは、「人間がどのように身体と付き合い、自分を取り巻く世界を把握し、自分自身を形成し、世界と関係しているかについての理解の仕方」のことである(ii頁)。端的に言えば、本書が謳う「ファッションの哲学」は、人間が姿をもった物体・・・・・・・としてどのように存在しているか、という問いに関わっている。著者が言うように、いわゆる「おしゃれ」に関心があるか否かを問わず、いかなる人もこの世に姿なく存在することはできない。その意味で、いかなる人間もファッションと無縁ではいられない──これは、きわめて説得力のある議論である。

従来の「ファッションの哲学」は、その国内におけるパイオニアであるところの鷲田清一をはじめ、しばしば「現象学的」と称されるような身体論に依拠することが多かった。それに対して本書が採用するのは、歴史的な事象に依拠した豊富な事例と言説である。それぞれ、コミュニケーションとしてのファッション(第1章)、身体とファッション(第2章)、物質文化史におけるファッション(第3章)、ビジネスとしてのファッション(第4章)、日常的な実践としてのファッション(第5章)といった多彩な切り口から、数多くの知見が導き出される。章のなかでも話題は次々と切り替わり、読者は必然的にリクルートスーツ、ミニスカート、コルセットなどをめぐるそれぞれのトピックについて、みずから思考をはじめるよう迫られる。

はじめにも述べたように、著者の語り口はきわめて平易であり、ほとんどの読者は本書を難なく読み通すことができるだろう。かといってそれは、本書が専門的な内容を欠いていることを意味しない。ここまで述べてきたような本書の性格は、リーダビリティへの配慮から意識的に選ばれたものであり、個々のトピックに関心をもった読者は、巻末の注から参考文献にアクセスできるよう、しかるべく工夫もされている。冒頭の大きな問いの設定にくわえて、全体に行きわたるそのような美点からも、ゆくゆくは文庫のようなかたちでの普及が望まれる一書である。

2020/04/04(土)(星野太)

白 の中の白 展 白磁と詞という実験。

会期:2020/03/13~2020/07/05(※)

無印良品 銀座 6F ATELIER MUJI GINZA Gallery1[東京都]

※4月11日より臨時休館

本展は小規模ながら、白磁に焦点を当てたユニークな展覧会だ。白磁とは白い磁器。もともとは中国で誕生した青磁と白磁の歴史にもさらりと触れつつ、本展でハイライトとするのはバウハウスで発達したモダンデザインの白磁である。それについて本展では「白無地の価値を『発見する』」と表現している。主な展示品はティーポットとカップ&ソーサーで、白磁の素地と、お茶を淹れて飲むという機能は共通しながら、さまざまな形状や曲線の違いを見ることができた。例えばヴァルター・グロピウスがデザインしたティーポットとカップ&ソーサーには、どことなく建築的な佇まいを感じてしまう。

カジミール・マレーヴィチ、デザインのティーポット(1923) ©知識たかし

またロシア・アバンギャルドのひとつと言われる「シュプレマティズム」を宣言した芸術家、カジミール・マレーヴィチがデザインしたティーポットやカップも大変興味深い。代表作《White on White(白の上の白)》を彷彿とさせる形状で、まさに彼の世界観を表現していた。そして日本の白磁として取り上げられたのは柳宗理と森正洋の食器である。彼らは言うまでもなく、日本の食卓に白磁をもたらした代表的デザイナーだろう。本ギャラリーではモダンデザインを軸に企画展を開催していることから、本展でもいわゆる日本の産地に多くある、窯元や作家自身が形を考えてつくる白磁は登場しない。その点にやや物足りなさを覚えてしまうのは私だけか。

したがってモダンデザイン以前の白磁も登場しないのである。そもそも白磁(陶磁器)は6世紀の中国で誕生し、11世紀の宋時代に目覚ましい発展を遂げた。この時代に官窯(中国宮廷の窯)となった景徳鎮窯で染付を盛んに生産したことから、中国磁器=染付のイメージが広まるが、実は青磁を得意とする窯、白磁を得意とする窯などさまざまな窯が誕生した。この中国磁器に大きく影響を受けたのが、日本初の磁器産地となった有田だ。有田でも染付を多く生産し、のちに色絵も誕生するのだが、やはり青磁や白磁も生産していた。一方で15〜16世紀の李氏朝鮮では、染付の原料である呉須が産出されなかったことなどから、生産されたのは主に白磁だった。いわゆる「李朝白磁」である。これが東洋における白磁の大きな流れだ。

とはいえ、白磁に対する解釈はさまざまだ。むしろ本展で白磁を際立たせていたのは、タイトルにもあるとおり「詞」である。展示室の外壁には、日本の前衛詩人、北園克衛が残したコンクリートポエトリー《単調な空間》が印象的に用いられていた。モダンデザインの白磁に対する、この解釈はなかなか新鮮だった。

展示風景 ATELIER MUJI GINZA Gallery1 ©ATELIER MUJI GINZA 2020

北園克衛『煙の直線』(國文社、1959) ©ATELIER MUJI GINZA 2020


公式サイト:https://atelier.muji.com/jp/exhibition/680/

2020/04/06(月)(杉江あこ)

パオロ・ダンジェロ『風景の哲学──芸術・環境・共同体』

訳者: 鯖󠄀江秀樹

発行所:水声社

発行日:2020/02/20

イタリアの美学者、パオロ・ダンジェロ(1956-)が「風景」を論じた哲学書。本書の訳者あとがきによれば、著者ダンジェロはヘーゲルやシェリングといったドイツ・ロマン主義の思想から出発し、1990年代から現在にいたるまで、近現代哲学、視覚芸術、環境美学などをめぐる数々の著書を発表してきたという(本書が初の邦訳である)。

本書は全体で九章からなり、映画(第二章)、現代美術(第三章)、環境美学(第四〜六章)、法制史(第七章)といった複数の分野を横断しつつ「風景(paesaggio)」の問題が論じられる。ここではそのすべてにふれることは不可能なので、分量的にも内容的にも本書の中心をなす「風景の哲学のために」(第一章)から、本書をつらぬく基本的なスタンスを紹介しておくにとどめたい。

何気なく本書を手にとった読者は、一読して、その問いの所在がどこにあるのか、いささか判然としない印象を受けるかもしれない。著者ダンジェロは、哲学者ヨアヒム・リッターの古典的文献「風景」(1962)をはじめ、過去に風景をめぐって書かれてきたさまざまな文献を博捜しつつ、これを絵画、環境、歴史、感情、アイデンティティといった複数のキーワードに絡めて論じる。そのため著者その人の立場が見えにくくなっていることも事実だが、私見では、以上のようなトピックの広がり自体が、何よりも著者の「風景の哲学」にたいするスタンスを表わすものである。

どういうことか。ダンジェロが指摘するように、従来の「風景の哲学」においては、その経験を性急に「絵画」や「環境」に還元する姿勢が見られた。前者の立場は、風景を描いた絵画──ないしそれを写した写真や映画──こそが現実の風景の見方を規定する、というパラドクスに依拠している。言うなればこれは、著者も引用するオスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という有名なパラドクスによって特徴づけられるものである。他方、後者の立場は80年代に台頭した環境美学などに見て取れるものであり、美学者アレン・カールソンが唱える風景の「環境的パラダイム」がこれに相当する。これも「風景=絵画」論とはまた異なるしかたで、風景をめぐる錯雑な経験を──自然科学の対象としての──「環境」に還元するものだと言えよう。

ひとつはっきりしているのは、本書でダンジェロが批判をむけるのが、こうした還元主義的な風景論であるということだ。そのなかで比較的好意的に取り上げられるのが、ゲオルグ・ジンメルが風景の統一基盤として名指した「気分」、そしてヘルマン・シュミッツやゲルノート・ベーメといった現象学者たちによる「雰囲気」をめぐる議論である。それによれば、「主体と客体の邂逅によって成立」する「半−モノ(semi-cose)」としての雰囲気こそ、私たちの風景の知覚を特徴づけるものである(63頁)。

とはいえ先述のように、本書では、風景をめぐる多様な経験を特定の理論に落とし込むことにはたえず警戒が払われている。本書後半において、風景をめぐる議論が法、国家、農業の問題にまで広げられていくさまには、いささか散漫な印象を抱くかもしれない。しかし風景を美学的に考察するということは、私たちが風景を「認識論的な経験」や「純粋に五感的な経験」とは違ったかたちで、すなわち感情、記憶、アイデンティティといったさまざまな構成要素に依拠しながら経験しているという事実から出発することにほかなるまい(24頁)。本書はその企図を、たんなる理念としてではなく、まさしく記述のレヴェルで示している。

2020/04/07(火)(星野太)

新型コロナ時代のアート

新型コロナウイルスの勢いが止まらない。外出自粛の要請が出され、劇場やライブハウスなどは次々と休止を余儀なくされ、ついに緊急事態宣言まで出てしまった。大きな美術展は2月末以降再三にわたり延期を繰り返し、当分のあいだ再開しそうにない。この春の目玉だった国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」(3/3-6/14)をはじめ、国立新美術館の「古典×現代2020」(3/11-6/1)、東京国立博物館の「法隆寺金堂壁画と百済観音」(3/13-5/10)などは、展示が完了しているにもかかわらず開けられない状態が続いている。このままだと、開催できないまま会期が終了してしまう可能性も出てきた。もったいない。また、4月初旬までは入場者を制限したり、開館時間を短縮したり、週末を休館にするなど工夫しながら開けていた中小規模の美術館も、緊急事態宣言を受けて大半は休館せざるをえなくなった。



[筆者撮影]


ギャラリーも、売買を目的とする大手画廊は3月中旬から休廊が目立ち始め、3月19日から予定されていたアートフェア東京も中止に追い込まれた。売買を目的としない中小の貸し画廊などは、もともと観客が少ないこともあってアポイント制にして細々と続けていたところもあるが、そんな努力も気概も空しく、現在はほぼ壊滅状態。もはや美術界(だけではないが)全体が休止状態に追い込まれているのだ。東日本大震災および原発事故のときも似たような状況だったが、今回は自粛の空気に抗う姿勢を、応援することも非難することもできないのが歯がゆい。

ただ美術に関していえば、ほかの文化ジャンルに比べれば、まだ希望が持てるほうかもしれない。というのも、音楽にしても演劇にしても映画にしても、ひとつの密閉空間にたくさん人が集まって鑑賞するものなので、感染の危険性が高いといわれる「密閉空間」「密集場所」「密接場面」の三つの密に当てはまるが、美術はそうでもないからだ。「三つの密」とはいかにも代理店の考えそうなキャッチフレーズだが、語呂がいいので使わせてもらう。以下に、観客の「密」度の違いをジャンル別に表にしてみた。音楽はライブハウスでのロックから大ホールでのクラシックまで幅が広いので二つに分け、また、スポーツ、博覧会、デモなどの大規模イベントも加えた。


ジャンル別「密」度比較 (◎きわめて高い ○高い △ほどほど ✕低い)

イベント 密閉度 密集度 密接度
ロック系コンサート(屋内)
演劇(演芸、ミュージカルを含む)
スポーツ(サッカー、野球など)
デモ
クラシック系コンサート
映画
博覧会・見本市(アートフェア)
展覧会(美術館、ギャラリー)
芸術祭(屋外)

基本的に音楽、演劇、映画は音や光が漏れないように密閉した空間で行われるのに対し、展覧会や博覧会は空間的に密閉されているものの、出入口はそのつど開閉されるため比較的開放的だ。また音楽、演劇、映画は不特定多数の観客が固定席で鑑賞するため密集度は高く、とくにスタンディングのコンサートでは、人々が密着したり叫んだりするため密接度も上昇する。逆にクラシック音楽や映画は座席が一定の距離を保ち、静かに鑑賞するため、密接度はそれほどでもない。その点、展覧会や博覧会は固定席がなく、人々もまばらに移動していくだけなので、密集度も密接度も比較的低い(ただし「ゴッホ展」のような人気展は例外だが)。

もちろんだからといって、美術は感染の可能性がないということではない。現にアートフェアも展覧会も芸術祭も延期・中止を余儀なくされているのだから。とくにアートフェアや芸術祭は、グループでわいわい言いながら見て回ることが多いので、密接度は美術館より高いかもしれない……。なんてことを考えていたとき、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーのディレクターであるハンス・ウルリヒ・オブリストが、新型コロナウイルスの影響で仕事の減ったアーティストを支援するため、数億円規模の「パブリックアート・プロジェクト」を提唱しているという記事をネットで目にした。一読して「なるほど」と思ったのは、1930年代にニューディール政策の一環として実現したフェデラル・アート・プロジェクトを思い出したから、というだけでなく、メディアとしての「パブリックアート」に着目しているからだ。

なるほど、パブリックアートは基本的に屋外に設置され、周囲に人々が集まる機会もほとんどなく、その前で議論したり騒いだりすることもないだろう。密閉度、密集度、密接度のどれをとっても低い。上の表に当てはめるとこうなる。


イベント 密閉度 密集度 密接度
パブリックアート

つまりパブリックアートは、鑑賞する側にとって感染の危険性が低い芸術形式であり、新型コロナ時代にこそ有効性を発揮できるメディアではないか、ということだ。これはもちろん半分本気だが、半分冗談でもある。パブリックアートが密閉度、密集度、密接度ともに低いのは、いいかえれば、吹きっさらしのなかでだれの気にも留められず、無視されていることの証なのだから。逆にいえば、「密」度の高い音楽や演劇やスポーツはいずれも関心度が高く、観客とプレイヤーおよび観客同士の一体感や連帯感が味わえるイベントだということにほかならない。それゆえに感染の危険性が高いのだ。そう考えれば、新型コロナウイルスというのは、人々の「ふれあい」や「きずな」を食い物にしてわれわれの連帯感を断ち切り、世界を分断する反動的災禍と捉えることができるかもしれない。

そこでパブリックアートが有効性をもつとしたら、果たしてどのようなパブリックアートなのだろうか。駅前でしばしば見かける女性ヌード像や、どこでも似たり寄ったりの抽象彫刻などは論外として、近年のリレーショナル・アートにしても、ソーシャリー・エンゲイジド・アートにしても、不特定多数とリレーションしたりエンゲージすることが忌避される現状では有効性をもたない。分断されつつある世界において、距離を保ちながらつながり、連帯できる「公の芸術」とはなにか。そんな「パブリックアート」の概念を更新するような新たなパブリックアートが求められているのだ。なんてことを書いているうちにも、事態はどんどん進んでいる。

2020/04/09(木)(村田真)

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