artscapeレビュー
路上と観察をめぐる表現史──考現学以後
2013年03月01日号
会期:2013/01/26~2013/04/07
広島市現代美術館[広島県]
考現学から路上観察学会へ至る表現活動を歴史化した展覧会。大正時代における今和次郎や吉田謙吉らによる考現学にはじまり、50年代の木村荘八、岡本太郎、60年代末から70年代にかけてのコンペイトウ、遺留品研究所、そして80年代の路上観察学会、大竹伸朗、都築響一、さらに90年代のチーム・メイド・イン・トーキョー、ログズギャラリー、00年代の下道基行まで、文字どおり路上と観察をめぐる表現の系譜を描いてみせた。従来のモダニズム一辺倒の歴史観に対して、オルタナティヴな歴史のありようを提示した、きわめて画期的な展覧会である。
展示されたのは「作品」には違いないが、それは自己表現の産物としての「作品」というより、むしろ「路上」の「観察」にもとづいた「報告」に近い。だから、考現学にしろ路上観察学会にしろ遺留品研究所にしろ、それらの「作品」には非常に微細な情報が盛り込まれており、来場者はひとつずつ丁寧にそれらを読み解くことになる。その膨大な情報量は心地よい疲労感を味わわせるほどで、見れば見るほど、いや読めば読むほど、じつに楽しい。
だからといって、それらがたんなる「報告」に過ぎないかと言えば、必ずしもそうとは限らない。今和次郎や吉田謙吉らによるスケッチは構図や線、色、絵と文字のバランスなどが秀逸であるし、そうした手わざの技術的センスは写真が代行することよって次第に失われていくが、シャッターを切るべき対象を見抜く視線のセンスは、路上観察学会や都築響一、下道基行による写真を見る限り、考現学以後もたしかに継承されていることがよくわかる。平たく言えば、おもしろい物なり人なりを「発見」する研ぎ澄まされた感性こそ、路上と観察をめぐる表現史の核心なのだ。
歩行と発見、観察、記録。このような表現のありようは、現代アートにおいて自明視されている、自我の内発的な必然性から表出された自己表現という表現の様態とは、明らかに異なっている。これを、たしかな歴史的な背景とともに打ち出したことの意義はとてつもなく大きい。自己表現の隘路と限界に苛まれている私たちに、それはもうひとつの選択肢を提供するからだ。本展には含まれていなかったにせよ、たとえば現在の坂口恭平や山下陽光らによる「発見」のアートは、間違いなくこのような歴史的系譜に位置づけられるのである。
とはいえ、細部の構成については難点がないわけではない。本展において考現学のスケッチは、木村荘八や岡本太郎らによる写真に一気に飛躍するかたちで継承されていたが、この手わざと写真撮影のあいだには、じつはイラストレーションにおける豊かな成果が隠されている。60年代後半に「イラスト・ルポ」を確立した小林泰彦や70年代に「エアログラム」を制作した堀内誠一、「河童が覗いた」シリーズの妹尾河童などは、考現学的な視線と手わざの忠実な後継者として考えられるからだ。とりわけ、小林泰彦は本画とともに挿絵画家としても知られた木村荘八に私淑していたのだから(『美術手帖』2010年1月号、p.111)、木村/小林ラインの欠落は否応なく気になる。
路上と観察をめぐる表現史には、少なくとも戦後美術を再構成する契機がある。その可能性をできるだけ押し広げていくことが、本展以後の課題なのだろう。
2013/01/26(土)(福住廉)