artscapeレビュー

2011年10月01日号のレビュー/プレビュー

「凝縮の美学──名車模型のモデラーたち」展

会期:2011/09/03~2011/11/17

INAXギャラリー大阪[大阪府]

一言で「模型」といっても、プラモデルやソリッドモデルなど、その種類や作り方はさまざまなようだ。そんな模型の世界で、究極といえるのが、おそらくスクラッチビルドモデル(Scratch Build Model)ではないかと思う。「スクラッチビルド」とは、市販のキットを使わず、すべての部品をゼロから作り上げる模型のことである。完成まで何百、何千ものパーツをつくり、組み立て、塗装などの仕上げを施す。部品をつくる道具がなければ、それさえつくってしまうのだという。完成品はモデラーの想像力と技術の賜物にほかならない。本展は、5人のアマチュアスクラッチビルドのモデラーと、3人のプロモデラーの作品を紹介している。展示場の入口にこういう言葉があった。「それは単に実物の縮尺模型ではない。喩えて言うなら1/10ではなく10/10と表現すべきものなのだ」と。なにかの縮尺ではなく、10/10と表現すべきもの。だから観る者は圧倒的な存在感を感じてしまうのかもしれない。東京に続く巡回展。大阪の次は名古屋へ。[金相美]

2011/09/06(火)(SYNK)

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印象とアンフォルメル・具体・墨象──戦後の前衛

会期:2011/08/12~2011/10/23

京都府立堂本印象美術館[京都府]

抽象を取り入れた新しい日本画制作に挑んだ堂本印象(1891-1975)。アンフォルメル(1950年代にヨーロッパで起きた前衛芸術の一動向)の影響を受け、美術の既成概念に挑戦し続けた吉原治良、白髪一雄らの具体美術協会(1954年結成)。そして文字の造形化を試みた、書家・森田子龍(1912-1998)。「日本画 洋画 書」とそれぞれ異なる分野で活躍した彼らを結ぶ共通点、それは第二次大戦後という「時間軸」と「抽象」であろう。当時、彼らは低迷していた美術界で新しい可能性を探り、互いに影響しあいながらも、独自の、新しい造形を作り上げていったのである。こうして一緒に並べてみるとけっこう面白いし、意義深い。良い企画だ。ただ、展示作品が少なく、物足りない感が否めない。[金相美]

2011/09/07(水)(SYNK)

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田中真吾 個展 識閾にふれる

会期:2011/09/02~2011/09/30

eN arts[京都府]

紙束製立方体をバーナーなどで炙り、生々しくも美しい焼け焦げのある作品をつくり出してきた田中真吾。本展では、従来の表現に建築廃材を組み合わせることにより、新たな世界をつくり出すことに成功した。また、炎を別の形で表わした写真作品や、油彩画、ドローイングも合わせて出品。これまでもオリジナリティ豊かな世界を見せてくれていたが、今回はその表現領域を一気に拡張し、自身のポテンシャルの高さをまざまざと見せつけた。

2011/09/10(土)(小吹隆文)

和田真由子「ドローイングの絵」

会期:2011/09/10~2011/10/15

児玉画廊|京都[京都府]

最近、児玉画廊が熱心にプッシュしている新進作家の和田真由子。私も過去に何度か彼女の作品を見たことがあるが、頭のなかが疑問符で溢れるばかりだった。しかし、本展で「イメージにボディを与える」というキーワードを得て、微妙な厚みを持って平面と立体の間を彷徨う彼女独特の世界観にようやく近づけた気がする。なるほどこの人がやろうとしていることは興味深い。そして、一見粗雑にしか見えない作品の外観も、コンセプトを明瞭にするために必要だったことがわかった。今さらながら自分の作品理解力の低さを嘆きつつ、やっとしっぽを掴んだ新進作家の世界を、これからも注視していこうと思う。

2011/09/10(土)(小吹隆文)

岩渕貞太『雑木林』

会期:2011/09/09~2011/09/10

アサヒ・アートスクエア[東京都]

1時間ほどのソロ作品。岩渕貞太は、中間状態を保ちながら舞台に居続けた。つねに肘や膝が曲げられ、手前にあった動作と次の動作の間に一貫して「待ち」の状態がキープされていた。なにかが起こりそうという「スリル」への期待が温存され、時が進む。動きの強弱大小の点でも中間状態は保たれた。微動でもなくダイナミックな旋回や跳躍でもなく、するするとかたちが変化しながら、ときに見る者をはっとさせるポーズや動きの流れに結晶する。ソロだからと言って一本の「木」ではなく、かといって壮大な「森」へ向かうのでもなく「雑木林」を目指す岩渕の意図は、掴めた気がした。とはいえこの「雑木林」の見所がどこかがわからなかった。今月とりあげている山下残の『庭みたいなもの』もそうであるように、ダンスのタイトルに「環境」を意識させる言葉を当てるひとつの傾向があるように思う。しかし、なんらかの環境が呈示できたとしても、それを生みだすのが作為である限り、自然そのものの豊かさ・強烈さには遠く及ばない、なんてことのほうが多いはず。中間状態にとどまるという作為が、思いがけない間だとか動きだとかが豊かに生じる可能性を削いでいるように見えるのは、そういう意味で気になるのだ。もっと岩渕の自然というか、脳の働きというか、妄想の質というか、岩渕の作為から漏れ出る部分が見てみたい。それには、漏れの余地をつくる作為の妙が必要だ。異様な色の花が小さくてもひとつ咲いてはじめて雑木林はただの雑木林ではなくなる。

2011/09/10(土)(木村覚)

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