artscapeレビュー

2011年06月01日号のレビュー/プレビュー

モホイ=ナジ/イン・モーション

会期:2011/04/16~2011/07/10

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

歴史的な芸術家の展覧会を見ていて常々思うのは、そこで展示されている「作品」がはたしてほんとうに「作品」なのかどうかということだ。とくに芸術家が撮影したプライベートなフィルムなどを見ると、その疑いがますます大きくなる。本展でもモホイ=ナジによる映像が数多く展示されていたが、新たなテクノロジーへの好奇心こそ感じ取れるにせよ、それ以上の意味と価値を見出すことはなかなか難しい。のちのビデオ・アートは好奇心を出発点としながらも、たんなる技術論を越えて、ビデオ・アート独自の表現に到達したが、本展の場合は、ただただ旅先での風景や街の日常をとらえた映像がひたすら続くことに終始しているようにしか見えない。とはいえ趣味的な映像が「作品」に当たらないわけではない。問題なのは当人がそこに「作品」としての価値を認めていたかどうかとは別に、それらを展覧会に「作品」として位置づける学芸員や研究員の言説的な枠組みである。偉大な芸術家が手がけたものを、すべて「作品」として並べるだけであれば、キュレーションなど有名無実の流れ作業にすぎなくなる。なぜ「作品」として展示するのか、その根拠を丁寧に説明してはじめて、学芸員の本領が発揮されるといえるのではないか。

2011/05/01(日)(福住廉)

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田辺由美子 展「After dish─皿の後─」

会期:2011/04/23~2011/05/08

應典院[大阪府]

自分が食したり商店で分けてもらった魚の骨を下処理して、群青色の毛氈の上に美しい模様を描き出した作品を展示。ほかには、魚の頭骨を分解して左右対称に並べた作品や、煮干しの頭部を用いた作品もあった。どれも驚くほど美しく、素材に気付くまでは優雅さを感じたほどだ。彼女の作品を見たのは約4年ぶりであり、その時の卵をモチーフにした作品とは全然違うが、鮮やかな手際は相変わらずだった。

2011/05/02(月)(小吹隆文)

佐藤貢 展

会期:2011/04/27~2011/05/15

iTohen[大阪府]

和歌山の海岸で拾った漂流物を用いて、詩的なジャンクアートを制作していた佐藤。その後、名古屋に居を移し、昨年に開催した個展では環境の変化もあってか、ドローイングを発表して観客を驚かせた。次はどんな世界を見せてくれるのか、興味津々で待っていたのだが、彼の返答は再びジャンクを用いたオブジェを制作することだった。以前とは環境が違うため素材には変化があり、ガラスやメモ片を多用しているが、作品から醸し出される空気感は以前と変わらない。私自身はこの作風の方が彼らしく思えた。一方で、ドローイングの展開が気になるのも確か。別の機会に新作のドローイングも見たいものだ。

2011/05/05(木)(小吹隆文)

勅使川原三郎『サブロ・フラグメンツ』

会期:2011/04/30~2011/05/08

川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場[神奈川県]

闇に飛び散る火花のよう。激しく、素早く、独特の規則性のもとで躍動する身体。バレエでも、モダンダンスでも、舞踏でもない、その規則性には、永らく探究を続けてきた勅使川原三郎でなければ到達できない地点の高さが感じられ、圧倒された。身体のくねりの内に形や速さのみならず力のダンスが感じられる勅使川原本人も、また素早くしなる腕で幾重にも残像が現われ異形化する佐東利穂子も魅力的だが、若いダンサーたちが踊ったとたん、場が目覚ましく変化したように見えた。肉体の衝動と与えられた振り付け(ダンスのアイディア)とが拮抗しながら突き進んでいる気がした。なにより全体として強く印象に残ったのは、この「火花」のような運動を「人力」で行なっていること。身体を用いるダンスが人力なのは当たり前ではあるけれど、映像の技術が高度化しまた簡便化した時代に、身体を映像によって表現する代わりに「舞台で踊る」ことはあえてその手段を選択した結果である。ならば「あえて人力で行なう」ことの内に、ダンスを踊る今日的意味が問われるべきだろう。陳腐な言い方だけれど「そこに生きて躍動する人が居る」という事実から見る者が得る喜びは、そのひとつに違いない。
生きる身体の躍動の合間に、ぽつんと孤独にしゃがみ込むさまも差し挟まれ、それも印象的だと思っていると、終わりのほうで「浜」のイメージやそこに「ぽつんとしゃがむ人」またそこに「横になる人」のイメージが出てきて「ひやっ」とした。勅使川原は、東日本大震災以後、準備してきた内容を変更したのだという。この未曾有の事態を表現するのはまだ時期尚早ではないか。けれども、踊る身体の内に情報やイメージや思いが満ちて扱わずにはいられない「身につまされる感じ」もわからなくはない。

2011/05/06(金)(木村覚)

5.7原発やめろデモ!!!!!!! 渋谷・超巨大サウンドデモ

会期:2011/05/07

渋谷一帯[東京都]

2011年4月10日の高円寺に引き続き、素人の乱が中心になって組織した「原発やめろデモ」の第二弾。小雨が降りしきるなか、高円寺と同じ15,000人あまりが参加した。警察によって細分化された結果、高円寺ほどの群集を体感することはできなかったにせよ、それでもサウンドカーが何台も投入され、渋谷の街を大音響で染め上げた迫力は凄まじかった。デモというと、いまだに特殊な人びとが行う迷惑行為という印象が根強いが、今回のデモはふつうの若者が集まる街を歩いたせいか、そうしたステレオタイプを見事に一新したように思う。車道を歩く人びとと歩道から眺める人びとのあいだを区別する境界はほとんど感じられなかった。同じ空気を吸って生きているのだから当たり前といえば当たり前の話だが、デモという集団的な表現形式が社会に定着しつつあることの意義は少なくない。途中からデモに加わってもよいし、ある程度音楽に満足したら別のサウンドカーに移動すればよい。言ってみれば、ステージも客も移動する野外フェスのようなものだ。しかも費用は、被災地への義援金と、デモを組織するために必要な資金へのカンパだけ。これを黙って見過ごすのは、あまりにももったいない。放射能の恐怖に素直に怯えつつ、しかし同時にその中で楽しむ術を共有してこそ、まさしく同時代のアートといえるのではないか。

2011/05/07(土)(福住廉)

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