2021年12月01日号
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artscapeレビュー

2015年07月15日号のレビュー/プレビュー

佐藤雅晴「1×1=1」

会期:2015/04/18~2015/06/13

imura art gallery[京都府]

同じ顔、同じ髪型、同じワンピース姿の2人の少女が並んでこちらを見つめる。椅子に腰かける。それぞれが手にするショートケーキもまた、2つ並んだイメージとして提示される。彼女たちは双子だろうか? そしてあまりにも肌理の整ったこの画面は、デジタル処理を施された写真なのか、精巧に描かれたフォトリアリズム絵画なのか? 近づいて細部を凝視すると、髪の毛や衣服の微妙なディティールから、それが描かれたものであることがわかる。だがツルツルの表面に絵具の物質感はなく、二重の疑問が消え去ることはない。
佐藤雅晴は、デジカメ撮影した身近な風景や人物の写真画像をパソコン上に取り込み、描画ソフトを用いてなぞり直すことで、アニメーションや絵画作品を制作してきた。実在する対象を複写した写真を、さらに描画ソフトでトレースする。この二重のトレースを経ることで、「写真」でも「絵画」でもない、どちらにも定位できない気持ち悪さや違和感がもたらされる。さらに本展では、この違和感をさらに増幅する仕掛けとして、同じモチーフの反復・並列といった操作が加えられた。
細部にいたるまで精巧だが浮遊感の漂う画面は、写真と絵画、現実とフィクションの境界を曖昧化するとともに、写された/描かれた対象も同一性が曖昧になり、幾重もの分裂状態に陥る。佐藤の作品は、表面を写し取り、緻密になぞり直すことで、むしろ写真からリアリティの表皮を剥ぎ取っていくかのようだ。だが、写真画像を加工素材とみなす近年のデジタル処理された写真作品のみならず、彩色写真やピクトリアリズムといった初期写真における絵画との融合の試みを思い返せば、写真と絵画は二項対立的に分けられるのではなく、むしろ写真は創成期から絵画とのもつれた関係のなかにあった。佐藤の作品は、「なぜ写真にリアリティを感じるのか」という問いを改めて喚起する。
また本展では、同様の手法で無人の室内や住宅地の光景を描いたアニメーション作品も展示された。一見、普通の日常生活のワンシーンに見えるが、画面のなかの微妙な揺れや運動の反復が違和感を与える。コンセントを差そうと動く手、室内をパンし続けるカメラ、午後2時46分で止まったまま、秒針だけが動き続ける時計。微妙に揺れ動く画面がループする構造は、震災後の「余震」が終わりのないまま、まだ続いていることを静かに暗示していた。

2015/06/13(土)(高嶋慈)

福田真知「essence / 風景」

会期:2015/06/02~2015/06/13

The Third Gallery Aya[大阪府]

福田真知はこれまで、切断した枝の断片をバラバラに繋ぎ合わせて再び一本の枝に再構築した立体作品や、濃度1%にした画像を数百枚重ね合わせることで、被写体が揺らぎを伴って再生されていく映像作品など、複数の時間軸の接合や、時間の層の堆積としての映像のあり方を可視化する試みを行なってきた。
本個展では、三脚に固定された一眼レフカメラから、あたかも映写機のように映像が壁に投影されるインスタレーションと、レンズ越しにカメラ内部を覗いて見る映像作品を展示。いずれの映像も、カメラによって切り取られたイメージではなく、撮影行為の一連のプロセスにおいてファインダー越しに「見ている」光景を追体験させる。黒く縁取られた四角いフレームの中、タンポポの綿毛や風にそよぐ樹々が映し出される。画面中央にピント合わせのマーク。「カシャッ」というシャッター音とともに画面はフラッシュのような白い光で覆われ、何も見えなくなる。徐々に光は薄れ、再びイメージが現われてくる。展示の仕掛けとあいまって、あたかもカメラが擬人化され、カメラという眼が「見た」記憶が内部に保存され、壁に投影されるのを見ているかのようだ。
作家によれば、この映像は、iphoneで一眼レフカメラのファインダー内を動画撮影したものだという。一眼レフカメラでは、レンズから入った光が内部のミラーに跳ね返ることで、ファインダー越しに見る私たちに像=光が届けられる。だが、シャッターを切る瞬間、ミラーが跳ね上がるため、内部は真っ暗になる。一方、iphoneは自動で感度調整を行なうため、この瞬間に感度が極端に上がる。再びファインダー内には光が戻ってくるが、iphoneの感度が上がりすぎているため、眩しい光として定着されてしまう。その後、徐々に感度が合うことで、再びイメージが回復していく。
仕掛けは単純だが、このように福田は、普段私たちが見ている像=光であることを、「光」の物理的現前によって提示する。だがそれは同時に、明るすぎる光それ自体が見る行為を妨げ、像として固定されたイメージそのものを見ることはできないという逆説をはらんでいる。フラッシュを想起させるこの閃光はまた、撮影行為、ひいては「見ること」を可能にする絶対的な前提としての「光」を再認識させる。さらに、生成と消滅を繰り返す一定のリズムのなかに挿入されるこの強い光は、フラッシュバックを想起させ、記憶の心理的なメカニズムの謂いともなっていた。

2015/06/13(土)(高嶋慈)

谷穹「LAND e SCAPE」

会期:2015/06/02~2015/06/14

Gallery PARC[京都府]

谷穹は、「古信楽」と呼ばれる、14~15世紀の室町時代に信楽でつくられていた壷や甕などの復元を目指して制作している陶芸作家。信楽の焼き物は、江戸時代に窯の構造や焼き方が変わり、残された文献資料も少ないため、古信楽の焼成方法は現在もわからない点が多いという。谷は、自身で築いた窯を改良し、焼成温度や時間、薪の入れ方などに試行錯誤を加えながら、古信楽の復元を追究してきた。
暖かみのある赤褐色、黒くザラついた「焦げ」、釉薬の流れや溜まり、土に含まれていた長石が溶けて表面にできた乳白色のツブツブ。いずれの器も非常に表情豊かであり、素朴ながら深い味わいを見せる。また観客は、目で愛でるだけでなく、異なる高さに掛けられた器のなかから好きなものを選び、花を活けることもできる。瑞々しく華やかな植物が、器の渋い魅力を引き立てるとともに、観客の能動性や空間への意識を引き出す試みだ。さらに好きな茶碗を選び、仮設の茶室にて席をつくることもできる。古信楽へのストイックな探究心と、器が機能する空間への意識を両立させた個展だった。

2015/06/13(土)(高嶋慈)

西江雅之写真展「影を拾う」

会期:2015/06/12~2015/06/27

ギャラリー・ハシモト[東京都]

西江さんはもう40年も前に、真夏の集中講義で文化人類学を教えてくれた先生。話はスワヒリ語からポロックの絵画まで、めっぽうおもしろかった。例えばアフリカで喉が渇いたとき、濁った水ときれいに澄んだ水のどちらを飲むか。ふつうきれいな水を選ぶが、先生は澄んだ水は細菌も棲めないほど猛毒かもしれないので、濁った水を選ぶと。あと、毎日生肉を食べてたり、10カ国以上の言語を話せたり、天才とか奇人とかいうより怪人の類いだった。写真はケニアのマサイ族、インド、ネパール、ハイチのヴードゥー教、パプアニューギニアなど、世界の民族を撮ったもので、約70点。モノクロームも数点あるが、大半はカラー。写真集『花のある遠景』の出版記念展というが、これを見た翌日、西江さん死去の報。なんと!

2015/06/13(土)(村田真)

資本空間 vol.2 村上華子

会期:2015/05/30~2015/07/04

ギャラリーαM[東京都]

ネットで見つけた雲のイメージを銀メッキした銅板に転写し、ダゲレオタイプ化した写真。マヤ暦最後の日である2012年12月22日をコロンビアで迎え、翌日世界の終わりが来なかったことを祝し、印刷屋で刷ってもらった踊る男女と2羽のニワトリのポスター。芽吹いたころは食用として重宝されるが、大きくなると役に立たないウドの大木の鉢植え。これらはいずれも作者自身の書いた解説による。解説込みの作品なので、写真をつくってるわけでもポスターをつくってるわけでもなく、物語をつくってるというべきだろう。いちばんわかりやすいのは、あぶらとり紙で自分の顔を拭いた聖ヴェロニカ風自画像。これは写真の原点でもある。

2015/06/13(土)(村田真)

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