artscapeレビュー

2022年04月15日号のレビュー/プレビュー

メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年

会期:2022/02/09~2022/05/30

国立新美術館[東京都]

開催まもない時期に行ったらけっこう混んでいたので、今度は夜間に訪れる。夜間といってもまん延防止等重点措置も解除されたことだし、腐っても(?)メトロポリタン美術館、ある程度の混雑は覚悟していたが、あれれ? がら空き。見やすいったらありゃしない。

「メトロポリタン美術館展」が日本で最初に開かれたのは、ちょうど50年前の1972年のこと。ぼくはまだ高校生で、ワクワクしながら出かけたのを覚えている。会場は東京国立博物館。当時はまだ美術館が少なく、洋の東西を問わず大規模展には東博が使われることが多かった。そのときのカタログを引っ張り出してみると(なんとニクソン大統領がメッセージを寄せている)、出品作品は115点と、今回の65点の倍近い。でも内容的には、古代の彫像から版画、アメリカ絵画まで含めた総花的な紹介だった。今回ベラスケスの《男性の肖像》を見て懐かしさを覚えたのは、半世紀前にも見て痛く感動した記憶が蘇ったからだ。ちなみに当時の表記は「ヴェラスケス」の《芸術家の肖像》。画家自身の自画像と見られていたようだ。ほかにも数点の作品が重複している。

会場に入って最初に出会うのが、カルロ・クリヴェッリの小品《聖母子》。非現実的な描写のなかで、左下に止まったハエの存在だけは妙にリアルだ。正面にティツィアーノの《ヴィーナスとアドニス》。男女のひねった身体の絡みはティツィアーノの得意とするところだが、このヴィーナスの姿勢、ちょっと無理じゃね? 右足があらぬ方向に曲がってますよ。隣の小部屋にはディーリック・バウツ、ヘラルト・ダーフィット、ヒューホ・ファン・デル・フースら北方の画家たちによる珠玉のような小品が並ぶ。これはフェティシズムをくすぐられる。次のバロックの部屋にはベラスケスの《男性の肖像》をはじめ、カラヴァッジョ《音楽家たち》、ラ・トゥール《女占い師》、フェルメール《信仰の寓意》など目玉作品がずらり。《女占い師》の色調に合わせたのか、鮮やかな朱色に塗られた壁はバロック美術の華やかさを強調するが、さほど気にならない。

展示の後半は、シャルダン、フラゴナール、ターナーなどいくつかの佳品はあるものの、印象派になると明らかに精彩を欠いていく。モネの《睡蓮》などほとんど目が見えない状態で描いたんじゃないかと思えるほど(それはそれで興味深いが)。これならルネサンスとバロックだけで十分という気がする。それほど粒よりの作品が集められているのだ。おいおいこんなに持ってきて大丈夫かよって心配になるくらいだが、そこは天下のメトロポリタン美術館。ベラスケスなら《フアン・デ・パレーハ》、ティツィアーノなら《ヴィーナスとリュート弾き》、フェルメールなら《水差しを持つ女》といった、より評価の高い作品はちゃっかり温存しているのだ。だからこの展覧会を見て「メトロポリタン美術館はすばらしい」と感動してはいけない。「メトロポリタン美術館はもっともっとすばらしい」と想像するのが正しい鑑賞法だろう。


公式サイト:https://met.exhn.jp

2022/04/01(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00059974.json s 10174567

オノデラユキ「ここに、バルーンはない。」

会期:2022/03/19~2022/04/09

RICOH ART GALLERY[東京都]

パリに住んで30年近くになるオノデラユキの個展。キャンバス上にプリントを貼った7点の連作で、いずれも街角を撮ったモノクロ写真の上に、黄色っぽい絵具がベットリと付着している。街の上空に出現した粘体性のエイリアン? というよりは、写された風景写真に覆いかぶさった次元の異なる異物といったほうがいい。汚いたとえだが、写真の上に吐き出されたゲロみたいな(笑)。

そもそもこの作品をつくるきっかけは、1900年初めに撮られた1枚の写真だという。パリの街角を撮ったもので、中央に人がたくさん集まって頭上のバルーンを支えるブロンズのモニュメントが写っている。モニュメントの作者はニューヨークの自由の女神像と同じ、オーギュスト・バルトルディ。ところが現在、そんなモニュメントはパリのどこにも見当たらないので調べてみたら、第2次大戦中に解体され、溶かされて武器かなにかに変えられたらしい。そこでオノデラはモニュメントのあった広場に行き、周辺の風景を撮影。拡大したプリントをキャンバスに貼り、その上からリコーの技術で2.5次元のレリーフ印刷を可能にする「ステアリープ」プリントによって、例の黄色い「ゲロ」を定着させた。

それはオノデラによれば、「『溶けて無くなった彫像』の不在を呼び戻すような行為」だという。だが、こうもいえないだろうか。ブロンズ彫刻は溶かせば武器や弾薬に再利用できるが、写真や絵画は燃やせば灰になってなにも残らない。その驚きと無力感のない交ぜになった不条理な感情が、この不定形なかたちを生み出したのだと。日常的な風景写真と異次元の妖怪=溶解物との出会い。実存の不安に嘔吐したロカンタンではないが、「ゲロ」のたとえもあながち的外れではないかもしれない。

関連レビュー

オノデラユキ「ここに、バルーンはない。」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年04月15日号)

2022/04/01(金)(村田真)

TDC 2022

会期:2022/04/01~2022/04/30

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

文字の視覚表現を軸にした、グラフィックデザインの国際賞「東京TDC賞2022」の展覧会が今年も開催された。執筆、編集の仕事をしている身としては、文字のデザインへの興味はずっと尽きないのだが、今年のグランプリを目にして驚いた。その変化球ぶりに、である。それはNHKの番組「名曲アルバム+(プラス)」のために映像作家の大西景太が手がけた、マヌエル・カルドーゾ作曲の合唱曲「レクイエム」を視覚化した映像作品だった。私はこのテレビ番組を知らなかったのだが、「新進気鋭のクリエイターが名曲を独自の解釈と手法で映像化する」番組とのこと。その試み自体が面白いではないか。



「レクイエム」はソプラノ、アルト、テノール、バスなど6人の歌い手による無伴奏の合唱曲で、ポリフォニー(多声音楽)の様式を採る。大西は歌い手の声に着目し、なんとそれぞれの声を筆記体の文字(歌詞)に置き換える表現を行なった。つまり音の高さや長さに合わせて、文字が滑らかに動いて進むアニメーションとしたのだ。黒背景のなか、複数の白抜き文字がすらすらと流れていく様子は、観ていて実に心地が良かった。これら筆記体の文字は基本的には一筆書きなのだが、まるで文章を終えるように、途中でひと区切りする場面がある。これは歌い手の息つぎの瞬間で、つまり1本の描線をひと息として表現したのだという。

人間の声のメタファーとして人間の手が綴る文字を選んだ点に、私はとても共感を覚えた。いずれも素朴な身体的パフォーマンスと言えるからだ。昨今はコンピューターによる音声合成技術「ボーカロイド」の活用が盛んで、若者を中心に大流行りしている。こうした時代だからこそ、逆に鍛練された肉体的な美や芸術を求めたくなる。そんな気持ちに寄り添ったような作品だった。

一方、フランスの銅版彫刻文字を題材にしたデジタルタイポグラフィー「Altesse」がタイプデザイン賞を受賞しており、そこにも人間の手による美しい綴りへの憧憬や愛を感じて止まなかった。ところでわが国の中学校の英語授業で、近年は筆記体の読み書きを教えなくなっていると聞く。筆記体を習得した世代としては、この先、彼らが不便を感じないのかとやや不安に思う。私自身、筆記体を覚えるのは最初こそ面倒だったが、いったん身につけてしまうと書くのが楽しかった思い出がある。グランプリの映像作品を見るうちに、筆記体を一所懸命に書いていた当時の記憶さえもふと蘇ってきた。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー1階[撮影:藤塚光政]


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリーB1階[撮影:藤塚光政]



公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/gallery/ggg/jp/00000786


関連レビュー

TDC DAY 2020|杉江あこ:artscapeレビュー(2020年05月15日号)

2022/04/02(土)(杉江あこ)

artscapeレビュー /relation/e_00060546.json s 10175469

伊藤義彦「フロッタージュ─フィルムの中─」

会期:2022/03/23~2022/04/28

PGI[東京都]

5年ぶりだという伊藤義彦のPGIでの個展には意表を突かれた。そこに並んでいたのは写真のプリントではなく、凹凸のあるものの上に紙を置いて鉛筆で擦り、その形を浮かび上がらせるフロッタージュの手法で制作された作品だったからだ。

伊藤は撮影済みのネガをプリントする段階で手を加え、新たなイメージへと再構築していく作品をずっと作り続けてきた。ところが、愛用していた印画紙が市場から姿を消したことで、それ以上作品制作を続けることができなくなった。途方に暮れながら、残されたフィルムの断片をいじっているうちに、そこに規則正しく並んでいるパーフォレーション(フィルムの穴)の形を、そのままフロッタージュで写しとることを思いついたのだという。

そうやってでき上がった本作は、フィルムという媒体に対する愛着だけでなく、伊藤が本来持っていた造形作家としての構想力を全面的に開花させたようだ。シンプルだが、味わい深いフィルムのフォルムが紙の上で自由自在に結びつき、伸び広がり、融通無碍な画面が形づくられていく。フィルムだけでなく、切り紙や丸い穴が空いたテンプレート、蝶の形のオブジェなども使って、遊び心あふれるミクロコスモスが織り上げられていた。

その楽しげな作業の集積を見ていると、思わず顔がほころんでくる。伊藤自身にとっても思いがけない展開だったのではないかと思うが、この仕事はいろいろな方向に動いていく可能性を持っているのではないだろうか。

2022/04/02(土)(飯沢耕太郎)

libido:Fシリーズ episode:03『船の挨拶』

会期:2022/04/01~2022/04/10

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

libido:の所属俳優によるひとり芝居シリーズ「libido:F」が鈴木正也出演のepisode:03『船の挨拶』をもって完結した。古典落語をもとにした『たちぎれ線香』、筒井康隆の短編小説を演劇として立ち上げた『最後の喫煙者』と続いた同シリーズのラストを飾ったのは、1956年に三島由紀夫自身の演出によって文学座で初演された短編戯曲の上演だ。

舞台はある小さな島に立つ灯台の足もと、崖の上に立つ見張り小屋。そこに詰める灯台守の青年は、独り窓から海を眺め、船の通過を報告することを業務としている。船とのあいだに交わされるのは信号旗による儀礼的な挨拶のみ。そんな我が身を「若い身空をこの小さな島にとぢこもって」「俺は一体何なんだ?」と省みる青年は「船が、まつたく船がよ、ほんのちょつと、俺に感情を見せてくれたらなあ。ほんのちょっと、でいいんだ。好意ぢやなくたつていい。悪意だつて、はつきりした敵意だつて……。さうしたら! 俺と船とは、俺と太平洋とは、俺と世界とは、いつぺんにつながるんだが……」と夢想する。と、海峡の真ん中に停泊する見慣れぬ黒い船。甲板に出てきた水夫はどうやら見張り小屋に向けて銃を構えているらしい。それを見た青年は「狙へ」「射つんだ」と身を晒してみせる。応じるように放たれる銃弾。暗転した舞台から「待つてゐたものが、たうとう来たんだ」と途切れ途切れの声が聞こえ、やがて静寂が訪れる。


[撮影:畠山美樹]


演出の岩澤哲野は上演にあたってこの戯曲に二つのレイヤーを加えている。ひとつ目は、青年のモデルとなった灯台守に三島が宛てた手紙や回想録などに記された言葉。もうひとつは、もとは社員寮の一室であるせんぱく工舎F号室という場所でこの戯曲を上演しているという現実それ自体だ。言い換えれば、libido:版『船の挨拶』の上演には、戯曲というフィクションの前後にある取材/執筆と上演という二つの現実が折り込まれているのである。

冒頭、舞台奥の掃き出し窓から鈴木が入ってくる。どこからか飛んできた紙飛行機を開くとそれは手紙のようで、そこには「あの島は忘れがたい島である」からはじまる言葉が連ねられている。手紙を読み上げた鈴木はそれを再び紙飛行機のかたちに折り客席へと放るが、紙飛行機は舞台と客席とを仕切るアクリル板にバツンと音を立てて衝突する。その瞬間、窓の外にガラガラとシャッターが降り舞台は闇に閉ざされる。上演はこのようにしてはじまる。


[撮影:畠山美樹]


舞台奥に窓があるのは戯曲の指定であり、青年は本来、ここから海を見張ることになっているのだが、岩澤はその窓を冒頭で閉ざしてみせることで外界との隔絶を強調する。鈴木の衣装は戯曲が指定するワイシャツではなく部屋着のようなゆったりとしたものであり、室内のところどころには白い紙で折られた船が置かれている。libido:版の上演はその全体が自室で過ごす青年の夢想のようにも見えるのだ。

その夢想を中断するように時折「外」から舞い込んでくるのが紙飛行機だ。そこに記された三島の言葉は「島」の暮らしとそこに住む人々を称賛するようでいて、しかし無意識に「島」を下に見ているようなニュアンスも滲む。「僕の今一番ほしいのは時間で、君の時間をわけてもらへたら、今みたいにコセコセした仕事でなく」云々。灯台守の青年の外の世界への憧れと三島の「島」へのまなざしはすれ違っている。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]


見張り小屋に流れる弛緩した時間と灯台守の倦怠を立ち上げる鈴木の演技は巧みだ。そこにはインターネットを通じて世界の情報を仕入れながらコロナ禍を自室で過ごす人々の姿が、そして島国・日本の姿が重なってみえる。そしてそれは何より、青年を演じる鈴木の、演出の岩澤の、この作品を上演するlibido:の似姿でもあるだろう。

再び明かりがつくと、銃弾に倒れたはずの青年がそこに立っており、シャッターを開けて窓の外の世界へと出ていく。私と世界との交流はしばしばすれ違い、それはときに傷となる。戯曲に描かれた灯台守は世界からの反応があったことに満足して死んでいくが、libido:版の青年は傷を受けながらも再び外の世界へと出ていく。コロナ禍においてlibido:が選択したのは、拠点とするせんぱく工舎F号室で所属する俳優と演出家とが一対一で向き合う「libido:F」シリーズを展開し、自分たちの活動を見つめ直すことだった。そのシリーズの締めくくりとしてこれ以上ふさわしいラストシーンはない。窓の外には神戸船舶装備の工場が見えている。せんぱく工舎の名前の由来にもなったそこは船の内装などを手掛ける会社であり、libido:のロゴにも外界へと漕ぎ出す船の姿が描かれている。外に出ていく鈴木の姿に、それができる世界への願いと、社会のなかで、松戸という街に拠点を置いて活動をしていくのだというlibido:の改めての決意表明を見た。


[撮影:畠山美樹]



[撮影:畠山美樹]



libido::https://www.tac-libido.com/


関連レビュー

libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)

2022/04/03(土)(山﨑健太)

2022年04月15日号の
artscapeレビュー