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維新の洋画家──川村清雄

2013年04月01日号

会期:2013/02/09~2013/03/27

静岡県立美術館[静岡県]

旗本の子であった川村清雄(1852~1934)は、明治維新に際して徳川家達に従って静岡に移った静岡ゆかりの画家である。明治4年には徳川家の援助を受けてアメリカ、後にヴェネツィアで絵を学び、明治14年に帰国。もっとも早い時期に海外で油彩画の技法を学んだ画家のひとりである。その作品の特徴は、油彩画の技術を極めながらもモチーフや構図、描線が日本画的である点にあろう。絵の支持体もカンバスばかりではなく、絹地、漆器、板、黒繻子の帯にまで及んでいる。和洋折衷、あるいは和魂洋才と呼ばれる所以である。明治40年の東京博覧会における審査官辞任以降は画壇と距離を置き、その没後はなかば忘れられた画家とされてきた。しかし、ご子息の清衛氏(2002年没)の努力と、明治美術学会の活動により、近年になって作品・資料の調査が進み、1994年には静岡県立美術館で最初の回顧展が開催されている(1994/8/13~9/25)。今回の展覧会は、清衛氏の没後に寄贈された川村家資料を所蔵する江戸東京博物館との共催による文献資料の渉猟と作品研究の両面からの最新の研究成果である(本展図録は美術館連絡協議会2012年の「優秀カタログ賞」を受賞した)。東京展では歴史に重点をおいた展覧会という印象があったが、静岡展では絵画作品の展示に重点がおかれ、オルセー美術館から里帰りした《建国》(1929)を含め、広い展示室でゆったりと鑑賞することができた。
 日本絵画史では長らく忘れられた画家とされてきた川村清雄は、存命中は貧しく暮らし、遅筆ゆえに一部に悪評はあったものの、作品が残り、再評価が可能になった背景には同時代の支援者たちの存在がある。勝海舟や徳川家達、小笠原長生など徳川家ゆかりの人々のほか、経済学者の和田垣謙三や、出版社至誠堂の加島虎吉などの支援があってこそ、清雄は独自の絵画を追求することができた。春陽堂や至誠堂との仕事は経済的な支えとなったばかりではなく、文学者たちとの繋がりをもたらした。彼らが清雄の作品に魅了されていたのはもちろんのことであるが、その人物にも大いに惚れ込んでいたようである。明治32年の個展開催に尽力したのは橋本雅邦であった。昭和2年の展覧会発起人には和田英作、岡田三郎助、藤島武二らが名を連ね、最終日には東伏見宮妃が観覧に訪れている。聖徳記念絵画館の80枚の壁画の制作を委嘱するにあたって、川村清雄は最初に名前を挙げられた画家であり、彼は10年近い歳月をかけて大作《振天府》(1931)を完成させている。清雄を推挙したのは明治神宮奉賛会会長でもあった徳川家達であった。こうした川村清雄の作品づくり、人間的魅力を知ることができる第一の文献は木村駿吉の『川村清雄 作品と其人物』(私家版、大正15年)であろう。稀覯書ではあるが、近代デジタルライブラリーで閲覧可能である。[新川徳彦]

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