artscapeレビュー

2017年06月01日号のレビュー/プレビュー

ライアン・ガンダー─この翼は飛ぶためのものではない

会期:2017/04/29~2017/07/02

国立国際美術館[大阪府]

1976年生まれの英国出身アーティスト、ライアン・ガンダー。新しいコンセプチュアル・アートの旗手と称される彼の大規模個展が、大阪の国立国際美術館で開催されている。作品数は59点。室内に沢山の矢が突き刺さったインスタレーションや、ぐりぐりと動く目玉&眉毛、500体の改造された玩具人形などのキャッチーな作品がある一方、理解し難い作品も少なくなかった。そこで筆者としては異例だが、2周目からは音声ガイダンスの力を借りることに。ガンダーが書いたメモを読み上げるだけの簡単なものだったが、これがとても役に立った。彼の作品には複数のコンセプトが埋め込まれており、その背景には言語(英語)と英国およびヨーロッパの歴史がある。こうした作品を異文化の人間が理解することの難しさを改めて感じた。取材当日にはガンダーの講演会があり、質問コーナーで音声ガイダンスのことを述べたら、彼は浮かない顔をしていた。筆者がもっぱら音声ガイダンスに頼っていたと誤解したようだ(通訳が「2周目」を訳さなかった?)。でも、彼自身がメモを書いているのだから、そんな反応はしないでほしかった。また国立国際美術館では、本展と同時期のコレクション展(常設展示)の作品選定をガンダーに任せていた。異なる作家の作品を、ある共通項を基準に2点ずつ紹介するもので、美術館学芸員なら絶対にやらないであろうユニークなものだった。

2017/04/30(日)(小吹隆文)

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アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国

会期:2017/04/29~2017/06/18

東京ステーションギャラリー[東京都]

ジャン・デュビュッフェがアロイーズと並ぶアール・ブリュットの双璧として高く評価したアドルフ・ヴェルフリの回顧展。日本でこれほどまとまったかたちで作品が紹介されるのは本展が初めてだという。ヴェルフリは生涯の大半を精神病院で過ごしながら絵を描き続けたが、本展ではそのうちの74点が一挙に展示されている。
よく知られているように、ヴェルフリの絵画は空想的な物語と一体である。理想的な王国ないしは冒険譚から、あのように緻密な線と音符が複雑に交錯した独自の絵画空間を生み出している。その余白を埋め尽くすほど執拗な執着心を体感できる点が、本展の醍醐味である。
だがその一方、作画に関して言えば、前期と後期とで大きな質的な差異を痛感させられた点は否定できない。前期、すなわち1904年から1905年にかけて制作されたドローイングは、モノクロームを基本にしながら、まだ文字や音符が大々的に出現することはなく、空間の隅々を数々の記号で埋め尽くす執着心がすさまじい。それに対して色彩が導入され、文字や音符が出現したばかりか雑誌写真の切り抜きをコラージュした後期の作品は、その執着心がやや薄まっているように見えた。あるいは文字の羅列が示す物語の展開や色彩の配色の方に関心が移っていたのかもしれない。だが、アール・ブリュットないしはアウトサイダー・アートとしてのヴェルフリの魅力は、前期に見られたような空間を充填せざるをえない強迫観念にこそ凝縮していたのではなかったか。
その前期の作品をよく見ると、様式化された記号表現の連続のなかに人の顔が挟み込まれていることに気づく。濃い眉毛と髭をたくわえているから、あるいはヴェルフリ本人なのかもしれない。だが重要なのは、それらの顔が適切な居場所を与えられているように見えるという点である。世界の中心に自分がいるというわけではなく、世界の隅々に自分がいるべき居場所を確保すること。複雑でダイナミックに動いてゆく現実世界にあって、その還流のはざまで息継ぎをできる安全な居場所を見つけること。それらをしっかりと線で縁取ることによって自分が安息できる居場所を確実に構築すること。ヴェルフリを診断した医師は「空想の無秩序」という言葉で彼を解説しているが、少なくとも初期のヴェルフリが取り組んでいたのは、むしろそのような意味での「空想の秩序」だったのではないか。既存の世界秩序とは切り離されつつも、絵画空間の中で独自の世界秩序を構築する。その類まれな「秩序への意志」こそが、ヴェルフリの核心的な魅力である。

2017/05/02(火)(福住廉)

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小泉明郎展 帝国は今日も歌う

会期:2017/05/03~2017/05/11

VACANT[東京都]

小泉明郎の真骨頂は自己言及的に演出された映像によって現実と虚構の境界線を撹乱する点にある。小泉自身が役者に演出するシーンが含まれていることが多いから、鑑賞者はそれが決して事実そのものを映し出した映像ではないことをあらかじめ知らされる。ところが、そうであるにもかかわらず、エモーショナルな音楽とともに役者の演技が過剰にエスカレートしてある沸点を超えた瞬間、私たちの感情は大きく揺さぶられることになるのだ。そして、そのように翻弄される自分自身を顧みたとき、私たちは自分自身に問い直さずにはいられない。おのれの感動が現実に由来しているのか、あるいは虚構に起因しているのか。それとも……。
本展は、新作の映像インスタレーション《夢の儀礼─帝国は今日も歌う》を見せた個展。父親が警察に連行されるという幼少期に見た怖しい夢をモチーフにしながら、反天皇制運動のデモとそれらに対するヘイトスピーチを映し出した。父親役の役者は両手に手錠をかけられたままデモの最後尾を歩いているため、デモを管理する機動隊に背中を押されながら歩くことになるが、それが警察に連行される夢の情景と重なって見えるという仕掛けだ。しかも、その父親の映像は、横に並べられた3面のスクリーンのうち、真ん中の画面に映し出されていたが、両サイドの画面にはヘイトスピーチの映像を、いずれか一方を反転させたうえで、ほぼ同時に投影していたため、まるで父親がヘイトの罵声を両側から浴びながら警官に連行されているように見えるというわけだ。むろん映像を見る私たち自身も、その下劣な言葉を浴びることを余儀なくされる。
父親は言う。「誰かが犠牲にならなければならない…」。つまり彼は自らが生け贄であることを十分に知っていた。その瞬間、私たちの脳裏をよぎるのは、天皇である。まさしく天皇は、最も尊ばれる存在であると同時に、最も蔑まれる存在であるからだ。いまも皇族は大衆的な人気の的でありながら、一切の人権が保証されていないという事実が、その恐るべき二重性を如実に物語っている。かつての戦争でもそうしていたように、天皇を声高に崇拝する者が、天皇を最も露骨に利用しているのだ。日本国憲法において天皇は主権者である私たち自身の象徴とされているが、この作品においては父親が天皇の象徴なのだろう。
虚構と現実の境界線を溶け合わせる小泉の演出は、確かな批評性に基づいている。反天皇制のデモに対してヘイトスピーチを繰り広げる者たちの卑しい言葉は、父親=天皇に投げかけているようにも見えてしまうからだ。小泉自身が皇居に向かって射撃の身ぶりを見せる最後のシーンにしても、それは文字どおり「無鉄砲」という点でナンセンスな笑いを醸し出す一方、天皇の暗殺を象徴するメタファーであると同時に、天皇を祝福する祝砲であるようにも見えた。呪いの言葉と祝いの言葉が表裏一体であることを、これほど明快に表現した映像はほかにないのではないか。
このような両義的な天皇のイメージは、しかし、イデオロギー的に断罪も賞賛もしがたいという点で、あるいは批判の対象になるのかもしれない。だが、左右のイデオロギーがすでに失墜して久しいばかりか、平成天皇こそがいまや最もリベラルであるという現状を正確に診断することができれば、天皇制を一方的に肯定ないしは否定することがどれほど単純にすぎるかは想像するに余る。小泉にしても、かつて天皇を不可視のイメージとして表現したことがあったが、それは完全な時代錯誤とは言い難いにせよ、現在の政治状況のなかでアクチュアリティーをもつとは到底考えられなかった。天皇はいまや見えつつあるからだ。
だが目元を隠しながら唄う人々が暗示していたように、見ていないのは私たち自身である。ヘイトスピーチの現場を見ていないだけではない。天皇の両義性を直視せず、特定の誰かを生け贄としながら共同体が再生産されている現状にも眼を向けず、ひいては現実と虚構の境界線を確かに問い直すことからも眼を背けている。あの映像を見たときの身体がこわばる感覚は、私たちが世界そのものに眼を向ける第一歩なのではなかったか。

2017/05/03(水)(福住廉)

篠山紀信写真展 LOVEDOLL×SHINOYAMA KISHIN

会期:2017/04/29~2017/05/14

アツコバルー[東京都]

写真家、篠山紀信がラブドールをモデルに撮影した写真を見せた個展。山河や廃墟、あるいは映画館などを背景にした等身大のラブドールの写真と、それらの画像を編集した映像が展示された。
ラブドールの造形的完成度が高いことは、改めて言うまでもあるまい。その技術的達成は、ラブドールの意味を人間と人形の境界線上に押し上げた。それは人間そのものではないが、だからといって人形にすぎないわけではまったくなく、ある種の人間の生にとっては必要不可欠な存在であるという点で、限りなく人間に近い、極めて特殊な意味合いを帯びている。篠山がとらえようとしたのは、そのようなラブドールの曖昧で不確実な両義性である。
むろんラブドールは人間そのものではないから、不自然な人工性が際立って見える作品がないわけではない。身体の圧倒的な美しさに比べると、パターン化されたメイクと質の悪いランジェリーも気にならないわけではない。しかし、それらの難点を差し引いたとしても、ラブドールという人形の人間らしさを打ち消すことにはならない。これはいったい人間なのか人形なのか。
このような視覚的混乱は、おそらくは篠山の戦略的な演出に由来している。というのもラブドールのなかには人間のモデルが混在していたからだ。彼女は不自然なまでに人形らしいポーズを取っていたから、一見すると彼女が人間なのか人形なのかわかりにくい。人間が人形のように見えるし、人形が人間のように見える。私たちの視線は、人間と人形のあいだの曖昧な領域をあてどなくさまようほかないのである。
極めつけは、四肢や頭部を切断されたラブドールの作品。廃墟の中でバラバラに切断されたラブドールたちは、まるで河原温の《浴室》シリーズのようで、あたかも「密室殺人」という惨劇を連想させる。だが、それ以上に強力に醸し出されていたのは、生々しい人間性である。それらはなぜか、人間と同じようにヘアメイクを施したラブドール以上に、人間を感じさせたのだ。ベルメールの球体関節人形がそうであるように、人形の内部構造を露呈させているにもかかわらず、あるいはだからこそと言うべきか、人形の内奥から人間性がにじみ出ているのが不思議でならない。
ラブドールはいまや立体造形の最先端にとどまらず、ポスト・ヒューマンの議論を先取りした造形として評価されるべきではないか。それは、ペットと同じように、人間の「生」にとって必要不可欠な存在でありながら、ペットと違い、そもそも生命を持ち得ていないという点で、「死」とも無縁である。ペットは私たちより先に死にゆく場合が多いが、ラブドールは私たちが死んでもなお、依然として美しいまま佇んでいる。彼女たちに人間らしさや自分たち自身の生を部分的に見出すとき、ラブドールは人間の後に続く、新たな「人間」なのかもしれない。

2017/05/03(水)(福住廉)

三島喜美代展

会期:2017/05/02~2017/05/28

現代美術 艸居[京都府]

ひもでくくられた古新聞・古雑誌、平積みされた少年漫画、商品のロゴマークが入ったダンボール箱、空き缶を満載したゴミ箱など、現代の物質文明を想起させるモチーフをテーマにした陶オブジェで知られる三島喜美代。近年は国際的に評価が高まっている彼女が、久々に地元の関西で個展を開催した。三島はもともと絵画と新聞紙のコラージュを併用した平面作品を制作していたが、1970年代から陶オブジェへと移行した(鉄や樹脂の作品もある)。彼女は陶芸を選択した理由を「やきものは割れる。その不安感が面白い」と言い、古新聞・古雑誌や空き缶といったモチーフは「家の近所の見慣れた風景で、面白いと思った」と述べている。このことから三島は直感的な作家だと類推できるのだが、それでこれだけ一貫性のある質の高い作品を残してきたのだから、美術家の直感恐るべしである。また、本展で興味深かったのは一番奥の部屋に展示されていた《Film 75'》という作品だ。夫を撮影した35ミリネガフィルムをシルクスクリーンでプリントしたフィルム状のオブジェだが、三島の作品にしては珍しくプライバシーに触れている。この作品は存在すら知らなかったので、見られてラッキーだった。

2017/05/05(金)(小吹隆文)

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