artscapeレビュー

2012年03月01日号のレビュー/プレビュー

松田啓佑 個展 WORDS LIE III

会期:2012/02/03~2012/02/26

eN arts[京都府]

松田の作品の特徴は、得体の知れない強烈な存在感だ。それはマッス、ボリューム、物質性といった美術業界御用達用語では形容し難いもので、私が初めて彼の作品を見たときはウンコの塊としか思えなかった(注:悪口ではない)。彼の作品を見るのはこれで4度目だと思うが、新作にはいままでにはなかった流麗なストロークが導入されており、それでいながら異形の存在感も失われていないのが頼もしい。彼の作品世界がどこまで更新されて行くのか、今後の展開が大いに気になる。

2012/02/12(日)(小吹隆文)

Viewpoints いま「描く」ということ

会期:2012/02/04~2012/02/26

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

最近、充実した展覧会を立て続けに催している横浜市民ギャラリーあざみ野の企画展。「描く」という手わざを共通項に、淺井裕介、椛田ちひろ、桑久保徹、吉田夏奈による作品を、それぞれ自立した空間で展示した。泥絵で知られる淺井は、マスキングテープや紙ナプキンなどの日用品を素材にしたドローイングのほか、近頃熱心に取り組んでいるという陶芸作品や、既成の文字を切り貼りしたレタリングの作品などを発表して新境地を開いてみせた。ボールペンの描線を無限反復させることで、シンプルな楕円を描き出す椛田は、それらを描いた長大なロール紙を周囲の壁面に張り巡らせた。吉田もまた無限に増殖させることが可能なパノラマ絵画のほか、会場を瀬戸内海に、立体模型を小豆島に見立て、その表面に島の風景を描き込んだ新作を発表した。そして近年評価が高まっている桑久保は、夢幻的な海岸の光景を描いた新作のほか、アトリエを再現したインスタレーションも見せた。モダニズム絵画論が明らかな失敗に終わり、新たなムーブメントに突破口を見出すこともできずにいる今日の絵画の状況は、絵を描く者にとっても絵を見る者にとっても、「描く」という単純明快な原点に立ち返る機運を高めつつある。そうしたなか、手の赴くまま自然に描く淺井や、偏執的かつ求心的に描く椛田、分裂的かつ遠心的に描く吉田、そして戦略的に考え抜いたうえではじめて描くことを正当化する桑久保という4つのアプローチをバランスよく見せた企画者の手腕は、高く評価したい。

2012/02/12(日)(福住廉)

サカイトシヒロ:ティーヴィーショウ

会期:2012/02/13~2012/02/25

天野画廊[大阪府]

映像作家のサカイトシヒロが、約25年前の初期作を含む自作品をオムニバスにした作品集(約30分)と、彼がネットで検索して見つけ出した注目作品をまとめた作品集(約30分)の2本立てで展覧会を開催した。珍しいパッケージの展覧会なので、まずはそのこと自体に感心。映像作品は可変性があるので、工夫次第でさまざまな見せ方ができる。本展はその見本と言えるだろう。肝心の作品では、サカイが本展のために制作した新作《レンズ》が素晴らしかった。新種のインテリアとして家の壁に投影したいと思ったほどだ。今後は展覧会と同時にDVDの制作・販売を行なう手もあるだろう。

2012/02/13(月)(小吹隆文)

ルドンとその周辺──夢見る世紀末

会期:2012/01/17~2012/03/04

三菱一号館美術館[東京都]

岐阜県美術館が所蔵する250点を超えるオディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840-1916)のコレクションから139点が出品される巡回展(2011年9月6日~10月10日@浜松市美術館、2011年10月15日~11月13日@美術館「えき」KYOTO)。これらの作品に加え、三菱一号館美術館では大作《グラン・ブーケ》を見ることができる。展示は3部から構成される。「第1部:ルドンの黒」から「第2部:色彩のルドン」へと作品と手法の変化を追い、また「第3部:ルドンの周辺」において同時代の象徴主義の画家たちの作品を紹介する。「色彩のルドン」に位置づけられる《グラン・ブーケ(大きな花束)》(1901)は、ルドンの後援者であったドムシー男爵が城館食堂の装飾としてルドンに制作を依頼した16点の作品のひとつ。他の作品が相続税の物納として城館を離れた後も、《グラン・ブーケ》だけは食堂に残されていた。この作品を2010年に三菱一号館美術館が取得。パリでの公開(2011年3月)を経て、今回の展覧会で「日本初公開」となった。「色彩のルドン」のなかでも《グラン・ブーケ》が特別なのはその大きさである。248.3×162.9cmのサイズは「世界最大級のパステル画」なのだそうだ。ほの暗い展示室に浮かび上がる色鮮やかな花束に、しばし圧倒される。
 デザイン・レビューを担当する筆者がルドン展のレビューを書くのには訳がある。2011年10月、ルドン展告知のチラシ配布がはじまり、ウェブサイトで予告サイトが公開されると、そのデザインとキャッチコピーが美術ファンたちを驚かせたのである[図1]。一部分を拡大した《グラン・ブーケ》に重ねられた「チープな」タイポグラフィ。予算不足のために手作りしたのかと心配する問い合わせもあったという。プロモーションを担当したのはデザイナーの北川一成。強烈なインパクトを与えるコピーは大宮エリー。12月半ばから配布された第2弾のチラシ[図2]とポスターは、当初よりは大人しくなっているものの、やはり異色のデザインである。ネット上でも話題になったことで、「はてな」が取材(2011年10月17日)。12月1日には『読売新聞』が「美術展チラシ 究極のチープ感」と題した記事を掲載した(朝刊、28頁)。開幕後の1月26日には、『東京新聞』が同館館長高橋明也と北川一成との対談を掲載(夕刊、10頁、記事広告)。また、北川一成を特集したデザイン誌『アイデア』351号(2012年2月)も同館に取材するなど、このプロモーションは大いに注目を集めることとなった。
 インターネットを検索すると、このデザインに対しては少なからず批判を見ることができる。しかし、「批判がくるであろうことも織り込み済み」(『読売新聞』記事)とあるとおり、思いつきや、デザイナーとの意思疎通が不十分なためにこのデザインが生まれたのではなく、背後には明確なロジックが存在する。同館広報担当の酒井英恵さんのお話によると次の通りである。まず同館には美術ファンばかりではなく、丸の内エリアなどで働く若い人々に足を運んでもらいたいという目的がある。また、チラシやポスターなどのプロモーションでは、展覧会を見る前に作品に対して既視感を与えないようにしたいという。これらは今回の展覧会に限らず、同館の一貫した方針である。画家や作品を知らない人々に来てもらいたい。ネットの画像や印刷物で満足するのではなく、実物を見てもらいたい。他方でそれらのメディアを利用しなければいけない広報は、常に矛盾した課題を抱えている。本展に限定すると、最大の目玉は《グラン・ブーケ》。「日本初公開」の作品であり、見てほしいけれども、事前に知ってもらいたくない、という意識が強かったようだ。もうひとつの課題は集客である。先行して開催された浜松展と京都展の入場者数が芳しくなかったことで、プロモーションの強化が望まれていた(ただし、両会場では《グラン・ブーケ》は出品されていない)。

1──「ルドンとその周辺」予告チラシ
2──同、第2弾チラシ

出来上がったチラシは作品の一部を極端に拡大し、ディティールは見えるが全体は謎。否応なく期待感を煽るコピー。スルーすることを許さない強烈な印象を与える。第2弾チラシとポスターでは紙面の中心に小さく《グラン・ブーケ》のスナップ写真が配置され、作品の大きさを伝えるためにサイズが示されている。写真には作品を見上げる人物の影が写り込み「大きな花束」のスケール感を強調しているが、影の主は高橋館長という仕掛け。その他、岐阜県美術館の充実したルドン・コレクションを紹介するために、第2弾のチラシの裏面は4種類が用意され、それぞれ異なる作品が合計18点掲載されている。北川一成のデザインは、与えられた課題に真正面から、それも極めてベタな表現で応えているのである。
 賛否があるとすれば、その「ベタな表現」に対してであろう。しかしながら、それはキュレーターとデザイナーによるルドンの解釈でもある。シュールレアリスムにも影響を与えた象徴主義の画家。「黒」から「色彩」への変化。北川はルドンを「常に挑戦し続けたパンクな人だと思っている」と述べ、また高橋は「表現に対する革新的な姿勢は、ルドンと北川さんに共通するところ」と応じている(『東京新聞』記事)。
 ルドン展のチラシが話題となったのと同じ頃、千葉市美術館の「曾我蕭白と京の画家たち」展(2012年4月10日~5月20日)のキャッチコピー「蕭白ショック!!」とその漫画的な描き文字も話題となった[図3]。紙面の半分が墨一色のテキストで埋め尽くされたジャクソン・ポロック展(東京国立近代美術館、2012年2月10日~5月6日)のポスターやチラシもある[図4]。美術展の企画は、優れたキュレーションに加え、展覧会になじみのない層にアピールするために、これまでになくデザインの力を求めているのである。美術展を取りまく環境を考えれば、ルドン展のプロモーションは異色ではあるかもしれないがけっして特異なものではなく、極めて同時代的な現象のひとつといえるのではないだろうか。[新川徳彦]

3──「曾我蕭白と京の画家たち」チラシ
4──「ジャクソン・ポロック」チラシ

2012/02/17(金)(SYNK)

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快快『アントン、猫、クリ』

会期:2012/02/16~2012/02/20

nitehi works[神奈川県]

快快の作品で、もっとも方法的な実験が試みられている本作。今回二度目の再演となったように、快快たちは本作での実験作業がとても楽しいようだ。目下パーティ・ピープルとしての認知度が高い彼らだけれど、登場した当初(とくに小指値時代)はなにより、ポスト・チェルフィッチュを強く感じる方法を見せた劇団であった。かつてぼくは彼らの方法を「あて振り」と呼んで論じたことがある(『レビューハウス』No.01にて)。あて振りとは、歌の文句に即して身振り動作で具体的に表現することを指す日本舞踊の用語。たいてい歌い手と踊り手が分かれている日本舞踊において踊り手の動作が歌詞を図解して見せるやり方があるように、1人がひとつの役柄を担う演劇の約束ごとを中断したうえで、快快の役者たちは身体で台詞のイメージ化を行なうのだ。
 例えば、本作において「雨、雨、雨、雨……」と口ずさみながら、それぞれ雨の動きや質感を役者たちが体で表現する。その際の台詞は登場人物の発言というよりも、多くがいわばト書きにあたる言葉である。舞台上の4人は、小道具の少ないシンプルな舞台を小刻みに動き回りながら、一般的な芝居ならば書き割りがはたしている情景の描写に多くの時間を費やす。次々変化して行く景色を人力で描いていくさまはそれ自体で面白く、各人の芸達者振りも加わって、器用な動きで魅了される。こうした方法は、台詞から溢れでてくる無意識の身体動作を拾い上げたチェルフィッチュの方法と、台詞とはほぼ無関係に独自の様式性をおびた身体動作(ほとんどそれはダンス)を行なうニブロールのそれとの、中間にあるといえそうだ。
 台詞と身体動作の関係をこうとらえてみると、チェルフィッチュは台詞の内容に動作の必然性を求め、ニブロールは動きの様式性に動作の必然性を求めていることが判る。快快は台詞の側にも動きの様式の側にも必然性を求めていない。あえて特定するなら必然性はジェスチャーを発案する役者各人の内にある。古い例で恐縮だが、役者の振る舞いはNHKの番組『連想ゲーム』にあったようなジェスチャーゲームに似ている。ジェスチャーゲームでは演技者が身振りで回答者に言葉を連想させるわけだが、本作の場合、役者は身振りを行ないつつこの例えで回答にあたる言葉も発している。答えがあらかじめ判っているジェスチャーゲームであるなら、身振りはつねに余剰と化す。ここがこの方法の難しさだ。「余剰としての役者」を主題化するのも手で、確かに役者の力量が目立っているのは、そうした方向からのひとつの帰結と言えなくもない。役者の力量がきわだつということは、あて振りの生み出す造形が、このかたちや動きでなければならないことの理由が見えないということにもなる。当然といえば当然、集団的制作が平等を重んじていれば、それだけ全体を統轄する強い方向性は生まれないだろう。それにしても、白血病の野良猫とアパートの住民との交流という小さな、しかし潜在力のあるお話に彼らの方法が接続しないままだったということが、なにより惜しかった。

快快-faifai- 『アントン、猫、クリ』予告編  "Anton,Neko,Kuri" Trailer

2012/02/17(金)(木村覚)

2012年03月01日号の
artscapeレビュー