artscapeレビュー
フェリーチェ・ベアトの東洋
2012年04月15日号
会期:2012/03/06~2012/05/06
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
イタリアに生まれ、クリミア半島、インド、中国、日本、スーダン、そして最期の活動の地となったビルマ。フェリーチェ・ベアト(1832~1909)のドラマチックな生涯と、彼が足跡を残した場所の広がりは、当時としては驚くべきものだ。それを可能としたのが、これまた驚くべき勢いで表現領域を拡大しようとしていた写真術だった。ポール・ゲティ美術館のコレクションに、東京都写真美術館の所蔵作品も加えた130点を超える展示を見ると、この「19世紀の戦場カメラマン」の仕事の質の高さがまざまざと見えてくる。
ベアトが求めていたのは芸術的な評価などではなく、出来事をその細部まで精確に写しとることができる写真の能力を最大限に発揮して、あわよくば高額の報酬を得ようという野望だったはずだ。時には危険を冒しても、血なまぐさい戦場に足を運んで撮影したのは、その商品的価値がきわめて高かったからだろう。1863年から20年以上も滞在した日本を去るきっかけになったのが、銀相場の投機の失敗だったということをみても、ベアトは相当に山師的な人物だった。また彼が日本の絵師たちとともにつくり上げた「横浜写真」(手彩色の風景・風俗写真)は、写真の事業化の走りだった。ベアトのようなややいかがわしいところのある人物が跳梁していたということも、ある意味で19世紀の写真の面白さだと思う。
それに加えて、これは堀野正雄にも通じることだが、写真家としてのベアトのプロフェッショナリズムは特筆に値する。ガラスネガを使用する湿板写真の精密な描写力、丁寧にプリントされた鶏卵紙印画の美しさ、印画紙を横につなぐパノラマ写真の精度の高さは、ベアトが自らの写真のクオリティを保つことに、職人的な誇りを持ち続けていたことをよく示している。結果的に彼の仕事は、19世紀後半の世界の姿を現在までいきいきと伝える、貴重な視覚的資料となった。
2012/03/05(月)(飯沢耕太郎)