artscapeレビュー
2017年06月01日号のレビュー/プレビュー
ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝─ボスを超えて─
会期:2017/04/18~2017/07/02
東京都美術館[東京都]
内容は、オランダの同時代美術(宗教画から世俗・風景画へ)、ボスの奇想画とそのフォロワー、そしてボスの影響を受けたブリューゲルの版画と目玉の作品というラインナップ。一枚の絵から当時の状況を伝えるものだ。「バベルの塔」の絵のサイズがかなり小さいだけに、逆に300%、映像、拡大した壁紙にしても、鑑賞に耐えるオリジナルの圧倒的な解像度に感心させられる。
2017/04/26(木)(五十嵐太郎)
富田大介(編)『身体感覚の旅 舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』
発行所:大阪大学出版会
発行日:2017/01/31
ダンスは消えてしまう。絵画や小説、写真ならば、一度創作が完了すれば、作品は永続する。しかし、ダンスはそうはいかない。ダンスの記譜法は考案されてきたものの、十分に活用されてはいないし、そもそも舞踊譜と上演はイコールではない。「消える」という上演芸術の潔さは、ダンスの魅力のひとつではあろう。とはいえ「消える」性格に抗う、記録へ向けた試行錯誤は、ダンスの継承や伝播、批評などに意識を傾けるとき、切実なものとなる。本書が記録するのは、フランスの舞踊家 レジーヌ・ショピノと彼女の友人である研究者 富田大介が進めたプロジェクトのひとまずの成果である(このプロジェクトは今後も継続されるという)。そこでは、ニュージーランド、ニューカレドニア、日本という「島」に生きる人々が集められ、各人のルーツとなる伝統や身体文化が取り上げられ、さらにコンテンポラリー・ダンスの知恵が注ぎ込まれ、最終的に舞台公演へと結実してゆく、その数年の軌跡が閉じ込められている。本書は、単に「公演録」と呼ぶのでは不十分な、アーカイブする意志に満ちている。vimeoにアップロードされた、一本の公演映像と三本のドキュメンタリーフィルム(合計四時間ほど)のアドレスが記載されている、といった試みはその一例だ。これによって本書は紙媒体の限界を超え、映像アーカイブの機能を内蔵させる。もちろん、ショピノの自伝的内容を含んだ公演創作にまつわるエッセイ、研究者による哲学的・美学的な論考や公演レビューも収められている。興味深いのは、本間直樹の論考(「表現することから解き放たれるとき」)に、リサーチワークの記録映像を取り上げつつ、この記録ではリサーチの際に参加者が経験しただろう「時間の感覚」「時間の持続」が消えてしまっている、と筆者の嘆息する様が残されていることである。アーカイブされることの難しいものとは何か、その点を隠さず指し示そうとする姿勢から分かるのは、単なる記録の集積ではなく、(プロジェクトの参加者や観客が得た)経験の(再)上演を本書は企図している、ということだ。何と言っても本書のタイトルは『身体感覚の旅』である。おそらく最も映像に記録することが困難な「身体」の内的「感覚」こそ、本書の核であり、読書体験を通してこの感覚に読者を導くことこそ、本書の狙いなのだろう。その際、映像の限界をテキストが補完するということが本書のあちこちで起きており、アーカイブにおける言葉の力に気づかされる。
2017/04/26(水)(木村覚)
石田榮写真集「はたらくことは生きること─昭和30年前後の高知」出版記念写真展
会期:2017/04/11~2017/04/28
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
アマチュア写真家、石田榮(1926- )の写真展。同名の写真集の出版記念展として、30点あまりの銀塩写真が展示された。写し出されているのは1950年代の労働の現場。いずれも、清々しく、瑞々しい写真である。
石田榮は高知県在住。会社員として勤務する傍ら、日曜日にカメラを携えながら、農村や漁村、石灰鉱山などに通い詰め、そこで労働する人々を写真に収めた。撮影者としての会社員と被写体としての肉体労働者。あるいは休日に趣味に走る者と休日でも労働に勤しむ者。石田の写真が、そのような非対称な関係性によって成り立っているのは事実だが、だからといって必ずしも画面にその歪な関係性が立ち現われているわけではないところが、石田写真の醍醐味である。むしろカメラの先の労働の現場との近しい距離感、ないしは親密性が溢れ出しているように見える。
だが、その親しみのある距離感とは、被写体としての労働者との個人的な信頼関係だけに由来するわけではなかろう。むろん、それもなくはなかっただろうが、大半を占めていたのは、むしろ自らとは異なる労働者への敬意ではなかったか。サラリーマンという労働形態とは異なる肉体労働を敬う身ぶりが、あのような清々しい写真を出現させたに違いない。なぜなら、石田がレンズを通して見ていたのは、労働の喜び、いや、肉体を駆使する労働がもたらす充実した快楽であるように思えてならないからだ。それが、石田の労働に決定的に欠落していたと想像できること、ひいては現代社会を生きる私たち自身の労働にも大きく欠損していることを思えば、石田の視線に含まれているのは彼らへの敬意とともに、ある種の羨望のまなざしでもあることがわかる。
それをノスタルジーと一蹴することは容易い。しかし石田の写真には単なるノスタルジーを超えて、近代以前と近代以後のあいだで生じた労働の質的変化が如実に表わされているのではなかったか。かつて鶴見俊輔が柳田国男を引用しながら言明したように、明治以降の工場式の生産様式は労働から歌を奪い、楽しみを奪った(鶴見俊輔『限界芸術論』)。「今日の労働には、歌を伴うことがもう不可能になっているのである」(柳田国男「鼻唄考」)。むろん石田の写真に歌が含まれていると断定することはできない。けれども農村漁村、あるいは石灰鉱山の労働者たちが鼻歌や作業歌を口にしながら肉体を酷使していたことは想像に難くない。歌を唄わないまでも、歌を唄うようなリズムを、労働者たちの所作から確かに感じ取ることができる。
労働の倍音としての遊び。それを回復することが、労働を取り戻すための第一歩となるのではないか。
2017/04/27(木)(福住廉)
《盛美館》《御宝殿》
[青森県]
コンペの打ち合わせのため、青森県の平川市へ。前から見たかった《盛美館》を見学する。これは帝冠様式とは反対の構成をもち、1階が和風、2階が洋風であり、隅にアンバランスなほど、大きい八角展望室がのる。現地に行くと、庭園との関係でつくられた建築だとよくわかる。ただ、2階を見学できないのは残念。《御宝殿》はまるで日光だが、入口が普通の住宅にあるような玄関のドア! という落差に驚く。
2017/04/28(土)(五十嵐太郎)
技を極める──ヴァン クリーフ&アーペル ハイジュエリーと日本の工芸
会期:2017/04/29~2017/08/06
京都国立近代美術館[京都府]
フランスのハイジュエリー・ブランド「ヴァン クリーフ&アーペル」。同社は年に一度、一カ国、一都市で展覧会を行なっているが、本年の舞台に選ばれたのは日本の京都。展覧会では同社の歴史を彩る名品が出展されたほか、日本の明治時代の超絶技巧工芸や、現代の工芸家の作品も展示され、時代と洋の東西を超えた「技」の競演が繰り広げられた。ジュエリーは小さな装身具なので、見せ方が難しい。本展では建築家の藤本壮介が会場構成を担当し、その難題に見事に応えた。なかでも、約18メートルの檜の一枚板を展示台に用いて、ブランドの歴史を一本の道に例えた第1章(画像)と、張り巡らせたガラス壁に鏡像が複雑に反射し、遠方が霞んでいく幻想的な第2章には圧倒された。会場構成でこれだけ唸らされたのは久しぶりだ。本展の主役はもちろんハイジュエリーと日本の工芸だが、そこに藤本の名を加えても良いのではなかろうか。
2017/04/28(金)(小吹隆文)